(増補版)311E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月〜1873年5月)

題:(増補版)311E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月〜1873年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1873年4月26日(明治6年3月30日)日本で、砂糖の自由貿易
 が、初めて許された。
 (従来は、国内産出が少なかったため制限されていた)
1873年に、小麦や紅茶、砂糖などが暴落して恐慌になっ
 た。
  (1873年のパニックは、「史上初めての国際恐慌」と
 されている)
  (1873年〜1896年:大不況、イギリスが最も大きな激
 しい打撃を受けた。イギリス優位の立場を失った)
  (アメリカも、1873年〜1879年の65か月間の長期の不
 況となった)
  商品価格下落の原因は、鉄道や冷蔵技術などによる物
 流革命や保存技術の進歩があった。
  19世紀、産業革命で、イギリスの経済が発展し、経済
 成長を促進させ、イギリスが世界の中心だったが、この
 1873年が、転換点となった。
  その行き過ぎが恐慌に原因となった。
  1873年の恐慌で、フランス・アメリカ・ドイツといっ
 た国々が力を持ち始め、イギリスだけでなく、世界の分
 極体制が始まった。
  イギリス農業が崩壊した原因のひとつに、アメリカか
 ら安い小麦が流入したことがあった。
  1870年頃から、当時の先端技術だった鉄鋼業が「鉄の
 時代」から「鋼の時代」に移って行った。
  イギリスは、この技術転換がうまく行かず、「世界の
 製鉄所」の地位を、アメリカやドイツに追い越されて行
 った。
  1873年以前は、自由貿易主義が中心だったが、この年
 を境にして、世界の流れは保護貿易主義に転じ、輸入品
 に対して関税障壁が設けられた。
1873年4月30日、清国派遣全権大使が条約批准書交換。
1873年5月2日、太政官制が、潤飾(じゅんしょく、飾り付
 けること)され、正院に権限が集中した。
  強大な大蔵省の権限を抑えて、正院の権限を拡大する
 ために改革が行われた。
  正院は、参議を議官とする内閣が設置されて、立法・
 行政をはじめとする国政の中枢機関となった。
  これに伴って、右院は臨時に開く機関にかえられた。
  ついで、この年の10月の征韓論をめぐる政変後から、
 参議と各省の卿(きょう)(長官)の兼任制が確立してゆ
 き、参議の権限が、しだいに強大となる。
1873年5月3日、井上馨大蔵大輔と渋沢栄一三等出仕が辞表
 を出す(5月4日説あり)
  渋沢栄一は、井上馨とともに辞表を提出した際、黙っ
 て身を退かないという彼の性格が出た。
  自分が、大蔵省をやめる理由を堂々と建白書に仕立て
 提出した。
  以前からの彼の性癖だった。
  この建白書は、彼の同僚で、漢学者の江幡五郎(那珂
 道高・なかみちたか)の校閲を経て、仕上がった。
  渋沢は、両国橋の料亭で、井上馨に見せた。
  井上は、「まったく同感」という意を示し、
  5月7日に、二人の連署で、三条実美へ奏上した。
  建白書は、漢文調の名文で書かれていた。
  現代文すると・・、
  まず、冒頭は、栄一は維新の成果を讃えた。
  「国家の盛衰はもとより、気運のいたすところではあ
 るが、その成果は言うまでもなく、政府の施策の善し悪
 しによって大きく左右される。
  維新以来十年足らずのうちに、さまざまな事業が始ま
 り、社会全体が、開化へと向かっている。
  内から見れば、ここ数百年来衰えていた綱紀[天皇
 政]が回復した。
  外から見れば、世界で盛んとなっている政治形態が取
 り入れられた。
  封建制を破って郡県の制を立て、門閥をやめて賢材を
 採用し、
  法は万国公法[国際法]にもとづき、
  論議は各地の世論を尽くし、
  学制は、8区に分けて無知の民をなくすことに努め、
  兵制は、6鎮台を置いて暴乱を防いでいる。
  短時間で遠くまで行けるのは蒸気船や汽車のおかげで
 あり、
  遠方に急を知らせることができるのは電信のおかげで
 ある。
  交易に工夫をこらし、
  開拓に力を尽くし、
  正貨を製造し、
  街の様子も見違えるようになろうとしている。
  [1872年に焼けた銀座に煉瓦街が出現するのは1877年
 のこと]。
  そのほか製鉄、灯台、線路から建物、衣服、帽子、椅
 子、傘、履き物にいたるまで、
  日々、恐るべき勢いで開化が進んでいる。
  このまま続けば、数年のうちに文明が備わり、欧米諸
 国に匹敵するようになるのも夢ではない」・・と。
  しかし・・と建白書は記す。
  「臣ら[井上と渋沢]、ひとり憂うるところあり」と
 記す。
  そして言う・・開化にも、形だけのものと、内容がと
 もなうものとがあって、
  「形だけを取り入れるのは簡単だが、内容を取り入れ
 るのはむずかしい」。
  政治(政理)は、形をととのえるけれども、民力がと
 もなわなければ、開化といっても中身がないものになる
 と、栄一は指摘した。
  ところが、いま、わが国民はどのような状態にあるか
 ・・と。
  「士族は、ひたすら先祖伝来の家禄をあてにするばか
 りで、
  新時代に必要な文武の知識や業を身につけてない。
  農民は、いたずらに土地を守るだけで、新時代の農業
 に立ち向かっているわけではない。
  職人は、いくら手間賃をもらえるかを気にするばかり
 で、発展する機械を取り入れている様子もない。
  商人は、わずかな利益を求めて争うだけで、大きな貿
 易に乗り出す者もない。
  これでは、とても新時代に生きていけない。
  中には、すぐれた者もいるが、たいていは、政府のお
 こぼれ頂戴となっている。
  そして、利益を独り占めできないものかと狙っている
 者が大半」・・と。
  栄一は指摘した・・、
  開化は進んでいるようにみえるが、実は政治面で空回
 りしているだけで、
  国民は、幕藩時代の古い体質から脱していない・・と。
  そして、政府は、西洋諸国と肩を並べようとあせって
 いるが、民衆は付いて来ていない・・と。
  今は、政治の世界に人材が集まっていて、様々な企画
 が打ち出されているが?
  空回りしかねない状況となっている。
  故に、かえって社会に弊害をもたらす危険性がある・・
 と。そして、言う・・、
  「官に人が多ければ、かならず事を起こしたくなるも
 の、事を起こすとなると、成功を望むのが当然。
  今、政府は、民力の発展に意を用いず、
  政治体制の整備に熱中し、
  官僚は、また、事を起こし、功をなそうとあせるばか
 りに、
  往々にして、実用を捨て、空理に走る傾向があり。
  ・・役所の事務を進めるとなれば、何もかも、完璧に
 したくなるだ。
  したがって、こういう危険性があるとか、
  こういう利益があるとかを隅なく論じ、
  かと思うと、どこかに隙を見つけて、自分を目立たせ
 ようとする者がいたり、
  あるいは、新奇をてらって、上司に気に入られようと
 する者も出てくるありさま。
  こうして、中央から地方まで、功をむさぼる役人がま
 すます増えてくることになっている。
  役人が多くなれば、給料の負担も増える。
  事務がどんどん膨らみ、用度の費用も増し、
  歳入で歳出をまかなうことができなくなれば、その負
 担は言うまでもなく国民にかかる」・・と。
  渋沢は、政治家・官僚主導型の社会に対する批判。
  民力がともなわないのに政府が肥大化すると言う。
  国民の負担は増大する一方で、社会そのものはやせ細
 って来ると言う。
  何ごとも先立つものがなければ、一歩たりとも動かな
 いではないかと、建白書は、急進的改革を批判する。そ
 してまた、言う・・、
  「政治の要とは何かについて、いろいろ議論はある。
  しかし、激動する今日、その第一が財政運営にあるこ
 とは言うまでもない。
  財政運営を誤ると、経費不足となる。
  経費が足りなくなると、何ごとを起こし得なくなる。
  そうなると、今度は、税金を増やし、
  そのために勤労を課し、民にあれこれと命じて休む間
 も与えぬようになり、
  こうして、国もまた衰微を免れぬことになる」・・と。
  ここで、渋沢は、明治政府が、表沙汰にしたくない財
 政が破綻になりかけていることを言う。
  建白書は、具体的に数字を挙げて、この明治政府の「
 秘密」の財政状態を暴露する。
  「今、全国の歳入総額を、概算すれば、4000万円を得
 るにすぎない。
  ところが、あらかじめ本年の経費を推計すると、突発
 事態がなくても、すでに5000万円におよんでいる。
 だとすれば、この一年の収支を計算しても、すでに、
  1000万円の不足が生じている。
  そればかりか、維新以来、必要欠くべからざる国費を
 計算に入れれば、毎年の費用がさらに、1000万円に達す
 る勢いである。
  その上、官庁や旧藩が発行した旧紙幣に、国内外の負
 債を加えると、その額は、1億2000万円近い巨額に膨れ
 あがる。
  これを通算すると、現在の政府の負債合計は、1億4000
 万円となり、償却のめどはまったく立たない」・・と。
  新政府の財政が、ここまで危機的状況にあるのは、何
 故なのか?
  この建白書の批判は、江藤新平法治主義の批判へ向
 けられる。
  司法卿の江藤は、4月19日に参議へと昇格していて、事
 実上の西郷政権が、江藤を高く評価していた。
  そして、司法省の予算要求が、ますます激しくなり、
  大隈重信までが、同じ肥前(佐賀)藩出身の江藤を支
 持する。
  司法省に負けじと、文部省や工部省も予算の増額を求
 めた。
  予算をめぐって、政府内でバトルが展開し、ぎくしゃ
 くし、
  大蔵事務総裁という新設の役職についた大隈は、租税
 頭の陸奥宗光を使って、ひそかに予算を計算させた。
  そして、大蔵大輔である井上馨の反対を押し切って、
 5月3日の正院閣議で、工部省290万円、文部省130万円、
 司法省63万円の予算を認めてしまった。
  大隈に権限を奪われた井上が、辞表をたたきつけたの
 は、事の成り行きから当然だった。
  そして、渋沢栄一陸奥宗光の間にも亀裂が入った。
  陸奥は、栄一が最初に見積もった米価1石2円75銭を、
 3円以上として計算し、大隈に修正した歳入額を伝えた。
  建白書には、そうした不本意な所も記す。そして、言
 う・・、
  「古人は『民を見ること傷(いた)むがごとし』と言
 った。
  ところが、今、政府は、民を大事に思うどころか、
  法律で束縛し、
  民に税を課し、
  さらに、それを重くしようとしている。
  戸籍をつくり、神社を定め、地券を配布し、血税を強
 い、
  これに、訴訟の費用やら、違反の罰金が加わり、世の
 中のことごとくが、法律によって縛られようとしている。
  ・・政府は、いよいよ開明に向けて、さらなる一歩を
 踏み出そうとしているが、
  これに反して、民衆は、ますます、昔ながらの習慣に
 閉じこもろうとしている。
  出(いず)るを量って、入るを制するのは、欧米諸国
 がまつりごとをなすところではあるが、
  今、わが国力・民情とも、これを行なうのが無理なこ
 とは誰にも分かることだ。
  そこで、当面の策は、しばらく入るを量って、出るを
 制するという旧来のやり方を守り、
  努めて経費を節減し、
  あらかじめ、歳入を概算して、歳出をその枠内に収め、
 中央官庁から府県にいたるまで、
  施策の優先順位を定め、
  そのために必要な額を確定し、
  それを超えないようにすることが大事なのだ」・・と。
   栄一は・・、
  「政理」[政治の主張]と「民力」が背反しないよう
 にすることが、
  財政運営の基本にあらねばならない・・と言い、
  この基本を見失うならば・・、
  思いがけなく「内外の変」が生じ、
  政府が「土崩瓦解」する事態を招きかねない・と言う。
  栄一は、この警告を発して、政府に反省を求めて、筆
 を置いた。
  この渋沢栄一の建白書の全文が、イギリス人のジョン・
 ブラックが発行している邦字紙「日新真事誌」(後の「
 東京曙新聞」)に掲載されて、大騒動になった。
  とりわけ、会計上の問題を指摘された政府は、
  あわてて反論した。
  6月9日に、大隈重信の名前で、大蔵省から「歳入歳出
 見込会計表」を発表し、
  建白書の数字が誤っていることを指摘した。
  井上と渋沢は、政府の「秘事」を漏らしたとして、
  江藤新平は、二人を告発した。
  しかし。懲役を科するのには無理があり、結局、罰金
 3円で決着した。
  井上と渋沢の辞表は受理され、5月23日をもって「依願
 免出仕」の辞令が出た。
  そして、渋沢栄一は、実業家への道を進む。
  しかし、建白書で指摘した、政府崩壊が、思いもかけ
 ない形で始まろうとしていた。
  征韓論の政争から、士族の反乱であった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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