(増補版)324E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月〜1874年6月)

題:*(増補版)324E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月〜1874年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年(明治7年)5月2日、地方長官会議開催の詔書
  議院憲法および規則を定めた。
  地方官会議(ちほうかんかいぎ)は、太政官が、1874
 年に開催を計画したが、台湾事件など内外多事のため開
 催にいたらず、1875年に初めて実現した。
  政府が、地方行政を円滑にすべく地方長官を集めて開
 設した会議。
1874年6月11日(明治7年4月27日)内閣顧問・島津久光が、
 左大臣に就任した。
  久光にとって、栄光の就任だったのだろうが・・、
  薩摩の殿様だった久光。
  新政府の生みの親の薩摩藩の殿様だった久光。
  しかし、久光にとって、その出来上がった新政府のや
 る事のすべてが・・納得できてはいなかった。
  それ故、新政府側から見ると、久光は「気になるご意
 見番」だった。
  1871年8月29日に、「廃藩置県」という一大改革が断行
 されたが・・、
  その夜、久光は、沢山の花火を、鹿児島の夜空に打ち
 上げた、打ち上げさせた・・、
  薩摩の元殿様。「廃藩置県」を祝うために上げさせた
 のではない・・、
  廃藩置県への鬱憤晴らしのためだった。
  久光の側に仕えていた元薩摩藩士・市来四郎は、後に
 書いている・・、
  「久光公は当務の急務を知らるるも、事皆西郷・大久
 保一輩の専断に出て、予議せる処なきを以て、往年以来
 の積憤重なりて、不満に堪へられず、発令の報鹿児島に
 達せし夜陰は、公子侍臣に命じ、邸中に花火を揚げしめ、
 憤気を漏されたり」
(鹿児島県史料「忠義公史料七巻」所収『市来四郎自叙伝
 十』より)
  久光は、廃藩置県が必要だと、急務だと分かっていた
 のだが、やはり、突然、はっきりと藩を廃されたという
 事に、
  そして、しかも、自分の藩の臣下の西郷と大久保の専
 断によって行われたということが、しっくりと気持ちに
 落ちては行かなかった。
  それが、この鬱憤の花火となった。
  また、鹿児島にいた久光の所に、1870年の(明治3年12
 月18日)に、
  久光と西郷を中央政界に呼び戻そうと、
  勅使として岩倉具視と、その随行者としての大久保利
 通の一行が来た。
  この頃の新政府は、多くの課題・難題が山積していた。
  当然、「廃藩置県」の一大改革の件もあった。
  当時、久光は、病気だったので、西郷を久光の代わり
 に中央政界へ派遣した(病気という事にしたのか・・?)。
  東京へ旅立つ前日、久光は、大久保と西郷へ・・、
  「わしは廃藩ということには不同意じゃ。そのところ
 をよく含んで、これから相勤めるように・・」と言った
 という・・、
  西郷と大久保の鹿児島出立は、1871年2月21日(明治4
 年1月3日)だった、
  その出立の前日、出立の挨拶に久光の所に参上した大
 久保の日記に・・
  「従二位公へ拝謁御暇乞且見込種々言上いたし候」
  (日本史籍協会編『大久保利通日記二』より)
  「従二位公(久光)へ拝謁して、暇乞いをし、かつ、
 今後の見込みについて、色々と言上しました・・」とあ
 る。
  ここは当然、廃藩置県が話の中心になっていて、久光
 公が、廃藩置県をしない様にという事に対し、
  これからの時代へ向かって、せねばならない所を、大
 久保は、元藩主の久光へ、言いにくい所を説明したのだ
 ったのだろう。
  しかし、久光は、後にも、西郷と大久保の専断だと言
 う様に、納得し切れていなかった。
  この時より12年さかのぼる1862年5月に、
  久光は、天朝の危機を感じて、勅命を奉じて幕政改革
 を実行させようと、京都へ単独で上った。
  ・・が、
  この時は、勅許を得て上京しようとしたが、婉曲(え
 んきょく、言い回しが穏やかでかどが立たないさま)に
 断られている。
  しかし、志士の激しい動向に怯えていた朝廷は、久光
 が駆けつけてくれて、浪士鎮撫の勅命を与えた。
  しかし、この様な行動をする久光と西郷の間に、この
 時、衝突があった。
  久光と西郷の間は、それ以来、しっくりと行っていな
 かった。
  その点、大久保は、久光の意向を忠実に守る臣下だっ
 た。
  その大久保が、廃藩置県の時は、久光の意向に反した。
  久光は、その点でも、しっくり来ないものを生じさせ
 た。
  1872年6月に、明治天皇陛下が鹿児島に巡幸された際も、
  陸軍大将であった西郷隆盛随行したが、
  西郷は、一度も久光の所へ挨拶に行かなかった。
  この時、久光は、太政大臣三条実美に、西郷を批判
 する書状を送っている。
  これに驚いた西郷は、急遽、鹿児島に戻って、久光の
 所へ行ったが、久光は、西郷に14カ条からなる問題点を
 突き付けた。
  この後、西郷は、鹿児島から外に出られなくなった。
  そして、1873年に、西郷が「明治六年の政変」に敗れ
 て鹿児島に戻った時、久光も独自な動きを始めた。
  そして、この時、1874年に、左大臣に任命された、
  そして、上京し、政府改革の建白を出したりして行く。
  しかし、大久保を中心にした政府は、その久光のすべ
 てを却下した。
  不満を持った久光は、翌年の1875年に、左大臣を辞職
 する。
  そして、その2年後、西郷は、1877年の西南の役へと
 つながって行く。
  また、西郷のその役による死の後、その翌年の1878年
 に、大久保は、東京の紀尾井坂で暗殺される・・、
  久光は、1887年(明治20年)に没し、国葬となるが・・、
 悔いる事が多い久光だったのではないのか?
  国へ尽(つ)くそうという熱意のある久光だったが、
 そして、多くの国の為の意思の下に行動を起こした久光、
  行動した久光だったが・・何か? 歯車が・・合わさ
 らなかった。
1874年6月12日(4月28日)樺太支庁が、東シララカ・ウショ
 ロ両出張所に、漁場廃止の旨を通達した。
1874年6月(明治7年5月)、森有礼「妻妾論」(「明六雑誌」)。
 一夫一婦制の内実、
1874年6月〜8月(5〜6月頃)貿易は・・赤字続き
  大久保利通が、「殖産興業に関する建議書」を作成し
 た。
  「大凡、国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ
 物産ノ多寡ニ係ル。
  而テ物産ノ多寡ハ、人民ノ工業ヲ勉励スルト否ザルト
 ニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ、未ダ嘗テ、政府政官
 ノ誘導奨励ノ力ニ依ラザル無シ。
  維新のときからみれば、「外交内治」「文物制度」は
 ましにはなったが(文物:ぶんぶつ、文化の産物、学問・
 芸術・宗教・法律・制度など)、
  然レドモ勧業殖産ノ一事ニ至リテハ、未ダ全夕其効験
 アルヲ見ズシテ、民産国用、日ニ減縮スルニ似タリ。
  その訳は、民の知識が開けていないというより、むし
 ろ政府の「注意」がたらず、「提携誘導」の力が足りな
 いからだ(提携:ていけい、互いに助け合うこと。共同
 で物事を行なうこと)。
  イギリスも日本と同様、島国にすぎないが、貿易と工
 業によって盛大になった。
  イギリスが「君民一致」し、天然の利を生かし、財の
 用いかたを盛んにし、国家の基礎を確立したのは偉大で
 ある。
  我国もこの重大事に、イギリスを「規範」とすべきで
 ある。
  (明治政府のモデルは、明治10年代にプロシャに移っ
 てゆくが、この時期の大久保は、政治・経済ともにイギ
 リスを規範としている)  
  「民産国用日ニ減縮スル」:
  明治初年以来、対外貿易は大幅赤字を続け、
  明治3年の赤字は1,919万円超、
  明治4年は若干改善、5年914万円、
  明治6年647万円の赤字。
  輸出品は、生糸と茶(輸出の70%以上)ぐらいしかな
 い。
  この年(明治7年)、前年の19世紀最大の恐慌の影響が、
 金銀価格差として日本に押し寄せ、
  明治7年だけで、金貨流出は800万円、
  翌・明治8年には、1,000万円に及び、これは、鋳造高
 の2割を超える額であった。
  数年前まで、政府財政を一手に支えた両替為替商の小
 野組・島田組は、明治7年末に倒産した。
  内務省にとっては、輸出振興、輸入阻止、財政再建
 最重要の課題だった。
1874年6月15日(5月2日)台湾征伐のため、谷干城らが長崎
 を発った。
  大久保の西下を知り、参軍谷干城・赤松則良らが、西
 郷命により軍艦4隻で出港した。
  翌3日、大久保利通が、長崎着。
  大隈重信西郷従道と評議。台湾出兵の議を決す。
  出兵を是認した。
  「兵隊進退」の全権を帯びた大久保だが、これまで遠
 征計画を推進してきていた。
  大久保には、遠征軍の帰還を命令したり、西郷を命令
 達反で処罰する意思もなかった。
  大久保は、「既に福州(閩浙)総督へ公告書を送りた
 る上は、止めるべからざるの実況ゆえ」出兵を是認し、
 「生蕃処分済みの上、兇暴の所業を止め、我が意を遵奉
 するまでは、防制のため相応の人数残しおくべきこと」
 と、「討蕃」終了後も、現地占領を継続するとの積極方
 針までも「御委任の権内を以て裁定」。
  大久保は、積極的な出兵推進者だった。
  大久保の長崎行きは、西郷の暴走を抑止するためでは
 なく、逡巡する大隈に明確な方向を示すこと、そして、
 西郷を激励するためだった。
  大久保日記では、「大難の事ゆえ、心決いたし候」と
 し、
  予想される「難題を醸しだし候節は、大久保はじめ
 その責めに任ずべきこと」を大隈・西郷三者で申し合わ
 せたという。
  政府は、各国外交団の干渉に対応するため、長崎にい
 るリゼンドルの至急帰京を要請した。
  西郷はやむなくこれを了承した。
  長崎を離れるにあたってリゼンドルは、西郷のために
 「蕃地」での詳細な作戦計画書を作成した。
  現地で「熟蕃」懐柔に成功したら、「これを分ちて別
 伍(ご、仲間、組み)となさず、日本人の内に編入する
 を要す」、そうすれば、彼らは日本軍の「配下に帰す」
 と教示した。
1874年6月16日(5月3日)厦門領事陸軍少佐・福島九成(ふ
 くしまきゅうせい、陸軍軍人、青森県令)が、厦門着。
  李総督に出兵通知書伝達。
  11日、出兵通知受けた李鶴年総督、琉球も台湾も清国
 に属している、台湾への出兵は領土相互不可越を約束し
 た日清修好条規違反であり、撤兵要求の回答を西郷都督
 に送った。
1874年6月16日(5月3日)上海のフランス租界で、道路拡張
 案に中国人墓地の破壊が含まれていたため衝突し、死傷者
 が出た。
1874年6月17日(5月4日)大久保利通大隈重信西郷従道
 と長崎で会見し、西郷の強硬意見をいれて、征討の実施
 を決定した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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