今、キリスト教徒は『パウロ・キリスト教』を信仰している。

 題:今、キリスト教徒は『パウロキリスト教』を信仰している
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 古代社会に於いては、
 ユダヤ教徒だけではなく、
 多くの民族が、
 動物を犠牲として神々に捧げ、
 その血によって「罪が贖(あがな)われる」という観念が、
 広まっていた。
 古代人の誰の頭にも、その観念は頭の中にあった。
 キリスト教には、
 この古代人の巷(ちまた)の観念「動物の血を人の代わりの
血として、神々に捧(ささ)げれば、神々の怒りは治(おさ)
まり、人々への災いが降りかかる、災難から逃れられるという
観念・信仰」があった。
 キリスト教は、この古代人の持っていた観念を、
 化石の様に持ち続け、
 「現代社会ででも持っているという宗教」だ。
 そしてまた酷(ひど)いことに、
 キリスト教は、
 この古代人の迷信の「動物の血で厄災(やくさい)を免
 (まぬ)がれる事が出来る」とした事を、
 「イエスの血でもって厄災から逃れる」とした。
 あたかも、イエスは、
 「動物の代わりに使われてしまった」如(ごと)くのにした
宗教となった。
 パウロが、酷(ひど)い男なのだ。
 この様に企画し、設定したのは、パウロだった。
 だから、パウロは、「イエスの言葉や行動は必要ないのだ」
と言う。
 マルコは、怒ったのである。
 マルコは、「イエスの言葉や行動に立ち返らなければならな
いのだ」と言った。
 そして、「マルコによる福音書」を書いた。
 路線争いである。
 最初の福音書記述者・マルコは、マタイの次にされてしまっ
た。(キリスト教聖書を見て下さい。キリスト教聖書は「恥
(はじ)さらしな、恥(は)ずかしい事をしております)。
 パウロは、イエスを、『血の生け贄(いけにえ)の宗教設定』
に使ってしまえば、『イエスの言葉や行動は不用』。『必要無
いのだ』という考え。
 「コリントの信徒への手紙1」にも書いている、パウロは、
エスの言葉や行動は不要だと。
 しかし、今、キリスト教徒たちは、このパウロによる、パウ
ロが宗教企画したキリスト教を信仰している。
 『パウロキリスト教』を信仰している。
 (参考)やく‐さい【厄災】 わざわい。災難。災厄。