(増補版)452E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月〜1887年7月)

題:(増補版)452E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月〜1887年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年6月30日、海軍大臣西郷従道が、欧州視察から帰朝
 した。
  この頃、この西郷従道1886年7月〜1887年6月)の他、
  1882年〜1883年の憲法調査の伊藤博文
  1884年2月〜1885年1月の軍事視察団(大山巌桂太郎
 三浦梧楼、野津道貫など)
  1886年2月〜1887年2月の鳥尾小彌太
  1886年3月〜1887年6月の谷干城
  1886年6月〜1887年4月の黒田清隆
  1887年9月〜1888年10月の樺山資紀
  1888年12月〜1889年10月の山形有朋・・など洋行が相
 次いだ。
  西郷従道(さいごうつぐみち)は、外国の勲章を多く
 受賞していた。
  1880年明治13年)6月15日、フランス共和国、レジオ
 ンドヌール勲章グランドフィシェ
  1882年(明治15年)2月2日、ロシア帝国、1等聖アンナ
 勲章
  1887年(明治20年)7月5日、ロシア帝国、白鷲勲章
  1887年(明治20年)7月11日、ドイツ帝国、赤鷲第一等
 勲章
  1887年(明治20年)8月30日、イタリア王国、イタリア
 王冠勲章、グラン・クローチェ
  1887年(明治20年)8月30日、ベルギー、レオポルド勲
 章、グランドコルドン
  1887年(明治20年)10月30日、ポルトガル王国、キリ
 スト勲章大十字章
1887年6月、伊藤博文首相、伊東巳代治、金子堅太郎などと
 ともに神奈川県夏島で憲法起草開始した。
1887年6月、小荷物の配送を開始した。
  新橋と横浜の両駅で、小荷物の配送が始まり、内国通
 運に配達事務を委託した。
1887年6月、二葉亭四迷の「浮雲」が、1889年にかけて、発
 表された(長編小説)
  言文一致の文体(ダ体)で書かれた日本の近代小説の
 始まりを告げた作品で、四迷の代表作。
1887年7月1日、日本薬局法が施行された。
  日本の薬事法の歩みは・・、
  1716年、徳川吉宗による享保の改革(1716年〜1745年)
   において医療に使われる薬品の品質に対する関心が
   高まり、
    江戸・駿府・京都・堺・大坂の5ヶ所に薬品検査所
   として「和薬改会所」を設置し、検査に合格した薬
   品以外の販売を禁じて品質の確保を図った。
    このことが、日本の政府による薬品取り扱い規制
   の始まり。
    そして、文明開化の影響を受けた西洋医学重視の
   政策によって、
  1870年(明治3年)に、「売薬取締規制」が制定され、
   越中富山の薬売りや漢方薬に代表される従来の薬品
   産業を中心に、大幅な規制が実施された。
  1873年明治6年)に、続けて、「薬剤取締之法」を施
   行し、現在でいうところの薬局・薬剤師や薬価制度、
   そして、医薬分業の基礎がそれぞれ成立した。
  1877年(明治10年)に、明治政府は、「毒薬劇薬取締
   規則」を施行、そして
  1880年明治13年)には、これを「薬品取締規則」へ
   改正し施行した。
    この規則では、毒薬劇薬の概念が導入された。
  1880年明治13年)10月、衛生局長長与専斎の建議に
   も基づいて日本薬局方が制定され
  1886年明治19年)6月、内務省令をもって初めて日本
   薬局方が発布され、この年の施行に
    日本薬局方編集総裁、および、委員は、
   総裁=元老院幹事・細川潤次郎、
   委員=陸軍軍医総監・松本順、同軍医監・林紀、海
   軍軍医総監・戸塚文海、一等侍医・池田謙斎、内務
   省衛生局長・長与専斎、東京大学医学部教授・三宅
   秀、海軍中医監・高木兼寛、陸軍二等薬剤正兼二等
   軍医正・永松東海、柴田承桂、東京司薬場教師オラ
   ンダ人・エーキマン、横浜司薬場教師オランダ人・
   ゲールツ、東京大学医学部教師ドイツ人・ベルツ、
   および、ランガルト、オランダ人・ブッケマン
  1887年のこの時、「日本薬局方」が施行された。

1887年7月2日、東京〜各鎮守府間、各鎮守府〜各鎮台間の
 道路を国道に編入する件が公布された。
  明治20年7月2日勅令第28号
  朕鎭守府ニ達スル道路ヲ國道ニ編入ノ件ヲ裁可シ茲ニ
 之ヲ公布セシム
  内閣總理大臣 伯爵伊藤博文、内務大臣 伯爵山縣有朋
  陸軍大臣 伯爵大山巖、海軍大臣 伯爵大山巖
  東京ヨリ鎭守府ニ達スル道路及鎭守府ト鎭臺ト拘聯ス
 ル道路ハ自今國道ニ編入
1887年7月3日、谷干城(たにたてき)が、政府批判意見書
 を提出した。
  農商務大臣の谷干城は、裁判管轄条約案に反対し、「
 条約改正は、国会開設後に延期せよ」との意見書を総理
 大臣の伊藤博文に提出し、1887年7月25日に辞職した。
  その内容は、内閣、外交、行政など多岐にわたってい
 る。
  その一例をあげれば・・、
  言論に関しては、「政府官吏は、自ら進んで新聞や、
 演説にて討論すべきであり、
  それによって人心が活発になり、腐敗の世態が回復す
 るであろう」と述べている。
  また、倫理に関しては、「官禄に衣食するものは上 
 陛下の聖意を思い、下は人民の休戚(きゅうせき、喜び
 と悲しみ。幸と不幸)をおもい、戦々兢々(せんせんき
 ょうきょう、おそれて、びくびくするさま)ただその責
 任の尽くせないことを恐れるべし」・・と述べている。
  後・1890年7月10日に、貴族院議員となり、地租増徴に
 反対するなど独自の政治運動を展開した。
  国粋主義農本主義的立場から、薩長藩閥とも、また、
 板垣退助ら自由民権派とも異なる、保守的な中正主義で、
 土佐派の重鎮として重きをなした。
  地租増徴案は、地租が、2.5%から3.3%に引き上げら
 れた。
  これは、1897年に、松方内閣が六六艦隊計画などに必
 要とされる予算確保のためだった。
  因みに、土佐藩上士の谷は、同じ藩の郷士と呼ばれる
 下士出身者である坂本龍馬を厚く尊敬した。
  また、1867年(慶応3年)に、龍馬が暗殺されたときに
 は、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡
 慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、
  生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったという。
  流山で捕らえた新撰組局長であった近藤勇の尋問につ
 いて、薩摩藩と殊更対立したが・・、
  斬首・獄門という惨刑に処したのも谷であるが、彼に
 とっては龍馬の敵討ちであった。
  因みに、江戸時代でも、武士の名誉を重んじて、切腹
 が一般的であり、また、獄門(つまり、さらし首)も行
 わなかった。
  1911年(明治44年)2月9日、勲一等旭日桐花大綬章
  1911年4月15日、正二位
  1911年5月13日、死去、享年74歳。
1887年7月7日、横浜正金銀行条例が公布された(7月6日説
 あり)
  この条例が制定されて、同行は、半官半民の特殊銀行
 となり、
  政府の監督保護と、日本銀行による低利融資を受けて、
 外国為替(かわせ)銀行として、国際金融の中心に位置す
 ることとなった。
1887年7月8日、「國道表」に、国道47号「東京より佐世保
 鎮守府に達する路線」が追加された。
  この路線は、国道4号(現1号・2号ほか)を経由し、武
 雄で分岐して佐世保に至るもので、武雄と佐世保とを結
 ぶ国道35号の起源となる。
  これは、1920年大正9年)旧47号が、そのまま国道33
 号「東京市より佐世保鎮守府所在地に達する路線」とな
 った(施行の旧道路法に基づく路線認定による)
  そして、1952年(昭和27年)12月4日、新道路法に基づ
 く路線指定で、旧33号が一級国道35号(佐賀県杵島郡
 雄町 - 長崎県佐世保市)に指定され、
  1965年(昭和40年)4月1日、道路法改正によって一級、
 二級の別がなくなり一般国道35号となった。
1887年7月8日、特使が、板垣退助の旅館に臨み、辞爵上表
 を返戻(板垣退助が、天皇陛下の恩に感激して、受爵を
 決意した)
1887年7月11日、横浜駅国府津駅間が開業した。
  東海道線の初代横浜駅国府津駅の間の鉄道路線が開
 通した。
  そして、この2年後の1889年に、国府津駅から御殿場駅
 沼津駅を経て、静岡駅までが開通したが、
  国府津駅から御殿場駅までの区間の勾配がきついため、
 列車を後押しする機関車を連結することとなり、
  国府津駅は、機関車の基地として重要な役割を有する
 こととなった。
  しかし、後に、御殿場回りのルートは、勾配がきつい
 ため、速度向上のネックとなり、
  また、トンネル掘削技術が向上したことによって、熱
 海を経由する新しい路線を建設しようとの機運が高まっ
 た。
  そして、1920年に、熱海線として国府津駅小田原駅
 までが開業した。
  そして、1934年12月になると、丹那トンネルが完成し
 熱海〜沼津間が開通した。
  これを機に、新線と熱海線が東海道本線編入され、
 東海道本線は、御殿場駅経由から熱海駅経由に変更され
 た。
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  (今日の言葉)
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  題:卑劣なイギリスの「目には目を」の捕虜虐待
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1945年、日本人捕虜虐待をイギリスが行なった。
  この虐待は巧妙になされた。
  明らかに仕返しの日本人捕虜の全員死亡の虐待だった。
  しかし、この行為は、何ら裁かれずに済まされた。
  「東京裁判」ではないが、「ロンドン裁判」をすべき
 だった。
  日本人捕虜が、食事にもろくに与えられず、イギリス
 軍の捕虜として収容所に入っていた。
  その場所は、潮が満ちて来ると、潮が来て、横になっ
 て寝る事の出来ない最悪な劣悪な場所だった。
  もうこれだけで、捕虜虐待の明らかな状態だった。
  イギリス軍は、この様な劣悪の場所に、わざわざ日本
 人捕虜を収容した。
  これだけでも非人道的な捕虜の取り扱いである。
  湿って、乾燥しない不衛生な場所で、日本人捕虜は、
 大勢が不衛生な故に病気になり死んだ。
  可哀想な状況の中で殺されて行った。
  この様に、真綿で首を占める様に、じわじわとイギリ
 ス軍は、日本人兵捕虜を死に至らしめる扱いをした。
  明らかに、これだけで、完全な捕虜虐待であった。
  日本兵の場合は、多くの兵が、戦争が終わって、「捕
 虜虐待をしたとして死刑にされた」。
  この様にされなければいけないイギリス兵やアメリ
 兵が居る。
  この時のイギリス兵は、何もなかったかのように平然
 としていた。
  事情が分かっているのに・・、
  完全に死に至る劣悪な環境に置いておきたかったから、
 改善する気もなかった。
  このイギリス軍の卑劣な行為には、復讐の意味があっ
 た。
  この日本兵たちは、「クワイ河で、イギリス兵を使っ
 て鉄道建設をして、イギリス兵が亡くなったことの復讐
 したのだった。
  イギリス兵は、ほんの数パーセントだったのだが、イ
 ギリスだけが、この様な卑劣なクワイ河の仕返しをした。
  キリスト教の「目には目を」である。
  この日本兵は、そのクワイ河の場に所属した兵たちだ
 った。
  この時は、同じ様に日本の工兵や鉄道隊が死んでいる
 のだ。
  イギリス兵捕虜などを虐待した訳ではなかったのにだ。
  本当に、イギリスは、陰湿で執念深い性質だ。
  そして、このイギリスの更に卑劣なことは、この日本
 兵たちを、ひもじい、最低限の状態にした。
  食事の必要量を与えなかった。
  それは、ある目的のためにイギリスはした。
  その、さらに酷(ひど)い目的は・・
  それは、潮が引くと、この捕虜たちが居る湿った地に
 「カニ」が上がって来た。
  しかし、このカニは、食べてはいけなかった。
  イギリスは、それを知っていて、わざわざ日本兵捕虜
 をここに収容したのだった。
  このカニには、赤痢菌が居て、食べると、酷い下痢と
 なり、その下痢に苦しみながら、悶え死ぬのだった。
  その事は、日本兵も知っていた。
  イギリス兵たちも知っていて、それを高みの見物をす
 るイギリスの陰湿な卑劣さだった。
  だから、日本兵捕虜に、ろくに食事も与えなかった。
  イギリス兵は、どうなるかという事も知っていて、日
 本兵をその様な状態に置いた。
  イギリス兵たちは、沖の日本兵たちを見ていた。
  ただただ、毎日、見ていた。
  日本兵を双眼鏡で見ていた。
  日本兵がどうなるかが知っていた、そして、その様に
 なるのをじーっと見ていた。
  食事を不十分な状態にして「ずーっと」苦しませ、
  そして、カニを食べて、日本兵たちが悶え死ぬ姿を見
 ていた。
  復讐は叶った・・日本兵捕虜は、全員、死んだ。
  しかし、『イギリスの名誉は失った』。
  その場の、死に至る場所・アウシュビッツの様な卑劣
 な非人道的な場所に入れられた日本兵たちは、イギリス
 の名誉を消して、全員、死んで行った。
  その様になる道しか残されて無い状況だった。
  その様になる量の食べ物しか与えられなかったから、
 当然、そうなったのだった。
  当然、そうなるようにイギリスは捕虜虐待をしていた。
  また、その様に湿った劣悪な場所は、焼いたり、煮た
 りできない最悪な場所だった。
  焼いて食べれば、イギリスの目的は達せられないので、
 その様な事が出来ないことを承知で、日本兵捕虜を、こ
 こに収容したのだった。
  キリスト教による『魔女虐待』もまったく同じような
 やり方だった。
  魔女にされた女性を、町の広場に連れ出し、周りから
 町の人々が、衆目が見る中で、焼き殺した。
  それも、一気に燃えるような木ではなく、火あぶりに
 した。
  生木でじわじわと焼く、陰湿な殺人行為が、キリスト
 教によって行われた。
  イギリスも同じことをした。
  また、インドでは、並木道の木という木に、インドの
 方々を何日も吊るして、インドの方たちが見ている中で
 殺したが・・こんな事ばかりしている・・、
  (参考):「戦場にかける橋」
  1957年に、アメリカによってつくられた映画「戦場に
 かける橋」は、事実と違う。
  まったく、嘘話が美しく作り上げられている。
  日本は、映画によって悪くプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れている。
  日本は、日本人だけでなく、多くの現地の方々、また、
 イギリス兵を含めた捕虜の方々を、差別することなく、
 慰霊している。
  そして、この映画の嘘は・・、
  (1)橋の構造・材質が全く違う・・、映画は、木の丸
 太である木造橋であるが、
  実際は、コンクリート橋脚の立派なトラス鉄橋である。
  (2)設計者を違えて、日本の素晴らしさを隠し、その
 日本の良さを奪っている・・、
  映画は、イギリス兵捕虜だとしている・・日本が出来
 るという能力は無いように描いている、日本が出来ない
 ので、イギリスに頼むようにしている、まったく卑劣で
 ある・・日本が出来ない様に描いているが、
  実際は、日本軍の鉄道隊で、立派に日本が設計をして
 技術力は十分ある事を示している。
  それも、鉄とコンクリートの立派な構造である。
  だから、イギリス兵捕虜などは、まったく設計に関与
 していない。
  今・現在でも、イギリスとフランスの海底トンネルを
 作ってやったのは日本である・・日本の技術である。
  イギリスが出来ないから、日本に頼んで来たのである。
  建設したひとたちは、映画は、イギリス兵捕虜だけで
 作ったように描がいている・・これは、ひどい嘘だ。。
  こんなことはあり得ない・・常識で分かる・・よくこ
 んな作り方をする程度の悪い映画だと思う・・まったく
 ひどい嘘だ。
  実際は、日本人15000人、ビルマ人90000人、マレー人
 75000人、以上で、全体の74.5%の携わった人たちで、
  この人たちが建設の主体だったのだ、主力だったのだ。
  残りが、お手伝いの白人捕虜である・・、
  イギリス人30000人、アメリカ人700人、オランダ人
 18000人、オーストラリア人13000人である。
  (データー:現地のビルマ・マレーの方々が68.3%、
 白人が25.5%、日本人が6.2%)
  因みに、この映画を作ったアメリカ人は、0.3%弱と
 ほとんど居ない。
  今、ここに、観光客が来るので、この橋の名前を映画
 に近い名に変えたが、映画で名付けた「クワイ河橋」で
 はなく、「メクロン河永久橋」が本当の名前。
  これ等のデーターは、当時、日本陸軍の通訳として、
 この地に勤めていた方のデーターであるから正確である。
  映画は、まったく誇張されているという。
  話が作られているという。
  ノンフィクション的に思われるが、完全な造りものの
 フィクションだという。
  適当な尾ひれがついていて整合性もないという。
  当時から、クワイ河などという名はなく、まったく関
 係ない名がつけられている所からして、この映画のいい
 加減さが分かろうという。
  また、関係なく作られた名前ということで、その映画
 の中味も想像が出来よう・・という。
  しかし、上記のイギリスの日本兵捕虜の虐待の話は、
 真実である。
  イギリスの捕虜収容所に居て、捕虜だった日本兵捕虜
 の作者が書いている事で、真実だからだ。
  そして、映画は、脱走して北へ向かって、海に出たと
 なっているが、まったく現地の地形を無視している。
  これでは、川の水が下流から上流に流れる話になって
 しまうという。
  この様に、事実ではない点が多く、映画は、戦争の事
 実を調べて、そして、作られたというものでない。
  『まったくのフィクション』である。
  面白く描いて映画にしただけのものである。
  名前が「永久橋」と付けられている事からも分かるよ
 うに立派な頑丈な橋で、
  映画の木の橋で、木っ端みじんは「映画の作り過ぎ」。
  そして、死者は、日本兵も、日本の工兵も鉄道隊も死
 に、何しろ%の多い現地の方々の死が一番多いのである。
  そして、日本軍鉄道隊は、立派な大きな慰霊碑を、
 1944年(昭和19年)2月に建てて、働いた方々の死への慰
 霊をしている。
  また、、広大な戦没者墓地も作って、死者を丁寧に弔
 い埋葬している。
  逆に、こんなところまで、イギリスは、したのでしょ
 うか?
  そして、この慰霊碑の裏面には、霊を慰める文字も刻
 まれ、永久に顕彰(橋建設の労苦を世界に示している)。
  映画の影響で白人観光客が多い状況だという。
  しかし、日本が悪者に作り上げられている映画のフィ
 クションは正されず、真実が正しく伝わっていない。
  今、この鉄道橋は、1日に2〜3往復の本便が走っている。
  その間に、観光客用のトロッコ列車が往復していると
 いう。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive