(増補版)281E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月〜1868年5月)

題:(増補版)281E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月〜1868年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年4月27日(4月5日)官報の始まりといえる太政官日誌
 が、発行された(毎月6回) (旧暦2月23日、1868年3月16
 日説あり)
  明治新政府が、太政官総裁局日誌司に編集させ,京都
 の御用書物師・村上勘兵衛に命じて発行(創刊)させた。
  明治10年1月22日(1877年3月6日)の1177号まで発行さ
 れた(1877年1月までの説あり)。
  日誌の内容は、新政府の法令,人事,伺書への回答な
 どであった。
1868年4月28日(4月6日)明治天皇陛下が、大阪城中におい
 て、諸藩兵(陸軍)の操練を観給う。
  明治天皇は、明治元年3月21日(1868年4月13日)には
 大阪行幸をなされて、
  3月26日(1868年4月18日)には、天保山(てんぽうざ
 ん)沖の海軍をご親閲になられていた。
1868年4月28日、西郷とイギリス公使との接触・・、
  勝海舟が進んで接触し、その力を利用しようとしたの
 はイギリスの公使パークスと、その書記官のアーネスト・
 サトウであった。
  アーネスト・サトウの書いた『一外交官の見た明治維
 新』にその事が出ている。
  「4月1日(1868年)には、江戸へ出て、同地の情勢を
 探ったのである。
  ・・私の入手した情報の主な出所は、従来、徳川海軍
 の首領株であった勝安房守であった。
  私は、人目を避けるため、ことさら暗くなってから、
 勝を訪問する事にしていた。
  勝は、慶喜の一命を擁護するためには戦争も辞せずと
 言い、
  (戦争は)天皇の不名誉となるばかりでなく、内乱を
 長引かせるような過酷な要求は、必ずや、西郷の手紙で
 阻止されるものと信じると述べた。
  勝は、また、ハリー・パークス卿に、天皇の政府に対
 する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いで
 貰いたいと頼み、長官も、再三、この件で尽力した。
  特に、西郷が、4月28日に、パークス卿を横浜に訪ねた
 時には、
  卿は、西郷に向かって、慶喜とその一派に対して、苛
 酷な処分、特に体刑をもって臨むならば、ヨーロッパ諸
 国の世論は、その非を鳴らして、新政府の評判を傷つけ
 る事になろうと警告した。
  西郷は、前将軍の一命を要求するようなことはあるま
 いし、
  慶喜をそそのかして、京都へ軍を進めさせた連中にも、
 同様に寛大な処置が取られると思うと語った」。(氷川
 清話)
1868年4月28日、海舟の趣旨は・・、
  幕末の討幕運動の過程で、「徳川に代わるものは、薩
 摩か、長州か」といった、関ケ原の合戦の仇討的な私闘
 に終わらせず、
  できるだけ「公的」なものに高めようとしたのが、竜
 馬・海舟・南州らの悲願であった。
  慶応4年4月28日付で「西郷参謀之与へて方今人心離散
 之基源を論ずるの建言」という海舟の文章の中に、「第
 4、一家不和を生ずれば一家滅亡す。一国不和を生ずれば
 其国滅亡すべし」とあるが、
  海舟の頭脳には、あの長崎伝習所いらい夢寐(むび、
 眠って夢を見ること。また、その間)にも忘れない「近
 代国家」のイメージがあった。
  その国家観念は、「私」でなく「公」であり、「不正」
 でなく「正」「一正」「大正」でなければならなかった。
 ・・と同時に、この建言にあるように「和」(連帯感)
 が無くてはならない。
  平和裏に江戸城を引き渡した海舟の「趣旨」は、日本
 を近代国家に作りかえるためには、泥沼の闘争に陥って、
 救いがたい分裂と憎悪とを国民に残してはならない、と
 いう点にあった。
  幕府は、日本政府として「公」であり、これは政権返
 上の際に既に譲渡して今はない。
  残るのは徳川家とその家臣団であり、生活権は主張で
 きるが、それ以上は「私」に過ぎない。
  その「私」のために戦うとすれば、私闘になって、大
 義名分は失われる。
  しかし、実際問題として、徳川慶喜を死罪にすれば、
 徳川家臣団の恨みは残り、国家の不安定な状態に陥る。
1868年4月30日(4月8日)大総督の有栖川宮熾仁親王が、本
 営駿府を発った。
1868年4月、学習院・・再興・・、
  京都に学習院が再興された。
  この年の4月、京都学習院を大学寮代と改称した。
  学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育
 機関にあった。
  19世紀の初め、光格天皇は、朝廷の権威の復活を強く
 意識し、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を構
 想した。
  続く、仁孝天皇の時代に、公家のための学問所を作る
 計画が決まり、
  孝明天皇に代わった1847年(弘化4年)3月、京都御所
 の東側に学問所の設置が実現し、講義が開始された。
  翌々年の1849年(嘉永2年)に、「学習院」の額(=勅
 額)が下賜され、学習院の名称が定まった。
  勅学 当初の学則には、「漢学」とともに「和学」を重
 視する教育方針が示されていた。
  1853年(嘉永6年)、ペリー来航という大きな転機を迎
 えて、幕末の動乱が始まり、尊王攘夷運動が拡がり、長
 州藩士をはじめとする尊攘派の志士は、京都に参集した。
  そして、同派の公家と結んで朝廷を動かそうとした。
  京都の学習院は、一時期、尊王攘夷派の公家と志士た
 ちの集会所として利用されたりした。
  だが、1863年文久3年)に公武合体派による朝廷内で
 のクーデター(八月十八日の政変)がおこり、尊攘派
 長州藩の勢力は京都を追われた。
  ここで、学習院は、本来の教育機関の姿に戻った。
  そして、1867年(慶応3年)の大政奉還直後まで講義が
 行われた。
  系譜を引く京都大学校は、1870年(明治3年)に廃止さ
 れた。
1868年5月1日(4月9日)大久保利通が、初めて、明治天皇
 に参謁した。
   無上の光栄に浴して、感涙に咽ると・・、
1868年5月2日(4月10日)会津戦争
  藩論が分かれた美濃・郡上藩は藩士47名を秘かに脱藩さ
 せ、幕府軍側の一隊として凌霜隊(りょうそうたい)を
 結成させた。
  会津を救いたいという意見と・・二論があった。
  そして、この日、江戸の本所中の橋菊屋に集合し、江
 戸湾を船で出発した。
  海路北上し、会津へ向かった。
  出身藩の郡上八幡城郭にその功績を標す碑がある。
  この碑には隊長・朝比奈茂吉以下35人の名が刻まれて
 いる。
  4万8千石の藩の存亡がかかる故に藩論が分かれのだろ
 うが・・、
  会津へ向かった隊士たちは懸命に戦った。
  また、籠城戦を白虎隊らと共に必死に戦うが・・、
  生き残った隊士たちは、郡上へと護送された。
  藩は、新政府の目を気にして隊士たちを入牢させ、
  一時は処刑となったが、城下の寺の住職たちの嘆願に
 よって中止された。
  慰霊碑は、官軍・新政府側についたであろう藩士の子
 孫の方たちによって建立されたという。
  官軍側につくか、会津側につくか・・は、紙一重で・・
 同じ藩の隊士だったという優しさが建立の行為となった。
  また、この日に、伊予松山藩水戸藩の脱走者から成る
 草風隊(そうふうたい)が、会津を救いたいと、会津
 向けて出発している。
  草風隊は、元幕府陸軍奉行・大鳥圭介の脱走に呼応し
 て、市川の鴻ノ巣台に屯集して一隊を組織したとも・・、
  隊長の天野花陰と村上求馬で、隊士はフランス式伝習
 をうけた旧幕歩兵の精鋭で、総勢100人とも・・、
  大鳥のすすめで、他の脱走部隊と共に日光へ・・、
  その途中、結城街道の武井村で官軍と遭遇し、撃退。
  この後、小山→壬生→宇都宮と転戦、そして、会津へ、
 藤原の戦いで激戦をしたことが有名。
  この隊は、凾館での戦いでも勇名を馳せた。
  隊長の村上求馬は鬼怒川の戦いで戦死した。
  明治2年5月18日(1869年6月27日)箱館五稜郭の陥落
 で降伏し、解散となった。
1868年5月2日(4月10日)江戸城開城前日の勝海舟と将軍・
 慶喜
  西郷との談判が成立して、江戸城無血開城が、4月
 11日と決まった。
  その同じ日に、前将軍・慶喜は、上野の大慈院を出て、
 水戸へ隠棲すべく出発した。
  精鋭200名がお供をし、見守る者は、ただ涙雨の如くで
 あった。
  「前日の夕べ、明日引き渡しの式はかくの如しと述べ、
  主公大いに苦慮したまひ、汝が処置はなはだ果断(か
 だん、物事を思い切って行うこと)にすぐ。
  宜しく沈思熟考して、次いで後事(こうじ、将来のこ
 と)に虜(おもんばか、思いめぐらす)るべしと・・、
  此際にいたって、あに他に道あらんや。
  汝にその前、臣が大任にたへずと思ひ、固辞再三つい
 に御許容これなし。
  今にして別に深慮あられんや、ただ臣一片の心あり。
  この百万の民をして、生殺二途に出でず。
  義のあるところ殺すべき共に死し、活かすべき道あら
 ば共に生きんか。
  人事を尽くして成否を天に任す。
  臣此際にあたり終に一点の疑念なく、また、一点の恐
 懼(きょうく、おそれかしこまること)なし。
  ただ希(ねが)ふ、疑念一片その胸中に出せば、冥々
 (めいめい、暗いさま。暗くて見分けがつかないさま)
 中大いに感触生じ、迷想百出、ついに初心貫徹せず。
  若し自ら信じて疑いはざる時は、終に貫徹せざるなか
 らんか。
  歳月は過ぎ易く、心中 し易く、危うきを忘れ、難を
 いとふは人情の常なり。
  臣ここに思ふところあり。
  今後十数年間、臣が肝識(知識、見識が習慣化し、本
 人の特性、徳性までになった段階)衰へざるを了悉(り
 ょうしつ、ことごとく理解すること)す。
  もし命の存するあらば、必ず我が趣旨をして貫徹せし
 むべきなり」。
  慶喜と勝。ここに人間の資質の差がある。
  慶喜は利口そうに見えても所詮殿様育ちである。
  有能な事は、かつて蛤御門の変で、桂小五郎をして「
 東照神君の再来か」と驚かしめたほどの勇気もあり知略
 もあるが、大変に処して節を全うするにはなお弱い所が
 ある。
  「将軍江戸を去る」の日にあたっても、まだ勝に向か
 泣き言を言っている。
  万事一任した筈の勝に向かってまだ文句をつけずにい
 られない。
  勝が何を考えているか、その深謀遠慮、その古井戸の
 様な心の深さは、慶喜には届かない。
  今後十数年間、命のある限り、勝は「必ず我が趣旨を
 して貫徹せしむべきなり」と誓う。
  その「趣旨」とは何か。
  何を貫徹するつもりなのか。
  幕臣からは「腰抜け」「意気地なし」「大逆賊」「薩
 長のイヌ」と罵(のの)られ、
  「徳川を売るもの」といわれ、
  今また、慶喜からさえも、「汝が処置ははなはだ果断
 にすぐ」と文句をつけられている。
  しかし、勝は、衷心深くこの政治的解決は正しかった
 と自分に言い聞かせている。
  その正しさを今後十何年かかっても歴史において証明
 すると心に思っていた。
  江戸城無血引き渡しは、歴史の終末、結論ではなくて、
 このままでは未完成で、これからまた、舞台が始まる。
  これは、一緒に仕事をした大久保一翁にさえ分かって
 もらえてない。
  維新の頃には、妻子までもおれに不平だったよ。
  広い天下に、おれに賛成する者は一人もなかったけれ
 ども(山岡や一翁には、後から少し分かったようであっ
 たが)、俺は、常に、世の中には、道というものがある
 と思って、楽しんでいた・・と、
  海舟は、孤独であった。
  「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」(芭蕉
  江戸の戦争を回避し、慶喜の命を守り、徳川70万石を
 確保してみても、
  海舟の心は、寂たるものであったろう(氷川清話)
1868年5月2日(4月10日)勝海舟、前日と同じく池上へ行く
 (氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)江戸城開城
  江戸城無血開城した。
  氷川清話:江戸開城江戸城を朝廷に差し出す。慶喜
 水戸に下る。
  受渡式の官軍代表・西郷隆盛、徳川方代表・大久保忠
 寛。
  政体書を公布し、新官制を定めた(三権分立、官吏公
 選)
  徳川慶喜が、水戸へ退去したこの日に、榎本武揚や大
 鳥圭介らの幕臣が、海陸両軍を率いて江戸を脱走した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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