(増補版)455E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年9月〜1887年10月)

題:(増補版)455E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年9月〜1887年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年9月26日、日本・タイが修好した。
  この日に「日暹(にちせん)修好通商に関する宣言」
 (日タイ修好宣言)が調印されて、
  日本とタイとの間に、正式な外交関係が開始された。
  日本とタイ間の外交関係は、両国の王室・皇室間の親
 密な関係も基礎となっていて、
  また、活発な要人往来や、幅広い人的交流の拡大とも
 なっている。
  そして、持続的な日本の直接投資や両国間貿易にみら
 れる緊密な経済関係もより大きな両国関係を築いている。
1887年9月、「日本の女子(日本之女学)」が創刊された
 (8月説あり)
  この頃の、女性誌の主な創刊を見ると・・、
  ・女学新誌 (じょがくしんし):1884年明治17年)6
   月、修正社
  ・女学雑誌 (じょがくざっし)1885年(明治18年)7月、
   万春堂
  ・女学叢誌 (じょがくそうし)1885年(明治18)年12月、
   績文舎
  ・以良都女 (いらつめ)1887年(明治20年)7月、
   成美社
  (女子教育を論じ、婦徳を高め、その地位の向上を期
   すると共に、言文一致の文体を世にひろめることを
   主としていた)
  ・日本之女学、1887年(明治20年)9月
  ・東京婦人矯風雑誌、1888年明治21年)4月
  ・婦人教育雑誌1888年明治21年)5月
  ・日本新婦人、1888年明治21年)9月
  ・文明の母、1888年明治21年)10月
  ・大日本婦人教育会雑誌、(明治21年)12月
  ・国乃もとゐ (くにのもとゐ)1889年(明治22年)4月、
   興文社(日本婦人雑誌系列)
  ・女学生1890年(明治23年)5月
  ・婦女雑誌、1891年(明治24年)1月
  ・花乃園生、1891年(明治24年)2月
  ・女鑑、1891年(明治24年)8月
  ・女権、1891年(明治24年)9月
  ・家庭雑誌、1892年(明治25年)9月
  ・うらにしき、1892年(明治25年)11月
  ・婦人衛生会雑誌、1889年(明治22年)5月
  ・婦女雑誌 (ふじょざっし)1891年(明治24年)1月、
   修正社
  ・婦人弘道叢記、1894年(明治27年)10月
1887年9月:日本麦酒醸造会社が設立された。  
  工場地購入(1888年
  恵比寿ビール発売(1890年)
1887年9月、沖縄県尋常師範学校に、天皇・皇后両陛下の御
 真影が下付された。
1887年10月3日、後藤象二郎が、大同団結運動推進のために
 丁亥倶楽部(ていがいくらぶ)を結成目指し、
  4日に、各党関係者が協議した(〜1889年)
  (1890年の国会開設が間近になり、民権運動の再興が
 急務となった。
  1886年10月、旧自由党立憲改進党の有志が、全国有
 志大懇親会を開き、小異を捨てて大同につくことを確認
 しあったのが端緒だった。
  そして、その翌年・1887年、井上馨(かおる)外相の条
 約改正案の屈辱的内容が暴露されると、両派は提携し、
 全国各地で、条約改正中止建白運動を展開した。
  それは、さらに地租軽減、言論・集会の自由をあわせ
 た三大事件建白運動に発展し、
  建白書提出委員が続々上京した。
  往年の民権運動の全盛期を再現するに至った。
  こうした下で、同年・1887年10月、後藤象二郎(しょう
 じろう)は、丁亥倶楽部(ていがいくらぶ)を設立し、
  全国同志の団結を呼びかけた。
  旧自由・改進両党有志の懇親会と、それに続く丁亥倶
 楽部の設立に始まると、古老財産家と壮士とが結合し、
 議会政治を実現することを訴えた)
  大同団結運動は、後藤象二郎、星亨、中江兆民らによ
 って進められた自由民権運動後期の政治運動(統一運動)
 だった。
  この運動は、当初、星・中江らが、主に旧自由党員に
 「小異を捨て大同団結する」ことを求める呼びかけを起
 すことに始った。
  翌・1888年2月に、改進党の実質的党首の大隈重信(お
 おくましげのぶ)が外相に就任し、運動の分断が策された。
  同年・1888年、後藤は、大同団結を唱えて地方遊説を
 行い、雑誌『政論』を発行し、地方名望家層の政党への
 組織化を図った。
  しかし、改進党系の多くは、この動きに加わらず独自
 の組織化に着手したため、旧自由党系中心の運動に転化
 した。
  しかも、1889年3月、後藤自身が、逓(てい)相に就任し、
 運動から退くと、
  直前の恩赦で、多くの有力民権家が出獄し、指導者に
 迎えられたこともあって、運動は分裂し、大同倶楽部
 大同協和会が発足した。
  ここに、大同団結運動は完全に終焉(しゅうえん)した。
1887年10月4日、東京音楽学校が設立された(10月5日説あ
 り)
  この年に、上野の東四軒寺跡地に開校した日本で最初
 の音楽専門学校で、
  初代校長は、音楽取調掛長であった伊沢修二
  文部省図書取調掛を東京美術学校とし、音楽取調掛を
 東京音楽学校とあらためた。
  両校は、後の東京芸術大学の前身。
   1879年に文部省に設置された音楽取調掛は、勅令第五
 十一号、および、文部省告示第九号によって、東京音楽
 学校と改称された。
  この日本初の音楽学校の誕生にあたって、大きな役割
 を果たしたと言われるのが、1886年に、文部大臣・森有
 礼に提出された「音楽学校設立ノ儀ニ付建議」だった。
1887年10月5日、文部省に専門学務局と普通学務局が設置さ
 れた。
  文部省官制はしばしば改正された。
  この明治二十年(1887年)十月、文部省官制の改正に
 より、学務局を廃止して、専門学務局・普通学務局の両
 局を設置し、
  明治二十三年(1890年)六月には、編輯局を廃して、
 総務局の中に図書課を置き、従来編輯局が扱っていた教
 科用図書規定・図書の編集・飜訳などの事務を処理させ
 ることとした。
  二十四年(1891年)七月には、各省官制通則の改正に
 よって総務局が廃止され、
  また、文部省官制の改正で会計局が廃止されたので、
 文部省の機構は大臣官房のほか専門学務・普通学務の両
 局を残すだけとなった。
  (文部科学省のホームページを参考にした)
1887年10月5日、東京音楽学校が開校した。
1887年10月5日、図画取調掛を東京美術学校と改称し設立さ
 れた。
  この年に東京府に設立された官立(唯一)の美術専門
 学校で、略称は「美校」。
  日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、
 当初は、文人画を除く伝統的日本美術の保護を目的とし
 たが、
  その後、西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も行
 うようになった。
  修業年限5年のうち、最初の2年を基礎実技と学科を担
 当する「普通科」、後の3年を専門科目を担当する「専修
 科」とした。
  1886年明治19年)〜翌・1887年にかけて、文部省図
 画取調掛委員として岡倉覚三(天心)、および、フェノ
 ロサは、欧米調査旅行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 ものであったが、
  美術学校の組織管理、および、学科教授法も含まれて
 おり、2人の報告に基いて、
  1887年10月、勅令によって図画取調掛、および、工部
 大学校内「工部美術部」を統合・改編して、東京美術
 校が設立された。
  1889年2月の開校後、1890年に就任した岡倉覚三(天心)
 が事実上の初代校長であった。
  副校長はフェノロサが務めた。
  1949年に、音楽取調掛から東京音楽学校に改称した学
 校と共に、両学校が統合され「東京芸術大学」になった。
1887年10月7日、日本初の上水道が、横浜で給水された(10
 月17日説あり))
  横浜に上下水道が完成した、給水人口は10万人。
1887年10月8日、陸軍大学校条例が公布された。
  陸軍大学校(りくぐんだいがっこう)は、大日本帝国
 陸軍の参謀・高級将校養成教育機関軍学校)。
  略称は陸大。
  1882年(明治15年)に、「陸軍大学校条例」が制定さ
 れて創設され、教官にはフランス軍将校があたっていた。
  1883年(明治16年)4月に、赤坂の参謀本部敷地内に、
 生徒10人で開校した。
  1884年明治17年)には、ドイツ帝国陸軍大学校
 モデルとすることになり、
  参謀本部長・山縣有朋、陸軍卿・大山巌によりドイツ
 人教官の招聘が決定された。
  日本からの要請を受けたドイツの陸軍大臣ブロンザル
 ト・フォン・シェレンドルフや、参謀総長ヘルムート・
 カール・ベルンハルト・フォン・モルトケは、
  1885年(明治18年)に、クレメンス・ウィルヘルム・
 ヤコブ・メッケル参謀少佐を陸大に派遣した。
  教官となったメッケルは、それまでの図上演習等に加
 えて現地における参謀業務の実習、戦術教育を重視し、
 3年次には参謀演習旅行を行った。
  メッケルは、1888年明治21年)に退任したが、その
 教育は高く評価され、後年まで影響を与えた。
  第一条:陸軍大学校は、歩騎砲工兵科士官の入学志願
     者を選抜し学生となし其学術を進達せしめ、将
     来能く参謀の職務に堪ゆべき者を養成する所な
     り。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1945年にあったこと・・二題・・
.
1945年7月24日、ポツダム会談が行われているこの日、ソ連
 赤軍のアントノフ将軍は、この会談で言った、
 「ソ連は、8月15日以降に日本に対する攻撃準備を完了す
 る」・・と。
  そして、この会談において、アメリカ大統領のトルー
 マンは、会談の合間に、通訳を連れずに、ソ連のスター
 リンに近づき、そして、言った・・、
  「実は、通常爆弾では考えられない破壊力を備えた新
 兵器開発に(アメリカは)成功した」・・と。
  原爆の開発が成功したことを意味していた。
  この事は、ソ連側通訳を通して、内容が、スターリン
 へ伝えられ、スターリンは、「アメリカの原爆開発成功」
 を知った。
  アメリカ大統領のこの原爆告知が、対日本への参戦の
 時期を早まった。
  そして、これから、満州・千島列島などの日本領への
 ソ連の奇襲が始まる。
  満州には、戦車軍団が国境を越えて殺到する。
  多くの日本人殺戮が始まる。
  満州では、無抵抗の満州開拓団の日本人は、ソ連戦車
 に踏みにじられ、蹂躙され、また、無差別な機関銃の乱
 射を受け、
  機関銃の乱射を浴びせられた日本人の方々には、想像
 を絶する地獄図の様相が現出した。
  アメリカの卑劣なそそのかしは、この様な形にもなっ
 て表れた。
  アメリカのあおりに乗ったソ連の悪行がなされた。
  国際法違反の一般市民への、無抵抗な市民への殺戮だ
 った。
  東京裁判で、裁かれるべき事項だった。
  アメリカは、見逃した。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
1945年8月14日、日本が降伏した。
  日本の有条件の降伏の意思が伝えられていたアメリ
 は、日本の降伏が、この日に成立した。
  アメリカの国体までの破壊を要求しないという有条件
 の降伏だった(無条件降伏ではない)。
  この日、8月14日、アメリカのワシントンにある国務省
 では、激しい議論がなされていた。
  日本の降伏後、日本が管轄していた地が、空白となる
 事についての考えの違いについての議論だった。
  ルーズベルトソ連の対日参戦のそそのかしにおける
 話は、千島・南樺太満州が話に出ていただけで、他は、
 話に出ていなかったからだった。
  アメリカは、どこまで占領すべきかだった。
  国務省・陸軍・海軍の考え方は違っていた。
  ただ、陸軍と海軍は、戦争に疲弊していたので消極的
 だった。
  これに対し国務省は、「中国北部まで進むべし」と強
 気だった。
  また、自国・アメリカが、火をつけたソ連の東アジア
 侵攻が気がかりだった。
  ソ連は、どこまで侵攻するのか?である。
  満州全域を占領し、朝鮮半島をのみ込むのは時間の問
 題だった。
  まったく愚かなアメリカだった。
  自分の撒いた種で苦悩した。
  日本が、この地域の安定を保ち、豊かな地にしようと
 努力していた有り難さ・・、
  開拓民の方たちの汗、朝鮮の方々と一緒になって、ど
 ちらかというと朝鮮の方々の方が多い方々という一緒に
 なっての開拓の汗・・、
  また、日本の、自国の資本を持って行って・・そして、
 その資本投下する開発行動などなど・・が、
  この時に、アメリカに、つくづく有り難く感じさせた
 であろう。
  アメリ国務省での議論は、深夜も延々と続いた。
  やっと、朝鮮半島は、アメリカが進駐(侵攻)すべき
 地だと決まった。
  そして、朝鮮半島のすべてか? 一部か?
  一部ならどこまでか?・・議題は、延々とあった。
  ソウルは、アメリカ側だろうな?
  こんな思いや、話で・・時は過ぎて行った。
  歴史は・・この様な・・形で・・作られて行った・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive