(増補版)326E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年7月〜1874年8月)

題:(増補版)326E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年7月〜1874年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年7月(明治7年6月)神奈川県令・中島信行、石阪昌孝
 を県の権少属に抜擢。
1874年7月(明治7年6月)島本仲道(北洲)、大阪船場(北
 浜2丁目)で全国的に早い民権派代言人結社「北洲社」を
 設立。
  多くの弁護士育成をはかり、先駆的な都市民権派とし
 て活躍。
1874年7月(明治7年6月)島本仲道:天保4(1833)年生れ。
 土佐藩士。
  若くして陽明学に傾注し、江戸に出て安井息軒に学ぴ
 久坂玄瑞らの尊攘運動に参加。古沢滋・河野敏鎌らと武
 市瑞山の土佐勤王党に血盟。
  文久3年(1863)武市瑞山と共に投獄され、維新後に放
 免される。
  十津川騒動の鎮撫に加わり、明治3(1870)年、大和五
 条県大参事、東京府権少参事(同4年)、司法大丞兼司法
 大検事・警保頭(同5年)を歴任、江藤新平の司法制度改
 革に協力する。
  明治5〜6年、海軍省所属運送船大阪丸と三菱会社汽船
 山城丸とが瀬戸内海で衝突し、大阪丸は沈没、死傷者が
 多数にのぼる事故発生。
  江藤司法卿は、大阪裁判所長児島惟謙にこれを審按さ
 せる。
  児島は、岩崎弥太郎を召喚するが、岩崎は病と称して
 応ぜず(花街に遊蕩)、児嶋は江藤に電報で指令を仰ぐ。
  江藤は警保頭島本による同郷人岩崎の拘引を躊躇する
 が、島本はこれを拘引する。
  明冶6(1873)年11月、島本は司法三等出仕・大検事・
 警保頭を辞任し、翌7年4月、土佐の立志社設立に参加、
 その法律研究所長となる。
1874年7月14日(6月1日)台湾遠征軍1300、3方面から牡丹
 社の本拠を攻撃、これを降伏させる。〜5日。
  戦死12・負傷17・病死561(全軍3,658人中)。
  政府、13隻の汽船買入れ、三菱会社に貸し下げ軍事輸送
 にあたらせる。
1874年7月18日(6月5日)牡丹社より撤兵、根拠地に帰還。
  台湾出兵による戦闘は、3週間程度(西郷到着後してか
 らは2週間)であるが、台湾滞在は半年に及ぶ。
  現地ではマラリアが流行し、戦闘可能状態ではない。
  「・・尚ほ出征の兵数は3658人にして、下士官以上781
 人、軍人2643人、軍属172人、従僕62人、戦死者12人、病
 死者561人、負傷者17人、・・」(徳富蘇峰「近世日本国
 民史」第90巻)。
  「東京日日新聞」の岸田吟香は、日本最初の従軍記者
 として現地からの報道に活躍し、評判となるが、病気に
 より、7月に帰国した。
  1874年8月7日(6月25日)25日の同紙上に体験談を載せ
 た。
  「予、頃日蕃地より帰りしに諸友人陸続として来たり
 訪う。
  皆云う、台清のことは如何ありしぞ、東京にては評判
 はなはだ悪しかりし故に、君がために大いに心配せしな
 り、よく無難にて帰りたまいしよなど云う者多し。
  ・・そのはなはだしきに至りてほ西郷都督も既に蕃人
 の手に死せり等、種々の浮説現下東京市中に紛々たりし
 ことと知られたり」と、現地との熱気の落差にぼやく。
1874年7月14日(6月1日)イギリス、東インド会社正式解散。
  インドの方々を、好き勝手に殺戮し尽くし、利益の収
 奪をほしいままにし尽くした悪名高いイギリスの東イン
 ド会社(会社名に隠れてのイギリスの国の収奪行為)も
 やっと終わるかに見えた・・、
1874年7月20日(6月7日)外国郵便の始まり(アメリカ合衆
 国と郵便交換条約締結される)
1874年7月20日(6月7日)西郷従道が、参軍・谷干城と陸軍
 少佐・樺山資紀を東京派遣し、終了を報告した。
  併せてアメリカ人の建言通り植民地化を建言。
  「これより専ら地方のことに心を寄せ、永遠の基礎を
 開かんとす・・すなわち優に将士を養い、漸く山野を墾
 (ひら)き以てその良報を得べし」と、
  「蕃地」での移民拓殖の事業に着手すべきことを建言。
1874年7月21日(6月8日)島根県雑賀町の大火(約2000戸焼
 失)
1874年7月22日(6月9日)中江兆民が、2年4ヶ月間のフラン
 ス留学より帰国。この日、横浜に到着。
  1874年8月(明治7年8月)仏学塾「開業願」を提出。
1874年7月27日(6月14日)朝鮮に滞在の森山茂、3回目の
 交渉。好転の兆し。
  1874年9月1日(7月21日)寺島外務卿宛に報告。
  日本の征韓論台湾出兵は清国を通して知られていて、
 日本の出方が注目されている。
  森山は、5ヶ月以内に、外務卿・寺島宗則と外務大丞・
 宗重正(元対馬藩主)の書契を持参、朝鮮政府の礼曹判
 書に提出し、交渉の事前協議に入る旨通告し帰国した。
1874年7月28日(6月15日)植木枝盛(18)の投書を掲載(
 「高知新聞」)。活字になった枝盛の文章の初見。
  「高知新聞」は、明治6年7月30日に民立共立社から発
 刊された。
1874年7月31日(6月18日)イギリス公使パークスが、寺島
 外務卿に各国公使に公告なしの台湾出兵を難詰。
  大兵を他国領土に送るにあたって、各国公使に公告す
 る以前に、軍隊が「私に」出動したのは文明国にあるま
 じきことだ(イギリスのインドの行為は棚に置いた)、
  日本が万国公法を犯しているのは明らかだ、清への場
 合は例外としても、他国へ3千もの大軍を送れば必ず戦争
 になる、日本が清に向かってそのようなことをしたから
 には他国が日本に向かって同様なことをしても文句はい
 えないだろう、もし他国が北海道に3千の軍隊を上陸させ
 たら日本はどうするつもりか・・(日本は清にアヘンの
 麻薬を売って、因縁を付けて戦争するようなイギリスの
 様な事はしていない)。
  さらに、パークスは、清国総署大臣から外務卿あての
 照会に回答したのかと日本側の落ち度を突いてくる(清
 国が何度も何度も麻薬禁止令を出しても、インドから麻
 薬を運んだイギリスの大罪の行為は棚に上げている)。
1874年7月31日(6月18日)大隈蕃地事務局長官、蕃地事務
 局准2等出仕リゼンドル(アメリカ人)と連署台湾出兵
 の法理的根拠をボアソナアドに諮問。
  旧暦6月24日、大久保利通、ボアソナアドを知る。
  旧暦6月25日、ボアソナアド、大隈へ意見書。
  出兵がもたらす戦争への危険性警告。
  大久保は、その後何度もボアソナアドに会い、その万
 国公法理論が重要・有効と認め、北京への随行を決める。
  ボワソナアドの回答。
  1、「蕃地」が無主地であることを論証するためにリ
   ゼンドルが挙げた歴史的・地理的根拠は正当であり、
   清国は領有の「権」を主張できない。
  2、しかし、清国が領有を断念したとの証拠もない(
   言質はある)。
  3、他国が「蕃地」を征服しようとすれば、清国には
   「自国安堵」のために他国の行為を.「妨制」する
   「利」がある。
  ポワソナアド(来日した近代法の学者、フランス人)
 は、「蕃地」無主地論が成立するとしても、清国が自国
 の安全保障を理由に武力干渉に訴えることは国際的に承
 認されると。  
  しかし、清国は「外地である」と日本に返事をして、
 われ関せずの態度を取った。
1874年7月31日(6月18日)陸軍参謀局条例を定めた。
1874年8月4日(6月22日)榎本武揚が、ロシア外務省アジア
 局長ストレモーホフ会談した。
1874年8月5日(6月23日)屯田兵制度設置
  北海道に屯田兵の制度を設けた。
1874年8月6日(6月24日)清国皇帝が、日本の出兵は修交条
 規違反、即時撤退を要求するよう、もし従わない場合は
 罪を明示して討伐するよう閩浙総督李鶴年らに勅命。
  しかし、皇帝が、沿海各地の総督・巡撫・将軍らに戦
 備と勝算を「諮問」したところ、台湾防備関係者以外は
 みな戦備不十分だから勝算なしとの悲観論を上奏。
  清軍の装備は貧弱で士気も低く、軍1万を台湾に派遣
 するがマラリアに苦しむ日本軍3千に対しても何も手出
 しせず。
1874年8月6日(6月24日)台湾から帰着の谷干城が、原住民
 平定近いと報告した。
..
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