(増補版)272E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年9月〜1867年11月)

題:(増補版)272E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年9月〜1867年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1867年9月22日(8月25日)土佐藩士・後藤象二郎らが、藩
 主の命により大政奉還の建策(けんさく、計画を立てる
 こと)のため、高知を発ち、上洛した。
1867年10月、お陰参り(ええじゃないか)大流行。
1867年10月1日(9月4日)幕府が、デンマークと通商条約締
 結した。
1867年10月3日(9月6日)幕府が、イタリアと通商本条約締
 結した。
1867年10月6日(9月9日)土佐藩士・後藤象二郎、福岡藤次
 (孝弟)ら、小松帯刀西郷隆盛と会見し、幕府に対す
 る武力牽制の延期を求める(西郷隆盛訊かず)
1867年10月8日(9月11日)島津忠義(しまづただよし、薩摩
 藩主、島津久光の子)が、1000余の兵を率いて京都に入っ
 た(西郷隆盛の王政復古の大計いよいよ熟す)
1867年10月9日(9月12日)江戸〜大阪間に飛脚船が開設さ
 れ、始まった。
  農民・町人も乗船を許可された。
1867年10月11日(9月14日)幕府が、江戸の市街地に3階建
 て家屋の建築を許可した。
1867年10月12日(9月15日)三代目・澤村田之助(さわむら
 たのすけ、歌舞伎役者)が、片足切断の大手術(義足を
 つけた最初の日本人)
1867年10月14日(9月17日)正岡子規、誕生。
  正岡子規愛媛県で生まれた。
  この年には、夏目漱石尾崎紅葉も生まれている。
1867年10月15日(9月18日)薩摩藩士・大久保利通らが、山
 口において毛利敬親父子に謁し、薩長攻守同盟を謀る。
1867年10月17日(9月20日海援隊坂本龍馬が、長崎を発
 して下関に向う(10月15日説あり)
  坂本龍馬が、プロシア商館からライフル小銃1300挺を
 購入し、
  土佐藩へ輸送のため芸州藩(広島藩)の震天丸で長崎
 を出帆した。
1867年10月29日(10月3日)山内豊信(容堂)、後藤象二郎
 福岡孝親ら大政奉還建白書を、老中・板倉勝静に提出し
 た。
1867年10月30日(10月4日)土佐藩主・山内容堂が、将軍・
 徳川慶喜へ、大政奉還の建白書を提出した(10月29日説
 あり)
1867年11月1日(10月6日)大久保利通品川弥二郎の両人
 が岩倉具視を訪ねて、「錦の御旗」作製について相談す。
1867年11月1日(10月6日)芸州藩主・浅野茂長が、藩士
 辻将曹をして書を幕府に呈せしめ、政権変換を建言す。
1867年11月3日(10月8日)長州藩品川弥二郎が、上京せ
 る広沢真臣と共に、薩摩の小松帯刀西郷隆盛、大久保
 利通、芸州藩の辻将曹、植田元次郎らと共に、三藩合同
 し倒幕の事を議決する。
1867年11月4日(10月9日)薩摩、長州、芸州三藩の倒幕連
 盟成立の顛末につき、中山忠能(なかやまただやす、公
 卿、明治天皇の外祖父)が、委曲(いきょく、詳しく細
 かなこと)奏上する。
1867年11月5日(10月10日)坂本龍馬、倒幕を期し江戸に入
 る。
1867年11月7日(10月12日)将軍・徳川慶喜が、老中以下諸
 有司を召し、大政奉還の已むを得ざる旨を懇諭する。
1867年11月8日(10月13日)薩長両藩主に倒幕の蜜勅。
  討幕の密勅が薩摩・長州に下りた。
  徳川慶喜が、大政奉還を乞うた(1867年11月8日)。
  翌日、勅許。
  将軍の徳川慶喜が、政権を朝廷に返還(大政奉還)(
 1867年11月9日)した。
  江戸幕府がほろんだ。
1867年11月9日、討幕の密勅が、薩摩藩長州藩に下った
 (現在では偽勅説が有力)
1867年11月9日(10月14日)大政奉還
  徳川慶喜が、朝廷に大政奉還した(家康以来270年の歴
 史に幕が下りた)
1867年11月9日(旧暦、10月14日)大政奉還
  江戸幕府・第15代将軍・徳川慶喜が、政権返上を明治
 天皇に上奏す(大政奉還)。
  朝廷は、これを受けて、薩長に倒幕の実行延期の沙汰
 書を下す。
  翌(1867年11月10日)に、天皇は奏上を勅許した。
  実際には、朝廷は、外交に関して、為す術は無く、
 1867年11月18日(旧暦、10月23日)に、外交については、
 引き続き、幕府が、中心となって行なうことを認める通
 知を出された。
  1867年12月14日(旧暦、11月19日)の江戸開市と、新
 潟開港の延期通告や、
  1867年12月23日(旧暦、11月28日)のロシアとの改税
 約書締結を行ったのは幕府だった。
  朝廷は、慶喜に、当分の間、引き続き庶政を委任し、
 諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため、上
 京を辞退する大名が相次いだ、
  将軍職を巡る慶喜の進退に関し、何ら、主体的な意思
 決定ができぬまま、事態は推移した。
  1867年12月(旧暦、11月中)に上京した有力大名は、
 薩摩・芸州・尾張・越前の各藩のみで、
  土佐藩山内容堂が入京したのがようやく1868年1月2
 日(旧暦、12月8日)であった(王政復古クーデターが勃
 発するのはその翌日・1868年1月3日である)。
  この間、土佐藩は、坂本龍馬を越前藩に派遣するなど、
 公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。
  他方、会津藩桑名藩紀州藩幕臣らにの間には、
 大政奉還が、薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発
 が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。
  この時期の朝廷は、二条摂政や、賀陽宮朝彦親王(中
 川宮、維新後久邇宮)ら親幕府派の上級公家によってな
 お主催されていたのであり、
  大政奉還がなされても、この様な朝廷の下に開かれる
 新政府(公武合体政府)は、慶喜主導になることが当然
 のごとく予想された。
  薩長や、岩倉ら討幕派は、クーデターによってまず朝
 廷内の親幕府派中心の摂政・関白・その他従来の役職を
 廃止し、体制を刷新し、朝廷の実権を掌握する必要があ
 った。
  討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉
 ら倒幕派の中下級公家と、薩長側が、慶喜のそうした狙
 いに対抗する非常手段として、画策したものである。
  密勅を受けた討幕の実行は、慶喜の速やかな大政奉還
 が朝廷に受け入れられたことにより、いったん延期とな
 ったが、
  薩摩・長州・芸州の3藩は、再び、出兵計画を練り直し、
 土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで、1868年1月3日(旧
 暦、12月9日)の王政復古へと向かっていくことになった。
1867年11月9日、大政奉還
  江戸幕府の第15代将軍・徳川 慶喜が、政権の返上を明
 治天皇に上奏し、翌15日(旧暦)に、天皇が、これを勅
 許した。
  幕末、及び、維新の方々の優秀さは、外国勢力を引き
 入れて相戦うということが駄目な事を良く知っていた。
  それは、禁じ手だとよく知っていた。
  悲しいかな、ベトナムには、17世紀に鄭政権が、オラ
 ンダを引き入れ、
  また、阮政権が、ポルトガルを引き入れ、当時の内乱
 をいっそう複雑にしてしまった。
  日本の幕末の指導者たちは、こういう事態が起こるこ
 とを恐れて、自らの手で政権を自沈させてしまった。
1867年11月、徳川慶喜の将軍職辞職
  徳川慶喜は、薩長両藩に倒幕の密勅が下ると、山内豊
 信の意見を入れ、ただちに将軍職を辞した(大政奉還)。
  しかし、倒幕派慶喜に対する辞官納地要求で不満が
 爆発し、鳥羽伏見の戦いとなって行く。
1867年11月10日(10月15日)朝廷の允許
  朝廷が、徳川慶喜大政奉還に允許(いんきょ、許す
 こと、許可)す。
  将軍慶喜大政奉還を奏す。朝廷において万機決裁の
 旨布告(氷川清話)
  朝廷から長州に対し倒幕の密勅が下った。しかしその
 日、15代・将軍・徳川慶喜は、大政奉還の上書を奉じて
 勅許された。
1867年11月10日、大政奉還・・坂本龍馬の感激
  慶応三年十月十四日、慶喜が将軍を辞し、いわゆる大
 政奉還が実現したとき、
  これを聞いた坂本龍馬の感激は大変なものであった。
  「よくも断じ賜えるものかな。この公の身辺に万一の
 事あるときは、自分は誓って一命を捧げてこれを守らん。
  天下の為に、その公正な処置に感謝せずにいられない」
 と言って、感涙にむせんだ・・という。
  「私を捨てて公につく」という出処進退に、竜馬は、
 純粋に感動できた人である(氷川清話)  
  大政奉還・・西郷・大久保・桂は、新帝の外祖父・中
 山忠能を通じて工作し、倒幕の密勅を手にした。
  同じ日に、慶喜は、大政奉還の挙に出た。
  幕府が消滅したので、密勅は宙に浮いた。
  大政奉還をしても徳川家は残る。
  竜馬が発案して、土佐藩山内容堂が演出した。
  主導権が、土佐藩に奪われることを西郷は我慢できな
 いと思った。
1867年11月12日(10月17日)伊東玄伯(いとうげwんぱく、
 医師)が、日本人として初めて電報を打つ。
  オランダに留学中の伊藤玄伯が、一緒にヨーロッパ留
 学をしてアムステルダムに滞在していた赤松則良へ、「
 明日、そちらに着きますので宜しく」と打電した。
  1868年3月には、フランスのパリから日本に向けて、電
 報が打たれてもいる。
  これは、徳川昭武で、旅費がなくなって、電報なら早
 く用件を伝えることが出来ると聞いて、「金あらず、資
 金援助頼む」と打った。
  しかし、この時、直接、日本に打つことは出来なかっ
 たので、ロンドンに打たれ、ロンドンから大西洋を横断
 する海底ケーブルでサンフランシスコに電報が送られ、
 それを印刷して、日本へ船便で運ぶというものだった。
  日本到着まで1ヶ月以上もかかったという。
1867年11月16日(10月21日)幕府が、諸大名に総登城を命
 ず。
1867年11月19日(10月24日)徳川慶喜が、朝廷に征夷大将
 軍の辞表を提出。
   慶喜征夷大将軍辞職の申し出に対し、朝廷は、これ
 を認めず。
1867年11月、毛利侯入京(氷川清話)
1867年11月、官位は旧のまま脱走の公卿入京(氷川清話)
1867年11月、前将軍、京都を退く(氷川清話)
  徳川慶喜は、恭順の意を示そうと大坂へ下った。
  しかし、慶喜にその気は無くても、前将軍という名か
 ら兵力が増強された。
  武器弾薬が蓄積される。
  兵糧が調達され、フランス公使が戦闘を支援すると申
 し出て来た。
  それでも、慶喜は、冷静であり続けた。
  しかし、暴発を押さえ通せる保証はない。
  大久保と慶喜との忍耐比べには限度がある。
  大久保は、西郷と相談した。
  西郷は、武力発動の決意があった。
  戦争の大義名分について、西郷に謀略があった。
  血なまぐさい京都と違って、江戸には平穏な暮らしが
 保たれていた。
  ところが、突然に無頼の徒がはびこり、火付け・押し
 込み・拐かし(かどわかし、誘拐)など、狼藉の限りを
 尽くした。
  西郷が、東国に明るい相良総三(さがらそうぞう、特
 に、特定の藩に属さない尊攘派志士)らに江戸を錯乱さ
 せたのだった。
  たまりかねた幕府は、無頼の徒が屯する薩摩藩邸に砲
 弾を撃ち込んだ。
  大阪城に居た慶喜も、幕臣の怒りを抑えようがなかっ
 た。
  倒幕派の挑発だと知りつつ、薩摩を除けと軍を発した。
  謀略は成功し、西郷は、大久保に後事(朝廷のこと)
 を託して、出陣した。
  鳥羽伏見街道を攻め上ってくる徳川の軍勢に、薩長
 砲列が火を噴いた。
  戊辰戦争が開始された(1868年1月に開始し、1869年に
 終わった)。
  戦場には錦の御旗が翻った。
  徳川軍を怯(ひる)ませた。
  官軍と賊軍に分かれる。
  徳川軍は、総崩れになり、慶喜は、秘かに江戸に逃れ
 た。
  西郷は、東征軍の総参謀長となった。
  最上位の地位である。
  西郷の謀略はすごかった。
  江戸の攪(かく)乱工作に功のあった相良総三は、東
 征軍の先鋒として中山道を進んでいたが、
  「偽官軍だ」の汚名をかぶせられて、諏訪湖畔で処刑
 された。
  歴史のダーティな部分を知るために消されたのだった。
  処刑を命じたのは西郷だった。
  江戸に帰った慶喜は、抗戦を説く幕臣に、耳をかさず、
 ひたすら恭順の意を示そうとした。
  そうとは知らぬ西郷は、江戸開城に猛りつつ、駿府
 まで攻め上っていた。
  その時、幕臣山岡鉄舟が、陸軍総裁・勝海舟の手紙
 を持参し、自らも訴えた。
  「戦に逸る(はやる、あせる)だけでは、王師(おう
 し、王の軍勢、官軍)とは申せますまい。徳川もまた帝
 (みかど)の民でございます」。
  西郷は、臆する事のない山岡の度胸と誠意に動かされ、
 「慶喜公は、この西郷が身命に代えてお守り致す」と言
 った。
  江戸城総攻撃の時が迫る中で、西郷は、柴田町の薩摩
 屋敷に海舟を迎えた(1868年3月13日)。
  4年前に初めて会った時(1864年9月11日)、西郷は、
 勝の偉才に惚れた。
  しかし、総参謀長として西郷は、最後の質問を放った。
  返事次第では、会談は決裂するだろう。
  勝も、江戸を自らの手で焼く手筈(てはず)を、すで
 に整えている。
  勝は言った「江戸を焼けば、この国も支那やインドの
 轍を踏む(てつをふむ、前人の犯した失敗を繰り返すた
 とえ)ことになる」。
  大きく首肯(しゅこう、うなずくこと)した西郷は、
 隣室の側近を呼ぶと告げた。
  「江戸城総攻撃は取り止め」。
  江戸の無血開城によって、幕藩体制は終焉した(1868
 年4月)。
  列強の植民地化の危機も去った。
  西郷は、我がこと成れりと野に下ったが、新政府は、
 西郷を迎えて、筆頭参議に据えた(1871年)。
  しかし、破壊の時代にときめいた者は、必ずしも、新
 時代建設にも適任とはならない。
  新時代プランナーとしての精彩は欠いたが、令名(れ
 いめい、名声)は却(かえ)って輝きを増した。
  価値観の混乱から、新政府に不満を持った者が、巷(
 ちまた)に溢(あふ)れ、彼らは、西郷を慕った。
  大久保は、西郷の存在に危険を感じ、征韓論を政争の
 具にして、かつての盟友を追放した(1873年)。
  新政府の権力を掌握した大久保は、西郷を担いで暴走
 する薩摩軍団を殲滅(せんめつ)した(西南の役、1877
 年)。
  西郷は果(は)て、それから僅か8ヶ月後に、大久保
 利通も紀尾井坂の凶刃に倒れた(1878年)(参考:プレ
 ジデント平成10年7月号)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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