(増補版)282E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月〜1868年5月)

題:(増補版)282E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月〜1868年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年5月3日(4月11日)江戸城受渡し
  江戸城受渡しの時、
  官軍の方からは、予想通り、西郷が来ると言うものだ
 から俺は安心して寝ていたよ。
  そうすると皆のものは、この国事多難の際に、勝の気
 楽には困ると言って、つぶやいていた様子だったが、
  なに、相手が西郷だから、むちゃな事をする気づかい
 はないと思って、談判の時にも、俺は欲は言わなかった。
  「ただ、幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは
 頼むぜ」と言ったばかりだった。
  それに西郷は、70万石くれると向こうから言ったよ(
 氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)勝海舟、城地・武器等引き渡し済
 む。
  8日より11日まで、昼夜四方を巡行し、その動静を伺う。
  是日、海軍局の屋上より砲撃を望ませる。
  若し、一度不測の変が起これば、官軍に駆入り、その
 誤りを一身に受けようと決心したのに、無事だったのは
 天与云々(氷川清話)
  徳川慶喜が、水戸へ向け出発した日。「御城、武器等、
 引渡済む〈勝海舟日記)」の日であった。
1868年5月3日(4月11日)徳川慶喜、水戸へ
  江戸城無血開城され、同じ日、徳川慶喜は、上野寛
 永寺を出て水戸へ向かう。
  彰義隊は、護衛を申し出たが許されず、わずかに天野
 八郎ら彰義隊の幹部が、千住大橋まで見送った。
  春も未だ あはれと思へ 大方の、春を春とも 知ら
 ぬ我が身を、
  旧暦2月13日から4月11まで、慶喜は、春の上野に過ご
 した。
  全山桜の山である。
  普通なら、心浮き立つ春の美しい桜も、心痛で・・、
 慶喜には、よその世界のように映ったであろう。
  有栖川宮大総督が、江戸に到着する。
  官軍が進駐し、江戸近郊では、小規模な戦争が展開し
 た。
  幕臣の日記:薄曇り。上様(慶喜)今朝、千住御通に
 候ふ由。
  御鑓一節御鉄砲一挺も無き、御馬うえに候ふよし。
1868年5月3日(4月11日)榎本武楊が軍艦に立てこもり
  館山に去り、撤兵頭・福田八郎右衛門は、部下を引き
 連れ上総下総に脱走と、多くの幕臣は「無血開城」を潔
 しとしなかった。
  江戸周辺では、官軍とのごぜりあいが続発した。
  そして、砲火を浴びる危険が増し、官軍の検問も厳し
 くなった。
  氷川清話:勝海舟、総督より軍艦取扱御委任あり、つ
 いで房州に行き、開陽丸に入り説諭し、品海に乗戻させ、
 4隻引渡、事務完了。
1868年5月3日(4月11日)西郷・・去る、
  官軍が江戸城に入ってから、市中の取締りが甚だ面倒
 になってきた。
  これは幕府は倒れたが、新政府が未だ敷れないから、
 ちょうど無政府の姿になっていたのさ。
  しかるに、大量なる西郷は、意外にも、実に意外にも、
 この難局を、俺の肩に投げかけておいて、行ってしまっ
 た。
  「どうかよろしくお頼み申します、後の処置は、勝さ
 んが何とかなさるだろう」と言って、江戸を去ってしま
 った(氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)彰義隊と官軍のこぜり合い
  慶喜が去った後、
  残された彰義隊に「慶喜守護」の名目はなくなり、「
 輪王寺宮と徳川霊廟の守護」がその名目となる。
  官軍の江戸占拠を面白くなく思う者たちは、彰義隊
 投じ、各藩脱藩の者も加わった。
  最初は、一橋家随従の士を中心にした思想集団であっ
 た彰義隊は、2〜3ヶ月の内に水膨れした。
  その数3000ともいう。
  かなり整然とした組織と、守備の部署を持っていた。
  江戸の市民の中には、彰義隊を頼もしく思い、占領軍
 である官軍を快く思わない者が多かった。
  吉原では「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」と言って
 大いにもて、一方、薩摩などは「田舎侍」として軽くあ
 しらわれた・・らしい。
  会津も人気があった。
  下谷坂本あたりで遊んでいた子供が、官軍の錦ぎれを
 見て、坊は会津だから坊にお従い、と言い、官軍は色を
 なして親に、お前たちがもの弁えもなく、常に、官軍を
 そしり、会津を誉めているから、子供までそういうのだ、
 と腰の刀を揺らめかした、と閏4月の「此花新書」に出て
 いる。
  そのうち、官軍と彰義隊の前哨戦がいたる所である。
  官軍の酔っ払い3〜4人が、谷中三崎町で、18番隊の使
 い手・関規矩守(きくもり)とすれ違った。
  いきなり関に向かって「馬鹿」と罵った官軍を、関は
 一太刀でやり、そこへ17番隊の者が通りかかって、あと
 二人を追いかける。
  一人は、本郷坂まで追われて地蔵塚前でズタズタにさ
 れ、もう一人は、団子坂上千駄木町大観音町で、左右の
 腕を斬り落とされて死んだ。
  「これがたいした評判で、3人とも薩摩の侍だという噂
 であった」と「戊辰物語」は伝えている。
  この三人の死者の墓は、三崎町大円寺にあり、本名も
 分かっている。
  その他にも、彰義隊との斬り合いがあり、まさに一触
 即発、おさまらない官軍は、西郷の手ぬるさを責める。
  勝安房は、4月末の日記に書いた。
  「此頃、彰義隊之者等、頻(しきり)に遊説し、其等
 倍(ますます)多く、一時之ふそう軽挙を快とし、官兵
 を殺害し、東台地屯集、ほとんど4000人に及ぶ」と。
1868年5月3日(4月11日)岸田吟香(きしだぎんこう、画
 家の岸田劉生の父、新聞事業の先駆者)が編集する新聞
 「横浜新報もしほ草」が発刊した。
  官軍が、江戸占領後、一時、江戸の新聞は、すべて発
 行を中止されたが、この新聞は、横浜居留地での発行で
 あり、また、外人所有のため明治政府の干渉を受けなか
 った。
  内外のニュースを平易な文章で紹介した貴重な新聞で
 あった。
  また、この新聞が有意義だったのは、幕府を支持する
 フランス、そして、薩摩(さつま)・長州の両藩を後援す
 るイギリスなどを、内乱の虚に乗ぜんとする外国勢力の
 恐るべきことを繰り返し警告した。
  1870年3月に、第42編で発行を中止した。
1868年5月12日(4月20日)官軍が、会津に向ふ
  幕臣の日記:晴夕風立。官軍会津に向ふ。
  この頃の武士の母の気持ち・・、
  大村藩の北伐軍二番隊の鼓手の浜田勤吾(鼓手は、兵
 隊が進軍するときに列が乱れないようにするためや、兵
 士を勇気づけるために太鼓を叩く人)は、
  秋田の角館の郊外・刈羽野での激しい戦いで戦死して
 しまった。
  大村兵や角館の人達は、死を悲しみ、手厚く葬った。
  その時、勤吾の衣類の襟に縫い付けてあった勤吾の母
 の歌が見つかった。
  「二葉より 手くれ水くれ 待つ花の 君がみために
 咲けやこの時」
  母は、二葉の様な幼少の頃より、あなたに手くれ水く
 れて、花になるのを待っていました、今がこの時です、
 君がみために、今、大いに咲きなさい(公・おおやけの
 のために大いに働きなさい・・殉じても良いという気持
 ちで・・)。
  この歌に心を強く打たれた角館の方達は、勤吾の母の
 気持ちを思い、涙を流した。
  今でも角館では、大村兵や勤吾少年の事が語り継がれ
 ているという。
  また、この縁で、昭和54年(1979年)、大村市と角館
 町(現:仙北市)は姉妹都市になった。
  そして、勤吾少年の記念碑が大村公園と、角館の神明
 社に建てられている。
1868年5月、戦いは、会津へと移って行く・・、
  場所をかえて続く戦いによって・・和は、抜きがたい
 ものとなっていく。
  海舟は、だからこそ、いよいよの場合は、慶喜を船で
 逃がし、海外に亡命させる手も考えたという。
  日清戦争までの明治の28年間だけでも、事件は絶えず、
 平穏な時とてなかった。
  その間にあって、不平士族というものがいつも問題の
 中核にあった。
  徳川家臣団の存在、すなわち、静岡県士族の不平とい
 うものも決して見過ごす事の出来ない問題であった。
  これを慰撫して、さまざまな機会、特に、明治10年
 西南戦争にも動揺させないために、海舟は、目に見え
 ない所で苦心していた。
  それには、慶喜、家達(いえさと)はじめ徳川一門の
 動きにも厳重な注意と配慮が必要であった。
  旧徳川家臣団の中から反乱が起こっては、あの江戸城
 無血引渡しの意味がなくなってしまう、と海舟は考えて
 いた。
1868年5月13日(4月21日)神戸に湊川神社(みなとがわじ
 んじゃ)を創建した。
  楠木正成を主神とし、楠木正行・楠木正孝ら一族将士
 を配祀する。
  正成は、九州から攻め上る足利尊氏を迎え撃ち、ここ
 で敗死した。
1868年5月14日(4月22日)伊藤博文兵庫県知事)が、木
 戸孝允を招き、国内で初めて馬車に試乗す(湊川神社
 参拝の折)
1868年5月15日(4月23日)東山道の官軍が、下野宇都宮を
 復す(大鳥圭介逃れて日光山に入る)
1868年5月16日(4月24日)奥羽の官軍が、白河城に迫る。
1868年5月16日(4月24日)最初のハワイ移民
  ハワイへの移民は、急増するサトウキビ畑や、製糖工
 場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、
  また、関税が撤廃された1876年以降に、その数が増え
 始めた。
  中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットラ
 ンド、プエルトリコなど、様々な国から移民がハワイ島
 行ったが、日本から行った移民が最も多かった。
  日本からの移民は、1868年から開始され、
  1902年には、サトウキビ労働者の70%が日本人移民で
 占めらた。
  1924年の排日移民法1924年民法)成立まで、約22
 万人がハワイへ渡った。
  この移民法は、アジア出身者について全面的に移民を
 禁止する条項があった。
  そして、アジアからの移民の大半を占めていた日本人
 が排除されることとなった。
  アメリカ合衆国政府に対して、日系人移民への排斥を
 行わないよう求めていた日本政府は衝撃を受けた。
  白人以外は、すべての人間は移民禁止とされ、露骨に
 肌の色で差別する、日本人を標的にし、人種差別を行な
 った。
  卑劣な事に、日本人漁業禁止令や、日本人児童の修学
 拒否など、数々の排日行為が行われた。
  しかし、移民した日系人たちは勤勉で粘り強く仕事を
 こなし、ある程度の成功を掴む者も現れた。
  そして、日本からの移民の多くは、契約期間満了後も
 ハワイに定着し、日系アメリカ人として、ハワイの社会
 の基礎を作り上げて行った。
1868年5月17日(4月25日)京都裁判所を京都府と改め、最
 初の府知事に長谷信篤を任命した。
1868年5月19日(4月27日)大村益次郎が、新政府の軍防事
 務局判事に任命された。
1868年5月19日(4月27日)坂本龍馬が率いていた海援隊
 解散した。
  同時に「土佐商会」も閉鎖となった。
1868年5月20日(4月28日)官許を得ざる出版刊行物の領布
 売買を禁じ、出版物の取締を厳にす。
1868年5月(4月)福沢諭吉が、芝新銭座に英学塾を移転し、
  慶応義塾と改称した(1871.3−芝三田に再移転)。
1868年5月(4月)神田に西洋洗濯店が開業する。
1868年5月22日(閏4月1日)慶喜の移封などを建白
  肥前佐賀藩大木喬任江藤新平は、岩倉具視に建白
 書を提出した。
  今だに関東以北がくすぶるなか、速やかな慶喜の移封
 と天皇陛下の東幸、「天子東方御経営の御基礎の場」江
 戸城をもって東京と定め、東西の両京の設置を唱えた。
  両者の提出した意見書に、「江戸城を以って東京と」
 定め、行く行くは「東西両京」の間に鉄道を開設するが、
 まず、天皇陛下が、関東と東北の平定と鎮圧のために、
 東京に行幸すべきと述べた。
  これは二都論だった。
  この新鮮さは、江戸を東の京とし、そこに天皇陛下
 乗り込んでゆくという発想だった。
  これ以後、政府内では「東京の説(=江戸を東京とす
 る説)」が一躍大きな課題となった。
1868年5月22日(閏4月1日)パークスが、大坂城にて、ビク
 トリア女王の信任状を、明治天皇に提出した(外国によ
 る最初の明治政府正式承認)
1868年5月23日(閏4月2日)勝海舟総督府より昨今の時勢
 につき苦慮尽力を深く感心され、尚、この上の見込み忌
 なく申し出る旨、及び、江府鎮撫万端取扱御委任の旨御
 沙汰あり(氷川清話)
1868年5月24日(閏4月3日)明治新政府の初の言論弾圧
  福地源一郎(政治評論家)が、江戸で、「江湖新聞(
 佐幕派の新聞)」を創刊した(主筆・福地源一郎)。
  旧暦5月の彰義隊が上野で敗れた後、掲載した記事・・、
  「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権
 が徳川から薩長に変わっただけではないか。
  ただ、徳川幕府が倒れて、薩長を中心とした幕府が生
 まれただけだ」と厳しく述べた。
  後に、新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分となった。
  そして、第16号に載った「強弱論」のため福地は逮捕
 された。
  木戸孝允が取り成して無罪放免になったが、明治政府
 初の言論弾圧行為になった。
1868年5月26日(閏4月5日)近藤勇が処刑される。34歳(旧
 暦4月25日説あり)
  閏4月5日。晴れ、午後曇り。
  近藤勇は、流山にて彦根の人数に生け捕られ、王子辺
 り首を切られ其首はすぐにいづれへか持ち行き候由(幕
 臣の日記)
  近藤勇は、鳥羽伏見の戦いを経て関東に下り、甲州
 沼、下総流山で官軍と戦ったが破れて降伏し、板橋庚申
 (こうしん)塚で死刑になった。
1868年5月26日(閏4月5日)小栗上野介忠順が、斬首された。
  知恵袋と言われた小栗(旧暦4月6日、1868年4月28日説
 あり)、
  最後の将軍・慶喜に信頼され、外国奉行勘定奉行
 要職を歴任し、財政の立て直しをした小栗。
  また、横須賀製鉄所の建設や、日本初のフランス語学
 校を設立したり、貢献度の大きい小栗。
  確かに主戦論者で強硬論派であったが、この様な主張
 は彼だけではない。
  そして、罷免された後、静かに領地の上野の権田村(
 現在の群馬県)で暮らしていたところを、急に捕縛され、
 ろくに取り調べもなされず、斬首されてしまった。
  榎本武揚らは、凾館まで行って抵抗したのに死罪とな
 らず、新政府にまで用いられている。
  小栗は、何が違ったのか?
  近藤勇は、捕縛された後、ちゃんと取り調べや尋問を
 受けた、斬首になったが・・、それなのに、小栗は?
  そのカギを解く言葉が、大隈重信にある・・、
  「小栗は、謀殺される運命にあった。
  何故なら明治政府の近代化は、そっくり小栗のそれを
 模倣したものだから・・」と、
  また、薩摩藩邸焼き討ち事件などで、小栗を恨む勤皇
 の志士たちが居たという説もある・・、
  この、時機を逸した新政府の小栗処刑には、色々な説
 があった・・後ろめたさが、新政府にあったのも確かだ
 った。
  榎本武揚のように、優秀な人材ゆえに、用いればよい
 ものを、腹を割って用いることのできなかった新政府側
 に問題があったと言える。
1868年5月27日(閏4月6日)小栗忠順、無念の死、勝は、
 言った・・、
  明治となる1868年の正月には、早くも伏見鳥羽の戦い
 が開かれ、300年の徳川幕府も瓦解した。
  小栗も、今は仕方がないものだから、上州の領地へ隠
 居した。
  それを、かねて、小栗を憎んでいた土地の博徒(ばく
 ちうち)や、また、小栗の財産を奪おうという考えの者
 どもが、官軍へ讒訴(ざんそ)したによって、小栗は、
 ついに痛ましい最後を遂げた。
  しかし、あの男は、案外清貧であったということだよ
 (氷川清話)
(付録)・・識者の言葉・・、
  宗教と道徳と歴史を学ばずして、君たちはどうして精
 神を立てるのだ。
 (志を教える 上甲晃 P80 会田雄次京都大学教授)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive