(増補版)274E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年1月〜1868年2月)

題:(増補版)274E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年1月〜1868年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年1月21日(慶應3年12月27日)明治天皇が、最初の御
 閲兵
  明治天皇、最初の御閲兵が、この日、京都御所の建春
 門前で行われた。
  参列の光栄に浴した諸隊は、一番隊から四番隊までで、
  一番隊は、土佐藩の約40人、
  二番隊は、薩摩藩の約60人、
  三番隊に、長州藩の約400人、
  四番隊が薩摩藩のおよそ1,000人、
  総計約1,500人の勤王軍となった。
  中でも薩摩藩の兵は、他藩と趣を異にして、服装も帽
 子も揃いのイギリス式を模していた。
  そして、大太鼓、笛などの軍楽隊を先頭に、砲兵隊も
 加わり盛況に行われた。
  当時の事が、谷干城の日記には、
  「斯(か)くの如き盛大な観兵式は余未だかって見ざる
 所也」と述べている。
  時節柄、銃の発射演習は行われなかった。。
1868年1月22日(12月28日)今津藩、及び、桑名藩の佐幕党、
 および、旗本諸隊が憤怒し、徳川慶喜に迫り、挙兵を主
 張した。
1868年1月、小栗忠順おぐりただまさ、幕臣小栗上野介
 は、長州征伐を奇貨(きか、利用すれば思わぬ利益を得
 られそうな事柄・機会)として、
  まず、長州を倒し、次に薩州を倒して、幕府のもとに
 郡県制度を立てようと企て、
  フランス公使レオン・ロセスの紹介で、フランスから
 銀600万両と、年賦で軍艦数そうを借り受ける約束をした
 が、
  これを知っていたものは、慶喜公ほか閣老をはじめ4,
 5人に過ぎなかった。
  長州征伐が難しくなったなど、そうこうするうちに、
 慶応3年の12月(1868年1月)、フランスから破談の知ら
 せが来た。
  後でフランス公使が俺に、「小栗さんほどの人物が、
 わずか600万両くらいの金の破談で、腰を抜かすとは、さ
 ても驚き入った事だ」と言ったのを見ても、
  この時、小栗がどれほど失望したかは知れるよ。
  小栗は、わずか600万両のために徳川の天下を賭けよう
 としたのだ(氷川清話)
1868年1月23日(12月29日)岩倉具視西郷隆盛井上馨
 大久保利通らが、三条実美邸にて施政を議した。
1868年1月23日(慶応3年12月29日)徳川慶喜が、兵を率い
 て京へ上ることを声明した。
  徳川慶喜が、慶応3年12月29日に、ついに、兵を率いて
 京へ上ることを声明した。
  そして、慶喜は、京都に向け進軍を開始した。
  今までの流れを顧みると・・
  慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨
 害があったが、それを抑えて、慶喜は、長州征伐につい
 ての天皇からの勅命を得た。
  しかし、薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、
 幕府軍は、連敗を喫した。
  その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大
 坂城で薨去する。
  慶喜は、朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津
 藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に
 成功した。
  家茂の後継として、老中の板倉勝静小笠原長行は、
 江戸の異論を抑えて、慶喜を次期将軍に推した。
  慶喜は、これを固辞し、8月20日に、徳川宗家は相続し
 たものの将軍職就任は拒み続け、
  12月5日に、将軍宣下を受け、ようやく将軍に就任した。
  これは、言わば恩を売った形で将軍になることで、政
 治を有利に進めていく狙いがあったと言われているが、
  就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」
 説を否定する根拠もないのが実情となっている。
  この頃の慶喜は、はっきりと開国を指向するようにな
 っており、将軍職就任の受諾は、開国体制への本格的な
 移行を視野に入れたものであった。
  そして・・、
  大政奉還後の政治体制については、諸侯会議によって
 定められるはずであった・・が、
  12月、薩摩藩らは、政変により朝廷を制圧し、慶喜
 新政府から排除した(王政復古)。
  慶喜には、辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返
 上)が命ぜられた。
  慶喜は、衝突を避けるべく会津藩桑名藩兵とともに、
 大坂城に退去し、
  諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。
  慶喜は、越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な
 形とし、年末には、自身の議定就任(新政府への参画)
 がほぼ確定した。
  しかし、翌・慶応4年(1868年)に、薩摩藩の挑発に乗
 った慶喜は、会津桑名藩兵とともに行動を起こした。
  1867年12月(旧暦、11月)に、上京した有力大名は、
 わずかだった。
1868年1月24日(12月30日)松平慶永、成瀬正肥ら、参内し
 て徳川慶喜の復命書を上る。
  戦いを避けようとして出された復命書は・・、
  奉帰政権将軍職辞退の議被聞食候上は官位も一等を辞
 し奉り且つ政府御入費も差上度段申上候心底には候へど
 も即今手元人心居合兼痛心の訳柄も御座候に付鎮定次第
 奏願上度候間此段相含於両人可然様及執奏呉候様申聞候
 事も御座候間慶永天地へ誓つて御請合申上候間徳川内府
 内願之節御聞届被下候様奏願上候  慶 永
1868年1月26日(1月2日)松平泰直が、全軍15,000余を引率
 して進軍を開始した(鳥羽伏見の戦いの序幕)
1868年1月27日(1月3日)鳥羽・伏見の戦い起きた。
  戊辰戦争始まる。
  (1)三代目・中村仲蔵の日記・・、
  「慶喜公、会津・桑名を先手として、3000人程の少人
 数にて、上洛のところ、薩長の藩、伏見に関門と構え、
 これを拒み留む。
  慶喜公は、天朝のお召なれば、押して通らんと、人数
 を進む。
  関門より不意に大砲を放つ。
  遂に戦争となり、然るに薩長、錦の旗を押し立て、こ
 れへ砲発せしゆゑ、朝敵と口々に叫ぶ、
  ここに於いて、江戸方、敗北して、淀へ引取る」。
  薩長の官軍と会津・桑名の幕軍が衝突し、幕府軍は総
 崩れになった。
  (2)幕臣・川村修就の日記:伏見・淀・竹田街道
 に薩摩兵より御先手之向に戦争これ有り。
  (3)前将軍先鋒隊が伏見鳥羽で薩摩・長州藩と戦う
 (氷川清話)
1868年、江戸の噂・・、
  戊辰戦争勃発の噂は、江戸に、またたくうちに広まっ
 た。
  芝居は休みとなり、開けたところで客は来ない。
  去年暮れの三田薩摩藩邸焼打ち事件以来の治安の悪化。
  それに伴う不景気だった。
1868年、江戸城中では・・、
  戊申の変の事は・・、城中は鼎(かなえ)を沸かすよ
 うだった。
  この時の幕議では、事の起こりが少々の行き違いだか
 ら、大した事にもなるまいとの説だったけれども、
  俺は、一人で、西郷めがこの機に乗じて、天兵を差し
 向けはないかと心配していたところが、やはりやって来
 たわい。・・(氷川清話)
1868年1月27日(1月3日)東郷平八郎が、海軍生活の第一歩
 を踏み出した。
1868年1月28日(1月4日) 朝廷が、仁和寺宮嘉彰親王に錦
 旗・節刀を与えた(1月3日か?)。
  薩長軍が、官軍となった。
  この年、宮さん宮さんの俗謡的な最初の軍歌とも言え
 る歌が流行した。
1868年、薩長軍が官軍になったので・・、
  御三家の筆頭の尾張藩が官軍方についた。
  そして、紀州や水戸、高松などの親藩も官軍に味方し
 た。
  鳥羽・伏見の戦いで、高松藩幕府軍と戦闘までした。
  薩長軍のままだったら違っただろうと言われている。
1868年1月30日(1月6日)鳥羽・伏見に敗れた幕府の軍が、
 大阪へ敗走した。
  慶喜は恭順の意を示そうと大坂へ下った。
  そして、慶喜公は、大阪城をわずかな供を連れて抜け
 出し、開陽丸で海路江戸へ帰った。
  幕臣の日記:今夜、天保山沖にて開陽へ御乗船。
1868年1月30日(1月6日) 幕臣の日記:今日、浪華(大阪)
 御出帆。
1868年1月31日(1月7日)慶喜追討令
  勅して、徳川慶喜の罪を声明し、征討の大号令が下っ
 た。
  また、公卿、大名の去就を決せしむ。
  旧幕府軍、朝敵となる。
1868年2月1日(1月8日)長州藩兵、大阪城の幕軍を砲撃す。
1868年2月2日(1月9日)薩長藩の兵、備後福山城を降す。
1868年2月3日(1月10日)土佐商会、全焼
  午前2時頃、長崎の本古川町から出火し、榎津町、萬
 屋町、東浜町に延焼した。
  そして、西浜町海岸沿いの土佐商会が全焼してしまっ
 た。
  長崎に、鳥羽伏見の戦いが発生したことが伝わり、長
 崎の町には、流言飛語が乱れ飛び、市民は不安にかられ
 た。
  長崎の町から逃げ出す者もいた。
  海援隊の隊長・佐々木三四郎土佐藩士でもある)は、
 土佐藩としても関わっていた土佐商会の事もあって、2月
 6日、薩摩藩の松方助左衛門を訪ね対策を協議した。
  勤王派の海援隊は、町の不安の状況の中で、幕府方の
 遊撃隊と一触即発の戦々恐々の状態の中にあった。
  夜、佐々木は、単身で西役所で出向いて、奉行の伊豆
 守に面会し、争いが起きない様にと説得した。
  伊豆守は「慶喜追討令」が出ている情報を入手してお
 り、九州諸藩が勤王派が多いことも承知していた。
  この後、奉行は、長崎を脱出した。
  残っていた役人は、帰順の意思を表明した。
  薩摩藩の松方は、遊撃隊へ、単身で出向き、事態を説
 明し、説得した。
  遊撃隊の幹部の白江竜吉は、松方の意を受け入れ、一
 触即発の状態は回避された。
  この様な状況で、長崎の町の人達も不安の中に居た。
  長崎は、無政府状態となっていた。
  幕府の残した金と回米は、市民へ配られた。
  配給を受けた者は、2万人以上に達した。
  また、 「旧来のわだかまりをいっさい捨て、今後ど
 んなことが起きても互いに協力し、朝廷のため鉄石の誠
 意を示す」と、18の藩が誓書に署名したりし、長崎の治
 安・秩序が回復する努力がなされた。
  市民向けに高札も立った、「流言などにまどわされず、
 一般は安心して生活するように」・・と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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