(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月〜1868年4月)

題:(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月〜1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年4月1日(3月9日)山岡鉄舟が、駿府城にて、西郷隆
 盛と会見した。
  (勝海舟の和平解決の書面を提示した)
  山岡、駿府で西郷に面会、総督府の御内意を齋し帰府
 す(氷川清話)
  勝安房は、慶喜の助命嘆願の下工作のため、山岡鉄太
 郎を駿府の大総督府に派遣した。
  薩人・益満(ますみつ)、休之助を連れ、勝の書状を
 携えた山岡は、するすると敵中を抜けて、3月9日、駿府
 へ到着した。
  西郷と会談し、
  (1)城の明け渡し、
  (2)城中の家臣を向島へ移す、
  (3)兵器・軍艦を渡す、
  (4)慶喜の妄動を助けた者に謝罪させる、
  (5)幕府で鎮撫できず、暴挙する者は、官軍が鎮定
    する、
 ・・と言った朝命7ヶ条が示された。
  「慶喜備前藩のお預け」だけは君臣の情として忍び
 難いと、山岡が言うと
  西郷は「慶喜殿の事、吉之助一身が引き受け申した」
 と確約した。
1868年4月、両雄の会談のまえ・・、
  西郷は、東征軍の総参謀長となった。
  最上位の地位である。
  西郷の謀略は凄かった。
  江戸かく乱工作に功のあった相楽総三は、東征軍の先
 鋒として中山道を進んでいたが、偽官軍の汚名をかぶせ
 られた。
  そして、諏訪湖畔で処刑されてしまった。
  歴史のダーティな部分を知るために消されたのだった。
  処刑を命じたのは西郷だった。
  江戸に帰った慶喜は、抗戦を説く幕臣には耳を籍さず、
 ひたすら恭順の意を示そうとした。
  そうとは知らぬ西郷は、江戸開城に猛りつつ、駿府
 で攻め上っていた。
  その時、幕臣山岡鉄舟が、陸軍総裁・勝海舟の手紙
 を持参し、自らも訴えた。
  「戦に逸る(はやる、あせる、勇みたつ)だけでは王
 師(おうし、王の軍勢、官軍)とは申せますまい。徳川
 もまた帝(みかど)の民でございます」。
  西郷は、臆する事のない山岡の度胸と誠意に動かされ、
 「慶喜公は、この西郷が身命に代えてお守り致す」と言
 った。
1868年4月2日(3月10日)官軍、来る
  東海道の官軍、神奈川から六郷辺りに到る。
  府下の殺気充満、
  中山道東下の土州兵、尾州邸に入る、
  駿府より上野法親王、御東帰(氷川清話)
1868年4月5日(3月13日)両雄の会談(江戸の薩摩屋敷)
  西郷隆盛勝海舟の両雄が、江戸の薩摩屋敷で会見し
 た。
  旧暦3月9日の山岡と西郷の話し合いの結果が、勝安房
 に伝えられ、
  勝は、腹を決めて、旧暦3月13日に、芝高輪の薩摩邸で
 西郷と会見し、
  旧暦4月11日に、江戸城は、無血開城されることとなっ
 た。
  氷川清話・・では・・、
  西郷におよぶことが出来ないのは、その大胆識と大誠
 意にあるのだ。
  俺の一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。
  俺だってここに処して、多少の権謀を用いないことも
 ないが、ただ、この西郷の至誠(しせい、きわめて誠実
 なこと)は、俺をしてあい欺くことが出来なかった(氷
 川清話)
1868年4月5日(3月13日)勝・西郷会談
  江戸城総攻撃の時が迫る中で西郷(39歳)は、芝・田
 町の薩摩屋敷に勝海舟(45歳)を迎えた。
  4年前に初めて会った時、西郷は、勝の偉才に惚れた。
  しかし、総参謀長として、西郷は最後の質問を放った。
  返事次第では、会談は決裂するだろう。
  勝も、江戸を自らの手で焼く手はずをすでに整えてい
 る。
  勝は言った「江戸を焼けば、この国も支那やインドの
 轍を踏むことになる」・・と。
  大きく首肯(しゅこう、うなずくこと)した西郷は、
 隣室の側近を呼ぶと告げた。
  「江戸城総攻撃は取り止め」。
  江戸の無血開城によって幕藩体制は終焉した。
  列強の植民地化の危険も去った。
  西郷は、我が事なれりと野に下ったが、新政府は、西
 郷を迎えて、筆頭の参議に据えた。
1868年4月5日(3月13日)官軍との談判で・・、
  勝海舟は、慶応4年に、西郷との会見に臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く。
  「当日、俺は、羽織袴で馬に騎って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩邸へ出掛けた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、
 西郷は、庭の方から、古洋服に薩摩風の引っきり下駄(
 のこぎりで引いて切った下駄)をはひて、
  例の熊次郎という忠僕を従へ、
  平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、
 と挨拶しながら座敷に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思わ
 れなかった。
  さて、いよいよ談判になると、
  西郷は、俺のいふ事を一々信用してくれ、その間、一
 点の疑問も挟まなかった。
  「色々、むつかしい議論もありませうが、私が一身に
 かけて御引受けします」、
  西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財
 産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏も、その滅亡を免れたのだ」。
  この会談は、きわめてスムーズに進行したような印象
 を受けるが、
  真実そうでない。
  勝は、破談になった時の事を考えて、謀略を巡らせて
 いる。
  それは、第一に、西郷に対し、ナポレオンの教訓を教
 えている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシア軍は、
 自らモスクワに火を放ち、それによって、ナポレオンも
 敗退させたという事で、
  いざとなれば、江戸でも、それと同じ焦土作戦をやる
 と言って西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官、アーネスト・サトウ
 通じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしてい
 る。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日に、
 パークスは、東海道先鋒総督府・参謀の長州藩士・木梨
 精一郎と会談をしているが、
  パークスは、この時、
  「横浜が混乱して、貿易に支障を来すと、日本のため
 にも、不利益を生ずる事になる。
  従って、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備を当たっ
 ているから、左様ご承知おき戴きたい」・・と発言して
 いる。
  これは、官軍が、江戸に攻め入るようなら、英仏両軍
 を敵に回す事になるという脅しに他ならなかった。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷に、この
 情報はもたらされていた。
  鳥羽伏見の戦いでは、官軍の近代兵器や、整然とした
 軍律から見ても、幕府軍に、到底、勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上にある・・と、
  そして、慶喜公の安全を得たいと考えていた。
1868年4月5日(3月13日)勝海舟、高輪の薩摩藩邸で参謀・
 西郷吉之助に面会、静寛院宮進退の事を述べる(氷川清
 話)
  勝海舟は、江戸開城前の西郷隆盛との会談の際に、幕
 府に居る静寛院宮(和宮)や天璋院の存在について話を
 している。
1868年4月5日(3月13日)品川の談判、様子を伺う兵たち
  この時の談判が、まだ始まらない前から、桐野利秋
 どという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、秘かに様子
 を伺っている。
  薩摩邸の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけ
 ている。
  その有様は、実に殺気陰々として、ものすごいほどだ
 った。
  しかるに、西郷は、泰然として、辺りの光景も眼に入
 らないものの様に、談判をし終えてから、俺を門の外ま
 で見送った。
  俺が、門を出ると、近傍の街々に屯集していた兵隊は、
 どっと一時に押し寄せて来たが、
  俺が、西郷に送られて立って居るのを見て、一同、う
 やうやしく捧げ銃(つつ)の敬礼を行なった。
  俺は、自分の胸をさして兵隊に向かい、「いずれ今、
 明日中には何とか決着いたすべし。
  決定しだいにて、あるいは足下らの銃先にかかって死
 ぬることもあろうから、よくよくこの胸を見おぼえてお
 かレよ」と、言い捨てて、西郷にいとまごいをして帰っ
 た。
  この時、俺が、ことに感心したのは、西郷が、俺に対
 して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、
  談判の時にも、始終、坐を正して、手を膝の上に乗せ、
 少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するという
 ような風が見えなかったことだ。
  その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊(かいか
 つ)で、見識ぶるなどという事はもとより、少しもなか
 った(氷川清話)
..
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