(増補版)430E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年7月〜1886年8月)

題:(増補版)430E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年7月〜1886年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1886年7月26日、陸軍検閲条例、陸軍進級条例を改正した。
 (7月24日説あり)
  1886年7月24日の監軍部廃止、陸軍検閲条例改正、陸軍
 武官進級条例改正は、進級に関わる監軍部長の学術シス
 テムを廃止した。
  そして、定期検閲の時期に進級・順序を定めるために
 学術を検査する陸海省の事務システムを作った。
  これに対する反対意見もあった。
  三浦梧楼著の「陸軍改革意見」「陸軍改革衝突事情」
 に、みられるように、
  薩長の情実人事打破を主張し、将校の進退黜陟(ちっ
 ちょく、功の有無により、官位を上げ下げすること)と
 実力・人物本位の均衡をはかる独立機関を作る必要性を
 構想していたことから、この改革には反対していた。
  (このことにより、功のない、人望だけの人は退けら
 れた)
  (観樹将軍回顧録 復刻版より抜粋・参考にした)
1886年7月31日、箱根離宮(函根塔ノ島離宮)が落成した。
  県立恩賜箱根公園は、「旧箱根離宮」跡地に広がりま
 す。
  観光地「箱根」の中心かつ離宮跡地だけあって、公園
 からの眺めは秀逸です。
  芦ノ湖や周りを囲む箱根外輪山、富士の峰が一望でき、
 その見事さから「かながわ景勝50選」のひとつにも選ば
 れています。
  公園のほぼ中央に、旧離宮本館の礎石が残されていま
 す。
  その正面 に建つのが、かつての離宮を思わせる「湖畔
 展望館」です。
  展示されている函根離宮の資料が、華やかな時代を物
 語ります。
  2階のバルコニーからは、離宮時代にも劣らない秀景を
 観賞することができます。(中略)
  明治17年、当時、笹の密集していた塔ヶ島を中心に
 163000平方メートルを買収し、離宮の造営が始まりまし
 た。
 明治19年7月に完成した箱根離宮は、二階建ての西洋館
 と日本館を中心に、官舎・兵舎が建ち並び、華麗な姿を
 芦ノ湖に映していましたが、
  大正12年関東大震災昭和5年の北伊豆地震と続いた
 災害によって倒壊してしまいました。
  その後、箱根離宮を再建する計画もありましたが、時
 代が戦争へと大きく傾いてゆく中にあって、再建計画は
 打ち切られてしまいました。
  そして、終戦後の昭和21年3月18日、離宮跡地は、神奈
 川県に御下賜され、
  神奈川県は、ここを整備し、その年の5月5日、「恩賜
 箱根公園」として、一般に開放いたしました。(後略)
  (神奈川県立 恩賜箱根公園ホームページより抜粋)
1886年7月、帝国大学運動会(組織)を結成した。
  この組織は、日本の学校での体育会・校友会組織の最
 初で、
  以後・・、
  1887年:高等商業学校運動会
  1890年:第一高等中学校校友会
  1892年:慶應義塾体育会
  1896年:高等師範学校運動会・・が設立された。
  そして、高等教育機関における、スポーツクラブの活
 動が軌道に乗り、
  学校間の対抗競技が活発になって行った。
  この様な動きは、中等教育機関にも影響して行き、
  1900年頃より、同様な、校友会組織が設立されて行っ
 た。
1886年7月、学士会が創設された。
  帝国大学(現在の東京大学)の卒業生の同窓会組織と
 して創立された。
  学士会は、次の資格を備えた正会員と、学生会員(1の
 大学に在学する者)により構成される組織とある。
  1.東京大学京都大学東北大学九州大学、北海道
 大学、大阪大学名古屋大学、及び、その前身の帝国大
 学、京城帝国大学台北帝国大学出身の学士
  創立は、1886年明治19年)4月18日。
  帝国大学(現在の東京大学)を卒業した学士たちが、
 小石川植物園で開いた「加藤弘之先生 謝恩会」の席上、
 このような卒業生の親睦会を継続したいという気運をき
 っかけとして、同年7月に創設された。
  その後、各帝国大学の卒業生にも学士号が与えられて、
 学士会に入会した。
  会員数は約4万9000人。
1886年8月1日、長崎事件が起きた。
  長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件。
  長崎清国水兵事件とも呼ぶ。
  1886年7月、清国の北洋艦隊が、朝鮮東岸の元山に出動
 した。
  これは、朝鮮問題をめぐり、当時、清と対立していた
 ロシアを威嚇するためだった。
  この出動の帰路に、艦隊は長崎に寄港した。
  寄港の目的は、燃料の補給、及び、北洋艦隊の主力で
 ある定遠級戦艦の修理だった。
  特に、定遠級は、当時、修理が必要な段階に来ていた
 が、当時の東アジアには、巨大な定遠級を受け入れられ
 るドックが、長崎にしかなかった。
  8月1日、清国の出師提督の丁汝昌が率いる北洋艦隊の
 主力艦の定遠鎮遠、成遠、済遠の4艦が入港した。
  旗艦の定遠丁汝昌が、鎮遠に副提督の英国士官・ヤ
 ングが乗船していた。
  山のような鋼鉄艦隊の停泊は、港内を圧した。
  8月13日、長崎の花街・丸山界隈は、宵の口から清国
 水兵たちがゾロゾロと姿を見せた。
  寄合町の遊廓、遊楽亭に、5人の水平が登楼するが断
 られた。
  カッとなった酔いどれ清国水平たちは暴れだした。
  戸障子やフスマをやぶり、手がつけられない状態にな
 った。
  楼主は、「ご注進」と丸山の派出所へ。
  黒川小四郎巡査がかけつけ、その場は鎮めた。
  しかし、夜9時頃、士官につれられた14、5人の水兵が
 丸山派出所を取り囲んだ。
  黒川巡査は、取調中に逃げだした1人を見つけ、素手
 捕らえようとした。
  水兵は、剣を抜いて、頭に切りつけた。
  黒川は、ひるまず、肩車で投げ飛ばす。
  血まみれになり逃げる水兵を追跡、船大工町の片峰薬
 局の格子戸に頭をぶつけ倒れた大男。
  西、島田両巡査の応援で逮捕。
  大男の王発は、鎮遠乗組みの水兵。
  外国人は、治外法権により日本では処罰ができない。
  夜、長崎署の田川基明警部が、清国領事館を訪ね大王
 発を引き渡す。
  王発は、怪我をしており、領事蔡軒の要求で、長崎病
 院で手当てを受けさせる。
  夜の騒ぎで、市民の吉川兼太郎が、数人の清国水兵に
 袋叩きにあい、重傷を負う。
  8月14日、朝、領事の蔡軒が、県庁舎に知事の日下義雄
 を訪ねる。
  清国側は、水兵の集団上陸を禁止。
  上陸の際は、必ず、監督士官を付き添わせるという平
 和協定ができた。
  しかし、協定は守られず、多数の清国水兵が、上陸し、
 広馬場、本籠町、船大工町、山の口、本石灰町一帯は不
 穏な空気となった。
  8月15日、朝、清国水兵が、上陸をはじめ、
  昼ごろには、450〜60人にふくれあがった。
  水兵たちは行動をはじめた。
  街角や店先で、日本人に乱暴をし、市民と小競りあい
 となった。
  広馬場受け持ちの梅香崎署の坂本半四郎が、巡察中に、
 水兵の一団に捕まる。
  水兵たちはののしり、中の一人は小刀をふり回すなど、
 挑発的な態度をとるが、
  坂本は我慢した。
  坂本は、その場を切り抜け梅香崎署に駆けもどり、報
 告、
  警備巡査の増派を要請した。
  広馬場へ、福本富三郎と喜多村香巡査、本籠町の立番
 所に黒田雲章巡査を配置した。
  夜8時、清国居留民が、福本の棍棒を引ったくろうとし、
 福本はふり返す。
  清国居留民が大声でわめく。
  恩福楼、宝和楼など料理店で、酒を飲んでいた清国水
 兵が喚声をあげて飛びだし、立番の3巡査を包囲した。
  ジリジリと迫り、帯剣のない無防備の3巡査にいっせ
 いに躍りかかる。
  頭を殴られ倒れた福本は、刀で突き刺される。
  喜多村も昏倒。
  重傷を負った黒田は、梅香崎署になだれ込む。
  福本と喜多村は、市民により付近の民家に運ばれ手当
 てをうける。
  福本は息が絶えた。
  喜多村は重傷。
  梅香崎署の小野木源次郎は、清国領事館に報告、
  鎮圧を要請。
  吉田警部補を指揮官とする警官隊7、8人を広馬場へ
 走らせる。
  清国水兵は加勢が来たと勘違い。
  警官隊は、広馬場の四つ角で取り囲まれ、殴られ、蹴
 られ、切りつけられる。
  鎮圧の方針でいた小野木署長は、腹を決め全署員に帯
 剣を命じた。
  梅香崎署は、外国人居留地を管内にもち、外国人との
 いさかいを避けるため常時帯剣を警棒に替えていた。
  清国水兵たちは、士官に指揮され、50人〜60人ずつの
 一団となり梅香崎署を襲撃した。
  40人足らずの署員は必死に攻防。
  襲撃は、数回続けられ、その都度、勇敢に撃退。
  上陸した清国水兵は、500人に近い。
  一隊は、船大工、丸山、寄合町付近でも暴れだす。
  人力車で駆けつけた長崎署の森監督巡査は、山の口で
 水兵に囲まれる。
  いきなり胸を刺され車から転げ落ち、市民が、長崎病
 院に担ぎ込むが、その後、息を引きとった。
  市民は、十善寺、大浦、小島、丸山一帯から中央地区
 まで伝令がとび、血気の若者は殺気立つ。
  清国の士官が、停泊中の4艦から仲間を呼ぼうと連絡
 員を飛ばす。
  小野木署長は、水上署長に連絡。
  海陸の交通網を全てを遮断。
  時宜を得た措置となる。
  ノコギリ、ノミ、カミソリ、包丁とあらゆる凶器を動
 員し、凄まじい乱闘がはじまる。
  怒号のなかに血が飛び、怪我人が続出。
  次第に清国水兵が追いつめられる。
  県警察部から警部以下多数が出動して、鎮圧に努める。
  8月16日、午前2時、街が平静を取り戻す。
  「清国水兵事件」で、日本側は、警察官を含め即死1、
 負傷後死亡1、重軽傷29
  清国側は、即死4、負傷後死亡4、重軽傷42
  日下知事は、内務、外務両省に報告、
  清国との談判に備え事件の真相調査、証拠品の収集に
 全力をあげる
  外務大臣井上馨から訓令が届く。
  「清国北洋艦隊の将校と談判し、互いに後事を戒むる
 方法を講じ、大事に至らぬよう注意を加うべし」
  8月17日、総理大臣の伊藤博文から示達。
  「事件処理のため外務省に一局を設け、外務、内務、
 司法各省から委員1人ずつを任命した」
  政府は、事件を重大視、事件の不拡大を望む。
  8月20日内務省警保局長の清浦奎吾が、8月23日、司
 法省刑事局長の河津祐之、外務省取調局長の鳩山和夫が、
 長崎に来る。
  9月6日、善後措置を講じ、日本側は、鳩山と日下知事
 を談判委員として清国側と話合いに入るが、ラチがあか
 ず。
  11月、長崎での談判が打ち切られる。
  1887年(明治20年)3月、事件調べが、清国北京に移さ
 れる。
  後に、東京での、井上外務大臣と徐清国公使との会談
 で和議が成立。
  事件はようやく解決する。
  「関係者は、それぞれの国の法律で処理する」。
  「双方の死傷者に対し、互いに弔慰金、見舞い金を送
 る」
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本への包囲網は・・もう、この時に出来ていた。
    アメリカが、既に、決めていた方針だった・・
    それなら・・行くべきところへ行くしかないじゃないか・・
.
1929年〜1930年、この頃から、アメリカの日本追い落とし
 が酷くなって行ったが・・
  それ以前は、一旦は、日本を取り込もうとはなったが、
 しかし・・、
  この頃から、アメリカの『日本追い落とし政策』の真
 っただ中になって行く・・、
  満州は、アメリカも権益が欲しかったところだった。
  満州鉄道を、日本は、多大な投資をして、土地の人々
 も潤うという社会資本投資をする日本だった。
  日本のやり方は、この様に自らのお金で、その地を良
 くして、
  そして、利益を得るというやり方だった。
  勿論、その土地の人々も、その利便を得るという方法
 だった。
  アメリカやヨーロッパの、米欧列強の国の様な、ただ、
 ひたすら利益を収奪するだけというやり方ではなかった。
  戦後、日本が、敗戦となって、日本が引き上げた後に、
 その置いてきた社会資本で、残されたそれらの社会資本
 =鉄道や、ダムや、学校や、橋や、その他のもろもろの、
 色々な社会資本で・・、
  この社会資本を基盤に、これ等の国々が豊かになった
 ことが、何よりの証拠となっている。
  この様な話が・・話されることは、めったにない。
  本当は、ありがたい訳なのに・・?
  台湾の方々だけが、真実を口にして戴いていて、小学
 校の教科書にも記して戴いていると聞く。
  アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)は、こんな事は、
 おくびにも言わない。
  ただ、ひたすら日本は悪かった・・である。
  満州事変だって・・プロパガンダされている。
  まず、アメリカに支援された中国の国民党軍がいる。
  ふんだんに『金と武器の支援』をアメリカは与えてい
 る。
  軍事顧問団も支援し、援助されている。
  「日中戦争」なんていう名称は正しくない。
  「日中(米)戦争」、または、「日・中米戦争」だ。
  れっきとしたアメリカの正規軍が、秘密裏に投入され
 ている。
  アメリカ大統領が、日中戦争への参加を許可している
 ことが公(おおやけ)になっている。
  一緒に「日本の追い落とし戦略」が行なわれている。
  1929年〜1930年に行われたことは、露骨で卑劣なやり
 方だった。
  満州には、満州族女真族)の方々(中国の漢族では
 ない)の他に、20万人の日本人が居た。
  満州の地を開拓して、夢を叶(かな)えたいという
 人々だった。
  また、同じく、夢をかなえたいと朝鮮の方々が80万人
 居た。
  (この時、日本と朝鮮は、併合という形で一体だった)
  ロシアの地で差別を受けたた白系ロシア人の方々や、
 弾圧されていたユダヤ人の方々や、蒙古人の方々も含む
 協和の地だったのだ
  この日本人がターゲットにされ、また、朝鮮の方々が
 巻き添えになった。
  今・現代でも行われる百貨店襲撃の様な行為である。
  現地の日本人会は、日本政府に訴えるが、日本政府の
 姿勢は、『穏便に解決したい』だった。
  また、地方政権に訴えるが、この地方政権は、中華民
 国の東三省の政府で、中央の息がかかっているから、ま
 ったく取り合おうとしない。
  日本政府も蒋介石の中央政権へ訴えるが、「現地の政
 権と交渉してくれ」と逃げた。
  日本の投資した事業も経営が苦境に陥(おちい)って
 来る。
  日本人や日本企業は、経済的に追い詰められるだけで
 はなく、生命の安全も保てなくなって行く。
  上海でも、どこでもやり方は一緒だった。
  この様な手順で追い詰められて行った。
  今までの恩も義理もなかった。
  日本政府の穏便に話し合っていこうという方針は空転
 した。
  先方に、お互いの立つ瀬をつくろう、それを探ろうと
 いう立場が無ければ、努力は空転するしかなかった。
  至る道は、至るところに行くしかなかった。
  中国政府の国民党の方針が、一段と過激になった。
  その戦略は、一挙に「日本の全面排除」になった。
  これは、戦争に至るという方針だった。
  アメリカに支援された国民党の強硬方針だった。
  日本政府は『国際協調』が大方針だったが、思うよう
 に進まない事態が起きて行った。
.
  (追伸)
  当時、満州関東軍の責任者だった東条英機は、逃げ
 て来たユダヤの方々を、満州に受け入れている。
  日本は、国としても、ユダヤの方々の入国を受け入れ
 ていた。
  日本は、ユダヤ人の方々の入国許可を与えていた。
  キリスト教が嘘をつく杉浦千畝のこと・・、
  杉浦千畝は、キリスト教徒だったから、キリスト教
 ウソをデッチ上げた。
  さも、日本がユダヤ人の方々の入国を許可していなか
 ったと・・、まったく卑劣である・・、
  これは、キリスト教の卑劣なウソなのである。
  日本の大使館は、どこでも、ユダヤの方々へビザ(査
 証)を発行していた。
  杉浦千畝だけではない・・、
  日本を貶(おとし)めてまでして、キリスト教を美化
 しようとするキリスト教は・・本当に卑劣だ。
  もう、こんないい加減なウソを言うのは止めなさい!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive