(増補版)309E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年12月〜1873年3月)

題:(増補版)309E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年12月〜1873年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1872年12月(明治5年11月)横浜に共同便所が設置された(
 1月説あり)
  横浜港の開港後の外国人が、日本人の立小便に苦情を
 言い、その対策として、1871年に、板囲いで88箇所の簡
 単なものを設け、これが始まりだという説がある。
  日本政府も、「立ち小便をした者には銭100文の罰金刑」
 と布告し、必死に誠実に対応している。
  1872年に、東京において条例が公布された。
  その第49条は、「市中往来筋において、便所にあらざ
 る場所へ小便するもの 違反したら鞭罪とか拘留とす」。
  また、この便所は、四斗樽を地面に埋め、横囲いをし
 ただけで、簡単なものだった故、この辻便所式は、道に
 あふれ出る場合もあった。
  それで、住吉町で薪炭商・実業家の浅野総一郎が、神
 奈川県令の許可を得て、2000円の補助金を得て改善を進
 めた。
  1879年(明治12年)に、63か所を完成させた。
  また、この浅野総一郎は、屎尿(しにょう)を肥料と
 して販売したという。
  1872年2月17日の横浜毎日新聞の報道は、「仮名垣魯文
 立ち小便で科料とられる」とある。
  また、1872年3月3日(明治5年1月24日)英国公使館か
 らの苦情に対し、
  日本の外務省は、「西欧諸国から軽蔑されるきっかけ
 になる、止むを得ず昼間糞尿を運ぶ時は肥桶に必ず蓋を
 するように・・」と、通達している。
  尚、東京府達で出された条例は、1872年11月8日の「東
 京違式註違条例(いしきかいいじょうれい)」と言い、
  この条例は、軽微な犯罪を取り締まる刑罰法だった。
1872年、大阪で、渋谷庄三郎が、「渋谷ビール」を設立し、
 日本人として初めて、本格的ビールの醸造・販売をした。
  その後、1874年に、甲府で野口正章が「三ツ鱗ビール」
 を設立し、
  また、1876年には、官営ビール事業として、北海道で
 北海道開拓使札幌麦酒醸造所が、中川清兵衛を中心に設
 立され、翌年の1877年に、「札幌ビール」を発売した。
  こうして一時は、100社前後のビール会社が設立され、
 文明開花の流れの下で、ハイカラ族がビールを好んで飲
 んだ。
1872年(明治5年)長崎製作所と改称
  長崎造船所が長崎製作所と改称した。
  また、1873年明治6年)長崎造船局と改称した。
1872年、琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)と尖閣諸島
  琉球処分は、1872年〜1879年にかけ、旧来琉球諸島
 施政を委任してきた中山王府を廃して、県を置いた施策
 のこと。
  明治政府が、王国体制のまま存続し続ける琉球王国を、
 日本近代国家に組み入れた政治過程であって、
  1872年の琉球藩設置から1879年の廃藩置県まで一連の
 施策がなされた。
  そして、琉球へ、清への冊封関係の廃止を明確に求め
 た。
  この琉球処分後に、内務省地理局発行の『大日本府県
 管轄図』に魚釣島が記載されるなど、
  日本国内で発行される地図には、尖閣諸島は、明確に
 琉球諸島に含められて記載されている。
  また、1874年に、明治政府は、先に台湾に漂着して殺
 害された琉球人に対する措置として、台湾への出兵を行
 った。
  琉球が、自国の版図であることを明確に中国側に示し
 た。
1872年、6尺5寸を6尺とす(尺貫法)
1872年、子ども芝居始まる。
  江戸の芝居は、大きく大芝居と小芝居に分けられてい
 た。
  大芝居の役者たちは、伝統的な世襲の上に成り立って
 おり、小芝居の役者は、例えば、技量が優れていても大
 芝居に出る事は出来なかった。
  大芝居のスターが、小芝居の劇場に上がることも無か
 った。
  一方、上方では、大芝居・中芝居・子供芝居の三層構
 造になっており、役者の格付けが劇場の大小にも関わっ
 ていた。
  中芝居のスターが大芝居に出る事があったり、大芝
 の役者が中芝居に出演する事もあり、役者が互いに往来
 可能な開放的な組織となっていた。
  例えば、三代目中村歌右衛門は、子供芝居から中芝居
 へ、そして、大芝居へと出世していった典型的な役者だ
 った。
1872年、日本の機械製紙の始まりは、東京・日本橋の有恒
 社において始まった。
1872年2月6日(12月28日)イタリア人アントニオ・メンチ
 ェィ、電話機を発明し特許をとる(グラハム・ベルの発
 明より5年前のこと)
1872年、チャレンジャー号探検航海(チャレンジャーごう
 たんけんこうかい)
  世界一周海洋調査(〜1876年)。
  127,580Kmの航海で、1606日にわたり、海底や海洋生物、
 海水温などを調査し、海洋学の基礎を作った。
  スコットランド人の海洋学者ジョン・マレーが報告書
 の出版を監修した。
1872年12月30日、初のサッカーの公式国際試合が行われた。
  イングランドスコットランドの初の国際サッカー試
 合が、グラスゴーで開催された。
1873年(明治5年〜明治6年)、出来事:
  ・新政府が、仇討ちを禁じ、切腹を廃止した。
  ・第一国立銀行が開業した。
  ・野球が初輸入された。
  ・ウィーンで第一回の国際気象会議が開かれた。
  ・ウィーン万国博覧会に参加出品した。
  ・レンガ造りの建物が出来た。
  ・東京の上野公園、大阪の住吉公園などが公開された。
  ・巻煙草が発売された。
1873年1月1日(明治5年12月3日)太陽暦が実施された。
1873年1月19日、大久保・木戸に召還勅命。
  岩倉具視を大使とする米欧遣外使節団に同行している
 この二人。
  江戸時代に結ばれた不平等条約が期限を迎える。
  その条約の改定の商議を行うことが目的だった。
  また、その条約改正にからむ制度・法律の理論と実際、
 理財・会計に関する法規と方法及び現状、各国の教育の
 諸法規と実情の調査が視察の対象となった。
  予定は10ヶ月余りの期間。
  参議の西郷隆盛板垣退助らが留守政府となった。
  留守政府の統制のために、12条にわたる約束が取り交
 わさた。
  新しいことや、改正することは期間中に行わないこと
 が約束された。
  しかし、この約束は守られなかった。
  留守政府は、兵部省を廃止して、陸軍・海軍二省を設
 置したり、神祇省を廃止して教部省を設置したりした。
  その行動の背景には、政府内の暗闘と反目があった。
  木戸孝允大隈重信伊藤博文井上馨岩倉具視
 大久保利通副島種臣広沢真臣三条実美岩倉具視
 西郷隆盛板垣退助江藤新平大木喬任(たかとう)
 ・・らが、対立したりしていた。
  予算削減を巡る対立など・・が、
  一方、使節団側にも、対米交渉を行ったが、日本側の
 希望する関税自主権領事裁判権居留地問題などに対
 し厚い壁があったりした。
  事態は打開されなく、対米交渉は打ち切りとなった。
  この様な展開のなかに時代は動いていた。
  各国要人とも謁見したり、会見したり・・、
  そして、この様な中、内政・外交とも急迫を告げ、留
 守政府は、木戸・大久保に帰国を命じた。
  しかし、木戸は帰国を延ばした。
  木戸と大久保の間で意見の衝突があった。
  木戸は、大分遅れて、4月16日に帰国の途についた。
1873年1月24日、江藤司法卿が、大蔵省の予算削減に抗議し
 て辞表を提出した(2月5日、却下)
  緊縮財政の方針と、予算制度確立を図ったが、文部省
 が学制頒布、司法省が司法改革などで、高い定額(じょ
 うがく、きまった額)を要求すると拒絶して予算を削っ
 たことが江藤らの怒りを買った。
1873年1月29日(明治6年1月1日)太陽暦実施(陰陽暦の廃
 止)
  太陰暦太陽暦に改む(氷川清話)
1873年2月4日(1月7日)官庁の年末・年始の休暇決まる。
1873年2月6日(1月9日)全国鎮台配置を改めて東京、仙台、
 名古屋、大阪、広島、熊本に置く。
1873年2月7日(1月10日)徴兵令発布
  前年公布された徴兵令発令、常備軍制度確立(20歳か
 ら、徴兵開始)
  制定された徴兵令に基づく徴兵は、鎮台にのみ配備さ
 れることとなり、近衛の壮兵制は維持された。
  国民の義務として、国民皆兵を目指す徴兵令は、後に
 兵役法となった。
  大日本帝国憲法にも・・、
  「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」
 ・・と、兵役の義務が盛り込まれた(第20条)。
  徴兵反対の一揆が起きた。
1873年2月12日(1月15日)公園設立の布告が初めて出た。
  太政官布達により、上野、浅草、深川、飛鳥山、芝の
 5カ所が、日本で最初の公園として指定され、公園造成の
 さきがけとなった。
1873年2月12日(1月15日)東京師範学校に、附属小学校を
 設立した。
  旧国立大学の東京教育大学の前身は、1872年に東京の
 湯島昌平黌に師範学校として創立され、
  英米の教授法を導入して小学校教員の模範的養成にあ
 たった。
  1873年に東京師範学校1886年高等師範学校となり、
 1902年に東京高等師範学校となった。
  そして、色々変遷し、1974年に筑波大学となった。
  1873年に、小学校教授法の経験練習の施設として、付
 属小学校を設置し,東京師範学校と改称した。
1873年2月19日(1月22日)華族士族と平民の相互養子縁組
 が許される。
1873年2月26日(1月29日)紀元節祝日の始(後に2月11日と
 改める)
  紀元節(きげんせつ)は、古事記日本書紀で、日本
 の初代天皇とされる神武天皇が即位した日をもって定め
 た祭日。
1873年2月28日(1月31日)イタリア及びオランダの全権大
 使に佐野常民(さのつねたみ)が任命される。
1873年3月3日、勝海舟、御用あり長崎表差遣和される。特
 に内命あり(氷川清話)
1873年3月5日(2月7日)仇討ち禁止。
  明治政府が、仇討ちの事一切禁止じる。
  司法卿の江藤新平らによる司法制度の整備が行なわれ、
 明治政府は、第37号布告で「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」
 を発布し、仇討を禁止した。
1873年3月5日(2月7日)ロシアに初めて公使を置く(初代
 公使は澤宣嘉・さわのぶよし)
1873年3月7日(2月9日)大蔵少輔・井上馨が、造幣寮(現
 在の造幣局)の全職員の丁髷(ちょんまげ)を切り、洋
 服を着させる通達を出す。
1873年3月13日、清国派遣全権大使が出発。
1873年3月14日、勝海舟、14日出発。鹿児島に至る(氷川清
 話)
  鹿児島県鹿児島市の南州墓地に、勝海舟歌碑がある。
  この年、朝鮮への使節派遣の問題で、新政府を去った
 西郷隆盛は、鹿児島に戻り、青年の教育のため私学校を
 設立した。
  ところが、明治10年・1877年に、この私学校の生徒が、
 西郷の意思に反して暴走し、西南戦争を引き起こした。
  この勝海舟の歌は、幕末以来、西郷と親交の深かった
 海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね、生涯を閉じた亡
 き友のために詠んだ。
  隣に、常夜燈(じょうやとう)が立つ。
  西郷と勝海舟との会談により、江戸城無血開城され、
 江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和
 14年5月、当時の東京市によって建立されたもの。
  歌碑は、この常夜燈と同じ花棚石(けだないし)で
 できている。
  海舟、この年、50歳。
1873年3月15日(2月17日)証券印紙が、初めて発行された。
  日本初の収入印紙は、「証券印紙」という名称で、こ
 の年に発行が始まった。
  20円券は、その最高額券であり、1874年に、発行され
 たが、現存数は極めて少ない状態。
  紙幣寮(現・国立印刷局)に、近代的な印刷技術が導
 入される前のもので、政府から依頼された民間の職人が
 腐食凹版[ふしょくおうはん](エッチング)の技法で、
 原版製作した「手彫印紙」で、この同時代の「手彫切手」
 に似ているが、
  印紙は、切手よりも額面金額が高く、高額券には偽造
 防止のため、地紋印刷が使われている。
  他の手彫り製品には見られない珍しいもので、米粒に
 模様を彫刻するような細密画線には高度な職人技が必要。
1873年3月22日(2月24日)キリスト教の解禁。
  切支丹(キリシタン)禁制の高札を撤去
  キリスト教は、この日まで、キリスト教徒は、迫害が
 続いたというが、これは、キリスト教によくあるオーバ
 ーな言い方で、虚言である。
  研究者は、「17世紀には、幕府はすでに黙認している」
 と言っている。
  日本は、ほんの一時期の取り締まりだけだった。
  刑場の柵の一部を開けて、逃げることもできる様にし
 てもいた。
  「日本人の穏健さ・温厚さ」があった。
  キリスト教が言う「259年も迫害が続いた」と言うのは、
 言い過ぎで、まったくの嘘となっている。
1873年3月25日(2月27日)、副島種臣を清国派遣全権大使に
 任命した。
  この時の、副島大使の行動が、かつての「日いずる国」
 的な行動であったため、中国で問題となった。
  数千年にわたって、中国は、周辺にある国、民族と交
 流を維持していた。
  それらの国、民族は、大国である中国の政治、経済、
 文化などの面に 憧れ、中国に朝貢し、自ら「臣」と名乗
 った。
  16、17世紀に至り、ポルトガル、スペイン、オランダ
 などの国々は、貿易利益のため、中国に渡来したとき、
 持ってくるものを「貢物」だと認め、
  自分も皇帝に「三跪九叩」の礼を行った。
  中国の統治者は、自尊自大の意識をもち、自国の富裕
 を誇示するため、朝貢国への贈り物が「貢物」よりも多
 いという現象も珍しくはなかった。
  中国側は、外国との関係を結ぶとき「天朝上国」「大
 中華思想」という視点から出発したのであった。
  中国は、もとより儀礼を重んずる国である。
  と りわけ、中国の最後の封建王朝の清朝に至り、外国
 使臣の謁見に関する儀礼作法も体系化され、複雑さを極
 めた。
  しかし、複雑な国際情勢、国内情況により、清国政府
 は謁見問題を思うとおりに処理することができなかった。
  特に、清朝末期(同治帝,光緒帝の時代)に至り、謁
 見の儀礼に関する争いは終始絶えなかった。
  1873年、日本の外務卿・副島種臣は、特命全権大使
 任命され、北京に赴いた。
  彼は、北京で謁見 問題をめぐり、空前の波瀾を起した。
  今回の謁見は、何千年の中国史上、初めて正式に立礼
 で皇帝に謁見を済ませるという、画期的な出来事であっ
 た。
  副島の謁見順位も英・米などの大国を おさえ、第一番
 目であった。
  この結果は、明治維新後の日本の姿が、その様に映し
 出されていて、輝かしい出来事であった。
  従って、日本の研究では、従来、副島の対清外交に重
 点を置き、彼は、いかに「国権外交」を実現させたのか
 を論じている。
  一方、中国側の研究では、副島に対し批判的な見方が
 多く、清国側は、いかに副島に屈服したのかという過程
 が 注目されている。
  副島の、この様な形の謁見の理由として、副島の個人
 の役割を強調し、他の使節に先駆け、一人で、三揖の礼
 (他の使節は五鞠躬)で謁見を済ませた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive