(増補版)429E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年7月〜1886年7月)

題:(増補版)429E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年7月〜1886年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1886年7月19日、東海道経由に変更
  関東〜関西間の鉄道計画を、中山道から東海道路線に
 変更した。
  東京と大阪を結ぶ幹線を、工期が半分に抑えられると
 して、東海道経由に変更すると公布された。
  中山道経由は、全体に山岳区間で難工事が予想された
 という理由だった。  
  高崎〜横川間開通(1885年)
1886年7月20日、地方官官制が公布され、府知事・県令の名
 称を知事に統一した。
1886年7月22日、モッセが、町村制に関する意見書を提出し
 た。
  ドイツの公法学者の御雇外国人アルベルト・モッセは、
 内相の山形有朋の諮問に答えて、市制・町村制に関する
 意見書を起草した。
  これを契機として、町村合併による改革が図られ、
  これが、地方制度の骨格となった。
  (1884年4月に、制定公布された)
  そして、地方行政制度の創設や、両院同権の二院制、
 制限間接選挙制、憲法制定について助言して行く、
  1890年に、帰国した。
  因みに、1882年〜1883年、憲法取調べ(調査)のため
 渡欧した伊藤博文に、グナイストの推薦で、憲法と行政
 法を詳述した。
  これが、『莫設(モツセ)氏講義筆記』となった。
1886年7月24日、監軍本部が廃止された。
  監軍部(かんぐんぶ)は、日本陸軍の組織で、二つの
 同名称の組織があり、
  第一次は、師団司令部の前身といえるものと、
  第二次は、教育総監部の前身。
  1878年明治11年)12月13日、監軍本部条例(太政官
 第52号達)により「監軍本部」が設立された。
  監軍本部は、師団司令部の前身といえるもので、本部
 を東京に置いた。
  そして、各軍管を管轄した。
  1885年(明治18年)5月18日、監軍部条例の制定により
 監軍本部を「監軍部」と改称し、
  1886年明治19年)7月24日のこの時、廃止された。
  そして、1887年(明治20年)6月2日、監軍部条例(勅
 令第18号)が制定され、
  教育総監部の前身である第二次「監軍部」が設置され
 た。
  任務は「陸軍軍隊練成ノ斉一ヲ規画」する陸軍の教育
 を担当した。
1886年7月26日、亡命中の朝鮮独立運動の志士・金玉均が、
 日本に遊説中に、神奈川県において拘留の難に遭った。
  理由は、外交上問題を起こす可能性として拘留された。
  俊英だった彼は、22歳で科挙に合格し、
  中堅官僚として、近代化を推進するために、開化思想
 に目覚めていった。
  1882年(明治15年)年2月〜7月にかけて初来日し、大
 阪に滞在した。
  福沢諭吉ら多くの支援者と出会う。
  既に、朝鮮からは前年の1881年明治14年)に2名の留
 学生が慶應義塾で学び、1名が同人社に入学していた。
  1884年明治17年)12月4日に、金玉均らは、クーデタ
 ー(甲申事変)を起こした。
  しかし、清国の介入で失敗。
  そして、日本に亡命。
  亡命中は、日本政府は、国際関係を配慮して中立、
  しかし、玄洋社頭山満ら多くの支援者に出会った。
  そして、この年・1886年、日本に居る状態は、庇護し
 ている状態となっているため、外交上の事もあり、
  6月に国外退去も伝えた・・が、横浜へ向かって、治外
 法権だった横浜居留地内(グランドホテル)に留まった。
  日本政府は、退去命令を出した。
  そして、神奈川県令が本人に令達するが、本人は拒否
 した。
  約1ヶ月半の後、グランドホテルで拘致(こうち、捕ら
 えて連れて来ること)し、
  野毛山の三井別荘に拘留された。
  その後、金玉均は、国外追放にはならず、小笠原で生
 活した。
  体調を崩したので、一時、北海度に行き、
  また、内地で暮らす事が許された。
  支援者とも交流した。
  そして、1894年(明治27年)周囲の制止を振り切り上
 海へ渡る、この地で暗殺された。43歳。
  日本人妻が居た。
  暗殺者は洪鐘宇。
  暗殺者は、逮捕後に朝鮮政府の交渉により釈放された。
  福沢諭吉は、上海で暗殺された金玉均の供養のため、
 法名もつけてもらい、篤く葬った。
  法要も、諭吉邸で営まれ、遺髪などを持ち帰られて、
 葬儀も営(いとな)まれた。
  墓所は、東京文京区の真浄寺。
  また、友人・有志が、青山にも墓地を建てた。
  墓碑には、朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李筇
 鎔の書で・・以下が刻まれた。
  「嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非
 常之死(以下略)
  (ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな
 功績を残せず 無情の死・・)
  尚、金玉均の朝鮮における妻子は処刑されたとも、逃
 亡したとも言われていたが・・?
  1894年(明治27年)に、日本軍が、偶然、忠青道で発
 見した。
  妻子二人は、憐れむべき姿だったという、
  そして、朴泳孝、徐光範が預かることとなったが、
  この妻子は、金玉均が暗殺されたことも知らなかった。
  日本政府にとって、初めての政治亡命の受入れ者だっ
 た。
  因みに、暗殺者の洪鐘宇は、朝鮮へ帰国後に高宗から
 激賞され、守旧派の一員として要職に就いた。
  そして、開化派を弾圧した。
  だが、甲午農民戦争後に、日本が圧力を強めたことか
 ら1903年に失脚し、済州島に流され、それから10年後に
 没した。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカ本土爆撃
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1942年4月21日、アメリカ合衆国本土への爆撃へ
  この日、軍令部に呼び出された藤田信雄(日本海軍軍
 人)は、
  その場で、首脳部より単独によるオレゴン山中への空
 爆命令を拝した。
  藤田の操縦の腕を買われたものだった。
  藤田には、この作戦で生還する自信がなく、出発前日
 の1942年8月14日に、家族に宛てた遺言書を残している。
  1942年8月15日、藤田は、横須賀より伊25でアメリカへ
 と向かった。
  1942年9月9日(水曜日)の午前6時、日本海軍の潜水艦・
 伊25は、カリフォルニア州オレゴン州の境界線の西側
 に浮上した。
  藤田と奥田兵曹が搭乗するEY14は、2個の焼夷弾(合計
 155キログラム)を積み飛び立った。
  (日本は、潜水艦から飛行機が飛び立てる技術を持っ
 ていた)。
  藤田の投下した焼夷弾のうち1個は、オレゴン州のエミ
 リー山脈のホイーラーリッジに落ちている。
  もう片方の爆弾の落下地点は不明である。
  ホイーラーリッジに落ちた焼夷弾により、ブルッキン
 グズの東約15キロの地点で、小規模の火災が発生したが、
 アメリカ林野部によってすぐに鎮火された。
  その前夜に雨が降っていたため、森林は、とても湿っ
 ており、結果として爆弾の効力はほぼなくなっていた。
  帰国後、藤田は、上官より「木を一本折っただけでは
 ないか」と叱責されたという。
  藤田の乗った飛行機は、シスキュー国有林の監視台に
 いた2人の男性、ハワード・ガードナーとボブ・ラーソン
 によって発見される。
  他の監視役(チェクトポイント監視台とロングリッジ
 監視台)は、敵機来襲を報告したものの、濃霧のためそ
 れを確認することはできなかった。
  また、藤田機は、ブルッキングズを通過した際にも、
 多くの人々に目撃されている。
  同日正午ごろ、エミリー山脈の監視台にいたハワード・
 ガードナーが、煙が上がっていることを報告し、
  4人のアメリカ林野部の作業員によって、この火災が、
 日本の爆弾によって引き起こされたものであることが判
 明した。
  その後、爆弾の先端部分を含む約25キログラムの断片
 が、アメリカ軍に引き渡された。
  爆撃実施後、伊25は、警戒中のアメリカ陸軍航空軍の
 航空機によって攻撃を受ける。
  オレゴン州ポートオフロードの海底に潜っていた潜水
 艦の支援を受けてのものだった。
  アメリカ軍の攻撃によりいくらかのダメージを受けた
 にもかかわらず、3週間後の9月29日、藤田は、2回目の爆
 撃を行うため出撃する。
  ケープブランコ灯台を目印にし、東への90分後のフラ
 イトの間に、藤田は、爆弾を投下し、炎を見たと報告し
 たが、
  爆撃は、アメリカ側には認知されることなく終わった。
  伊25は、SSカムデンとSSラリー・ドヘニーを撃沈し帰
 還した。
  日本へ帰る途中、アラスカ州ダッチハーバーとカリフ
 ォルニア州サンフランシスコの間を通行中だったソビエ
 ト連邦の潜水艦L-16を、
  アメリカの潜水艦と間違えて撃沈した。
  (当時、日本とソ連は日ソ中立条約を結んでおり、戦
 争状態になかった)。
  1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、
 アメリカ合衆国本土に対する『史上唯一の航空機による
 爆撃』である。
  藤田は、その後も、偵察を主な任務として、日本海
 のパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進した。
  1943年(昭和18年)9月1日より、鹿島海軍航空隊に着
 任、航空隊付教官となった。
  藤田は、1945年(昭和20年)2月16日に、速度性能と武
 装で決定的に不利であった零式観測機で、
  グラマンF6Fを迎撃し、格闘性能を活かして、1機を未
 確認撃墜(藤田は、撃破を確認、近隣の香取空がF6Fの墜
 落を確認)するという戦果を上げた。
  (ただし、藤田と同時に迎撃した5機の零式観測機と2
 機の二式水上戦闘機の大半は撃墜されている)。
  終戦直前に、特別攻撃隊に志願し、第二河和海軍航空
 隊へ異動、
  教え子だけでは無く、藤田自身が特攻隊として突入す
 ることを想定して、自身も訓練を行った。
  訓練は、強風を使用しており、胴体が太く前方視界が
 悪い所為か、飛行経験が浅い搭乗員達には離着水が難し
 く、技量の向上は思うように進まなかったが、
  当時、第二河和空にいた皐月雅昭一飛曹によると、「
 藤田中尉は何でもないように飛び上がり、直ぐに、スタ
 ントを始めた」と記している。
  終戦後、藤田は、特務士官たる海軍中尉に昇進した。
  因みに、藤田信雄氏は、1997年9月30日に、満85歳で没
 した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive