(増補版)310E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年3月〜1873年4月)

題:(増補版)310E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年3月〜1873年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1873年3月25日(2月27日)外務卿・副島種臣が、特命全権
 として清国に派遣された。
  朝鮮、及び、台湾の清国干渉の絆を絶たしむ。
  体面(たいめん、せけんにたいしてもっている誇りや
 面目)にこだわる清国、欧米各国もこれにてこずった。
  しかし、日本の特命全権大使・副島は、日本の尊厳を
 失わずしっかりした外交を行なった。
  帰国後の日本の副島に対する評価も良かった。
  この辺のいきさつについて・・、
  副島は、1873年、北京に滞在中、中国の儀礼に従わず、
 三揖の礼で皇帝に謁見した。
  日本側では、副島の対清外交は、国威を発揚し、成功
 であったと評価された。
  今までの外国使節の謁見礼節を振り返ってみれば、
  副島のとった態度が、中国の「天朝上国」思想への大
 きな挑戦と言ってもいい。
  副島は、中国の主権、伝統制度を通常の状況で解釈し、
 謁見の際、自分の考え方が通らなかった時、「帰国」を
 理由にして清政府を揺さぶった。
  さらに、副島は、台湾の「民ニ生熟兩種有リ、從前 我
 カ王化ニ服シタルヲ熟蕃ト謂ヒ、府縣ヲ置テ 之ヲ治ム、
 其未タ服セ不ルヲ生蕃ト謂フテ、之ヲ化外ニ置キ」[『
 大日本外交文書』:6巻178]という情報を、清国総理大
 臣から得た。
  これは、台湾出兵の理由となった。
  そもそも、清国は、琉球に対し「我カ藩属(属国)」
 と意識していた。
  そのため、清国側は、琉球難民事件が、台湾出兵の口
 実となるとは思いもしなかった。
  副島は、清国の礼節に従わなくて、通常に通しただけ
 ではなく、別の面で、台湾出兵の正当性を考えていた。
  故に、中国の歴史学界では、この時期の副島に対して
 は、「凶横」(凶悪,横暴)「跋扈(ばっこ、ほしいま
 まに振る舞うこと)」 [王]、「陰鷙」(陰険で残酷で
 ある)[曹]などと悪の評価を与えている。
  しかし、謁見問題を考えるとき、副島の行なった行為
 は、腐敗した清国の体制に衝撃を与えた。
  そして、「天朝上国」、「大中華思想」を固守してい
 た中国官僚たちに対し、保守的な思想から脱却させる役
 割も果 たした。
  「天朝上国」:もとは古代中国の自称、褒(ほ)めの
 吹聴(ふいちょう、言いふらし)。今は自嘲的な呼び方。
1873年3月(2月)年齢を満計算にした。
1873年3月30日(3月3日)琉球国・王尚泰を「琉球藩王」と
 定める命を受けた使節が、那覇港に到着した。
1873年3月30日(3月3日)皇太后・皇后、黛・鉄漿の廃止
  皇后、鉄漿(かね、おはぐろ)を剥ぎ、黛(まゆずみ)
 を落として旧来の風習を改めた。
1873年4月初、西郷が、鹿児島より帰京。
1873年4月3日(3月7日)神武天皇即位日を紀元節とした。
  1873年2月26日(1月29日)の説もある。
1873年4月7日(3月11日)岩倉使節団が、ビスマルクと会見
 した。
  岩倉具視大久保利通伊藤博文木戸孝允、山口尚
 芳などの使節団。
  欧米を巡察しベルリンに到着したのが、1873年4月5日
 (3月9日)だった。
  そして、翌々日の1873年4月7日(3月11日)に、ウイル
 ヘルム皇帝に謁見し、鉄血宰相ビスマルクの招待を受け、
 大饗応に預かった。
  席上ビスマルクは、熱弁をふるって言った・・、
  「宰相ビスマルク! 東洋における貴国日本も、欧州
 における我国ドイツも、
  共に、領土は狭小な一小国に過ぎないが、
  また、しかも、他国の侮り(あなどり、軽蔑、さげす
 み)を受けず、日に月に、興隆の歩を進めつつある。
  宜しく国民の愛国心を高揚して軍備を進め、正義に訴
 えて堂々と猛進すべきである。
  即ち、我国こそは何の野心も無く、
  貴国と相提携するに決して吝(やぶさ)かではない・・」。
1873年4月8日(3月12日)台湾問題に就いて清国と談判のた
 め、特命全権大使副島種臣が横浜を出港。
  1873年3月25日(2月27日)説、および、2月28日説もあ
 り。
1873年4月10日(3月14日)外人との結婚を許可。
  外国人との結婚解禁。
  この日、日本で外国人との結婚が公式に認可された。
  明治政府は、太政官布告・第103号(内外人民婚姻条規)
 の発令により、日本で、最初の国際結婚に関する規則を
 定め、外国人との婚姻を許可した。
  「太政官布告第103号(内外人民婚姻条規」について、
 「東京日日新聞」に、以下の様に記されている。
  自今外国人民と婚姻差許し、左の通り条規相定め候条、
 この旨相心得べき事。
  一、日本人、外国人と婚嫁せんとするものは、日本政
   府の認許を受くべし。
  一、外国人に嫁したる日本の女は、日本人たるの分限
   を失うべし、もし故あって再び日本人たるの分限に
   複せん事を願う者は免許を得あたうべし。
  一、日本人に嫁したる外国の女は、日本の国法に従い
   日本人たるの分限を得べし。
  一、外国人に嫁する日本の女は、その身に属したる者
   といえども、日本の不動産を所有する事を許さず。
   ただし、日本の国法並びに日本政府にて定めたる規
   則に違背する事なくば、金銀動産を持携するは妨げ
   なしとす。
  一、日本の女外国人を婿養子となす者もまた日本政府
   の認許を受くべし。(後略)
1873年4月13日(3月17日)最初の海底電信が馬関海峡に開
 通する。
  因みに、馬関海峡は下関と門司の間にある海峡。
  下関の前田から、門司の雨ヶ窪の間に布設され、その
 長さ1.2キロ、深さ10〜18メートル。
  この日、海底電信が布設されたので、諸船舶に対し、
 投錨を禁ずるという布令が発せられた。
  これによって、東京から長崎の電信敷設が整った。
  そして、1871年明治4年)に、デンマーク大北電信
 会社が敷設した長崎〜上海の国際線とも結ばれた。
  これで、東京が、西欧と結ばれた事になった。
  世界最初の海底電信布設は、1850年に、イギリスのドー
 バーとフランスのカレーとの間のドーバー海峡海底電線
  日本の海底電線敷設の大事業は、1906年明治39年
 に、太平洋横断布設をしている。
1873年4月16日(3月20日明治天皇陛下が、率先して断髪
 をなされた。
  天皇陛下、断髪。皇后陛下、お歯黒・眉墨を中止。
1873年4月19日、後藤象二郎江藤新平大木喬任(たかと
 う)を参議に任命した。
1873年4月21日(3月25日)太政官布達によって、最初の公
 園に上野、浅草、深川、飛鳥山、芝の五公園が決定した。
1873年4月23日、島津久光の示威行動(じいこうどう)
  島津久光が、鹿児島士族250人を率いて上京した。
  示威行動とは、一定の主張をもつ者が、集団的になん
 らかの行動を起して、
  その団結力、闘争意欲、統制力を誇示し、反対者に対
 し、心理的圧迫を加えるとともに支持者、参加者の士気
 を高め、
  さらには、中立者の共感を獲得しようとする行動。
  大蔵大輔の井上馨は、陸軍省の1,000万円要求に対し、
 比較的早期に、800万円を認めて妥協したが、
  文部省の200万円要求には100万円、
  そして、司法省の96万円要求には45万円を固執して、
 少しも譲歩するところがなかった。
  たまたま、当時、陸軍省の御用商人・山城屋和助(元
 長州奇兵隊士)の陸軍省公金65万円費消事件が発覚し、
 陸軍大輔の山縣有朋は、不正への関与を疑われて、非難
 攻撃の的となっていただけに、
  江藤、大木らは憤激し、井上は、専ら、長州派の利を
 計っていると攻撃された。
  当時の政情は、廃藩置県以降の、打続く政府の激烈で
 猛烈な改革に対する不満が、所々で噴出していた。
  とりわけ、政府首脳部を最も悩ませたのは従二位・島
 津久光(1817年〜1887年、鹿児島藩の実権者)が、政府
 の施策に対し、ことごとに、極度の不満を抱き、遠く鹿
 児島から政府首脳を非難攻撃してやまなかった。
  さすがの西郷も、
  「副城の着発弾には、何とも力及ばず大よわりにて御
 座候」と嘆声を発した。
  それだけに、政府も、久光慰撫のためにあらゆる手立
 てをつくしていた。
  天皇陛下の西日本御巡幸(1872年5月〜7月、西郷扈従)、
 西郷の再度の帰郷と、久光への弁疏(同年11月〜翌年4月、
 べんそ、言い訳をすること)と、
  宮内少輔・吉井友実(1829〜1891年、薩摩)の帰郷斡
 旋、海軍大輔・勝安芳(1823年〜1899年、幕臣)らを勅
 使として差遣(3月)等々を行なった。
  ここに至って、久光も、遂に、聖旨を奉戴し(天子の
 考えを謹んで戴くこと)、鹿児島士族250人をひきい、
 勅使に随い上京し、4月23日に着京した。
  こうした、久光慰撫工作は、苦境にある井上にとって
 著しく不利に作用した。
  政府首脳は、久光慰撫に忙殺されるのあまりに、井上
 をめぐる軋轢抗争をよく調停しえなかったし、
  大蔵省御用掛を兼ねて、井上をバックアップするはず
 の西郷は、井上にとってもっとも重要だった時期に不在
 であった。
  そのために、抗争は、激化するばかりで、
  「井上大輔は十月下旬より閉居、一事を不視..大輔
 にも今一月中旬より居合出省仕候様相成る処、又山尾工
 部大輔等、追々引入、亦正院の御扱にて出省の運びと相
 成りしに、江藤司法卿続て引入、又正院の御手数にて説
 諭など有し由なれど、昨今司法省は、大少丞に至るまで
 不残引入申候、是亦追々出省の運びは申上迄も無御坐候
 共、文明開化の世には失体の事夥多の様相見へ申候」の
 有様であった。
  たまらず、政府は、1月19目に、岩倉使節団木戸孝允
 (1833年〜1877年、長州)と大久保利通に帰朝を命じた。
  4月に入って、久光は、勅使に随って上京の途に上った
 し、
  西郷も、久々に帰京したから、政府は、大蔵省と諸省
 と衝突常に止まず、
  ややもすれば、廟議紛々破裂せんとするの形勢となる
 のを、なんとか調停、沈静させて、久光を東京に迎える
 態勢を固めるべき段取りとなった。
  その第1着手として、まず4月19日には、後藤象二郎
 1838年〜1897年、土佐)、大木、江藤を参議に任命した。
  後日、大隈の語るところによれば、これは「内閣直接
 に施政の責任を執らすして之を各省に分担せしめ、
  内閣は、僅に、三五人を以て之を組織するかこときも、
 亦是等衝突?争の一因たらすんはあらす。
  それならば、其組織を改正して各省の長官(即ち卿)
 を内閣に入れ、其行懸り若くは意地に任して極端の紛争
 を為す様のことなからしめ、いわゆる談笑の間に互に譲
 歩して事を弁せしむるも亦当時の急務なり」という狙い
 であり、
  「十二月より一月に渉る定例の休暇中に之を更定した」
 とある。
  しかし、井上1人を蚊帳の外におく組織改正と人事をも
 って「談笑の間に互に譲歩して事を弁せしむる」とは最
 初からできないことだった。
  当然、政府首脳もこれに気付いていた。
  気付いて、敢てこの挙に出たについて、大隈と大久保
 との内外共謀によるものだと言われている。
  すなわち、「五月下旬に大蔵卿・大久保が帰ると知ら
 るるに、上旬に其の代理なる井上の辞職を余儀なくせる
 は、大隈一人の行為として大胆に過ぐ。
  一応、肥前人が権力を握れるが如くして、薩州側にて
 之を利用し、井上を放逐せしめたる跡なきに非ず。
  大久保は、遠く隔たりて、一々与かり知るべくもなけ
 れど、大隈及び其他より報告し、井上側より報告し、全
 く知らざる筈なし。
  ・・大久保の帰朝を待たず、其の前に井上の辞職を迫
 りたるは、迫りたるに非ず、井上が癇癪にて断然辞退せ
 るなりとせんも、大久保の帰朝までに獻立を整ふるの必
 要あり、寧ろ、大久保の指金に出でざるべきや」と考え
 られた。
  岩倉使節団の歓送の宴で、西郷が、井上に「三井の番
 頭さん」と呼びかけて盃をさしたという話は有名だし、
 また、大久保在世中に、井上は、二度と政府に帰っては
 こなかったという事実もあるので、薩派陰謀説が有力と
 考えられている。
  しかし、この際、同じ薩摩め島津久光の上京という背
 景にも注目すべき・・、
  別のシナリオは、政府の激烈な諸改革に発した予算を
 めぐる内紛が、上京した久光の眼にでもとまろうものな
 ら、久光は、諸改革を不満としていただけに、それは、
 久光に政府攻撃の格好の口実を与えることになる。
  これは、政府として避けたいところで、政府内部の一
 連の抗争は、久光の着京前に収拾したいところだった。
  この際,時間に追われる政府にとって、参議省卿兼任
 制は、時に当っての妙手であり、西郷の帰京を待ってこ
 れを極力推進しただろう。
  そこでは、要ともいうべき井上の処遇も、当然、検討
 された。
  ところが、ここで事件が突発した。
  前々から山城屋事件にまつわる疑惑で、薩派軍人の集
 中攻撃にさらされていた山県が、ついに、耐えかねて4月
 18日に、辞表を提出した。
  陸軍は、もともと薩長両派のバランスの上にからくも
 統制を保っていた。
  加えて1月の徴兵令は、部内にしこりを残していたとこ
 ろであった。
  それ故、山県の辞任は、陸軍の分裂動揺を意味した。
  久光が、兵をひきいての示威上京に対抗しうるものは
 軍のみであった。
  その軍が、分裂動揺するとあっては一大事だった。
  ここにおいて、山県辞任問題を、まず、優先して処理
 しなければならない事になってしまった。
  そこで、井上が、まだ、大輔の地位にとどまっていた
 ため、未決着のまま留保されていた井上の処遇の件は、
 さらに、今後の調整に待つとして棚上げし、すでに、合
 意のできていた後藤、大木、江藤の参議任命の件だけを
 とりあえず実施した。
  そうして、急務の山県辞任事件の方は、
  「陸軍元帥兼参議の西郷隆盛・参議の大隈重信・大蔵
 大輔の井上馨等、陸軍省の瓦解せんととを慮りて、斡旋
 する所あり、二十九日、更に、有朋に命ずるに陸軍省
 用掛を以てし、陸軍卿代理たらしむ」ということで、収
 拾された。
  23日には、すでに久光は着京しており、その間、政府
 首脳は、薄氷を踏む思いをした。
  そして、井上の番であるが・・、
  しかし、太政官の処置はどうしたことか、山県の場合
 とはまさに逆だった。
  井上をして辞任を余儀なからしめるものであった。
  5月2日、太政官の職制と事務章程が改定され、太政大
 臣の地位と権限を強化し、その調整能力を高め、左右両
 院ならびに各省の権限を制限し、太政官に参議のみから
 なる内閣を設けた。
  この改定の狙いは、大蔵省の「権限を減じてこれを正
 院に割取し、正院で財政策の枢軸を握り、各省の要求を
 調節塩梅」するにあったから、
  井上には、最早、抵抗の術もなく、
  翌3日、井上は、憤然辞表を呈して下野した。
  この間、裏面に、薩摩派の謀略も考えられている。
  また、井上ともっとも鋭く対立していた江藤の策動も
 関係していたか?
  しかし、外遊中の木戸と伊藤を欠き、山県は、事件の
 渦中にあって、
  そのため、弱体化していた長州派の悲哀があった。
  そして、同日、久光への示威の意味を兼ねた陸軍の演
 習から御帰還なされた陛下は、「午後二時山里御苑に出
 御、従二位・島津久光御茶屋に召見し、太政大臣・三
 條実美をして去歳六月建言の各条に就きて質さしめたま
 ふ」とにもかくにも、燃え上がる内紛の鎮火を成し得た
 政府は、最大の難物・久光に立ち向うをえたのであった。
  ここで、一人貧乏くじを引かされた井上は、癇癪の余
 りに建言書を上呈、
  それでもおさまらず、さらに、公費を投じて
  これを、新聞に発表し、
  「今全国歳入ノ総額ヲ概算スレバ、四千万円ヲ得ルニ
 過ギズシテ、予ジメ本年ノ経費ヲ推計スルニ一変故ナカ
 ラシムルモ、尚五千万円ニ及ブベシ。
  然ラバ則チ一歳ノ出入ヲ比較シテ、既ニ壱千万円ノ不
 足ヲ生ズ」・・と、財政破綻を暴露した。
  これによって、内外の政府に対する信用の失墜するこ
 とをおそれた政府は、大蔵省事務総裁兼務(5月9日発令)
 の大隈をして、6月9日、「歳入出見込会計表」を公表さ
 せ、
  1873(明治6)年の歳入4,873万円、歳出4,659万円で、
 歳入超過が、214万円にのぼることを内外に示し、井上に
 反論した。
  これが、予算表公表の反論だった。
  財政制度が、未整備の時のことゆえ、井上のものにせ
 よ、大隈のものにせよ、歳入見積りは、確たる根拠に乏
 しく、
  後に至って判明した1873年の歳入実績は、予想外の実
 に8,550万円に達した。
  もっとも、その中には、予算外の外債募集繰入れ1,083
 万円が入っている。
  これを控除した7,467万円を比較の対象とすべきだった。
  この修正実績を100として、大隈の見積りは65、井上の
 それは54にすぎないとなる。
  井上の悪戦苦闘は一体なんだったのか?
  大隈は、この井上辞任事件から少なくとも二つの重大
 な教訓を学びとった。
  それは、問題となりがちな大蔵省の卿として予算問題
 で閣内に孤立することの政治的帰結と、
  そして、財政制度の全般に亘る改革の重要性だった。
  そして、これは、後に、大隈財政の基本方針になった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive