(増補版)252D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年6月〜1861年12月)

題:(増補版)252D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年6月〜1861年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1861年文久1年)6月22日、ボーリング場が開業
  唐人屋敷波止場の広馬場に、「インターナショナル・
 ボウリングサロン」が開業した。
  我が国初のボウリングレーン付きの社交サロンで、
  いわゆる、ボウリング場。
  最高級ワインなど、いろいろな酒が格安で提供されて
 いる。
  (「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタ
 イザー」より)
  ボウルは、大中小の3種類があり、
  指穴はなく、抱えるようにして投げた。
  ピンは9本。
  レーンの長さは、現在の3分の2程度で、
  ボウルを投げ、倒れたピンを、ピンボーイが元の位置
 に並べて、ボウルを運んで返却した。
1861年、近代競馬が始められた。
  日本最初の近代競馬が、横浜市中区相生町埋立地で、
 居留英国人などによって始められた。
1861年、ガラス
  アンモニアソーダ法(ソルベー法)が、ベルギーの
 エルネスト・ソルベーによって考案された。
  ガラスの原料である炭酸ナトリウムの工業的製法とな
 った。
1861年、鉄
  平炉式製鋼法が発明された。
  フランスのジーメンスが発明し、転炉法より炭素の少
 ない鋼鉄を得られるようになった。
1861年7月2日、公武合体
  山口藩士の長井雅樂が、老中・久世広周と会して、大
 いに公武合体論を唱った。
1861年7月5日、 尊王攘夷でイギリス人を斬る(5月28日説
 あり)
  第一次東禅寺事件。
  これをきっかけに英国軍艦が横浜に常駐するようにな
 る。
1861年7月11日、品川・御殿山に各国公使館を造った。
1861年7月24日、日本初のヨット
  イギリス人・オルトが、船大工J・ミッチェルのアバ
 ディーン・ヤード(造船所)で、ヨット「ファントム号」
 を建造した。
  「ファントム」は、日本初のヨット。
  全長6呎(フィート、183cm)、最大幅14呎、吃水6
 呎、排水量36瓲の大型スクーナ
 参考:新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アン
     ド・アドバタイザー」の記事
  別の資料:1882年に、当時の農商務司法大臣・金子堅
 太郎がヨットを建造し、葉山で楽しんだのが日本のヨッ
 トの最初・・日本人として初建造とある。
  1875年に、横浜で日本初のヨットレースが行われる・
 ・とある(日本セーリング連盟)。
1861年7月26日、桜田門外の変の浪士らが処刑される。
  桜田門に井伊大老を襲撃した水戸浪士、金子孫二郎、
 岡部三十郎等の数名が刑死した。
1861年8月、天守番之頭格、講武所砲術師範役命ぜられる
 (氷川清話)
1861年8月3日、長井雅樂が、幕府の老中安藤信正に会して
 大いに公武合体を説いた。
1861年8月11日、大砲を造って・・
  佐賀の藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)が、藩に
 て鋳造した大砲3門を幕府に贈った。
  直正は、第10代佐賀藩主で、藩財政の窮乏を改革する
 ため殖産興業をはかり、長崎警備を重視して大砲の鋳造
 や、反射炉の設立に力を入れた。
  また、蘭学や英学を奨励し、海外文明の移植に努めた。
  号は閑叟(かんそう)、(1814年〜1871年
  軍備の近代化、種痘なども行い、名君。
  明治維新後、議定・開拓使長官などを歴任した。
  商人の郷村での土地保有を徹底的に排除した。
  長崎警備を担当し、長崎砲台の増築と軍事技術の改善
 も行なっていた。大納言に昇じた。
1861年8月14日、幕府の限界を知るイギリス
  オールコック(イギリスの外交官)が、老中・安藤信
 正、若年寄酒井忠毗(ただます)との秘密会談で、攘夷
 勢力に対する幕府の力の限界を知り、江戸・大坂・新潟・
 兵庫の開市開港延期に理解を示す。
1861年8月16日、西洋式病院
  下長崎村小島郷字佐古稲荷岳、425坪の敷地に、日本初
 の西洋式病院・小島養生所が開所した。
  また、医学所を開校した(開所式は08/06?)
  東西22.7メートル、南北7.3メートルの2階建2楝には、
 洋式8病室・124床、
  手術室・薬品室・隔離室・浴室・調理室を備えた。
  隣接した医学所が入る別棟に、教室・講義室・奇宿舎
 を持った。
  医療器具は輸入されたが、日本の臨床講義が可能とな
 って、本格的な現代医学教育が誕生した。
  食事は、パン等の西洋式で、
  病室も、風通し等を考慮にいれて設計されていた。
1861年8月17日、小島養生所にて診療を開始した。
  養生所教頭・ポンペ、同所頭取・松本良順
1861年8月22日、米国公使・ハリスが、幕府の老中・安藤信
 正と同邸に会見し、公使館設置を議す
1861年8月23日、ロシアとの事件
  幕府が、露船の対馬退去を要求した。
  しかし、イギリスも、この対馬を奪おうとしていた。
  7月9日に、イギリス公使のオールコックと、イギリス
 海軍中将ホープが、幕府に対して、イギリス艦隊の圧力
 によるロシア軍艦退去を提案した。
  老中・安藤信正らと協議した。
  7月23日に、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウン
 ター、リンドーブ)が、対馬に回航して、示威行動を行
 い、
  ホープ中将は、ロシア側に対して厳重抗議した。
  しかし実は、この時点において、オールコックも、イ
 ギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた
 (8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。
  また、老中・安藤信正は、再度、箱館奉行・村垣範正
 に命じて、ロシア領事に抗議を行わせた。
  これまで、ビリリョフの行動をそのままにさせていた
 ロシア領事・ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て
 形勢不利と察し、軍艦・ヲフルチニックを対馬に急派し、
 ビリリョフを説得した。
  文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号
 は対馬から退去した。
1861年8月23日、イギリスの失態
  イギリス軍艦・オーディン号の乗組員たちが丸山歓楽
 街へ繰り出した。
  機関員のチャールズ・コリンズ(27歳)は泥酔し、居
 酒屋の前に放置された。
  1時間後に、遺体となって路上で発見された。
  あごの骨は折れて、暴行の跡があったが、争った様子
 はなかった。遺体は国際墓地に埋葬された。
1861年9月、蕃書調所に物産局を置き伊藤圭介を教員とす
 (氷川清話)
1861年9月20日、長崎養生所(ながさきようじょうしょ)の
 開院式が行われた。
  長崎に洋式の病院を初めて設立(開院式)
  長崎奉行・岡部駿河守の助力によって,幕府医官・松
 本良順が、オランダ海軍軍医 J. L. C.ポンペ (1829〜
 1908)とともに、長崎の西小島に開設した。
1861年10月、米・仏・露など6ヶ国に竹内下野守、松平石見
 守、京極能登守を歴訪させる。箕作、福沢随行す(氷川
 清話)(12月説あり)
  外国奉行の竹内が正使で、松平が副使、ヨーロッパの
 7カ国を回った。
1861年10月、大鳥圭介、築城典型を出版す(氷川清話)
  江川(太郎左衛門、英龍・ひでたつ)の塾は、兵学
 専攻したる故か、生徒が少なかりしも、氏(大鳥)が、得
 意とせし築城学について、『築城典型』なる一冊を出版
 するに及び、諸藩の青年は氏の薀蓄深さに敬服して門に
 入る者一時に増加したり」と、
1861年10月、新たに外人の警護を置く(氷川清話)
  1月説:1861年1月18日、幕府が外国御用出役を設置(
 在留外人警護の為)
1861年10月13日、長州藩主・毛利慶親、天下の為めに幕府
 に建言せんとして萩を発途し、江戸に向う
  これは、「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」
 を建言したのだと考えられる。
  航海遠略策は、江戸時代末期(幕末)に浮上した政治・
 外交思想で、長州藩長井雅楽が、1861年頃に提唱した
 ものが特に有名である。
  他に、佐久間象山吉田松陰平野国臣ら先駆的な思
 想家も同様な主張をしていたが、具体的な建白書の形に
 し、政治運動にまで盛り上げたのは長井によるものであ
 った。
  異人斬りに象徴される様な単純な外国人排斥である小
 攘夷や、
  幕府が、諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破
 約攘夷ではなく、
  むしろ、積極的に広く世界に通商航海して国力を養成
 し、その上で諸外国と対抗して行こうとする「大攘夷」
 思想に通じる考えで、
  その精神自体は、後の明治維新の富国強兵・殖産興業
 などにも影響を与えた。
  しかし、この時点においては、実行手段の具体性に欠
 けたため、また、急速な尊王攘夷運動の高まりもあって、
 大きな政治運動となる前に挫折してしまった。
1861年10月20日和宮が東下された。
  和宮様、京の御所を御発輿、
  将軍・家茂への御降嫁のため江戸へ御下向された。
1861年10月25日、伊東玄朴(いとうげんぱく)の種痘所が、
 幕府の経営に移り、西洋医学所と改称、帝大医学部の前
 身となる。
  1858年に、伊東玄朴ら82名によって始められた種痘所
 が、この年に、幕府の医学機関として成立した。
  教授、解剖、種痘の3科が置かれた。
1861年11月5日、米国総領事ハリス、江戸城の将軍・家茂に
 謁し、国書を呈して開港延期を諾す
1861年11月15日、和宮御降嫁、江戸清水邸御着
  和宮一行は、江戸城内の清水屋敷に入った。
  11月21日に、登城した岩倉具視・千種有文は、老中・
 久世広周安藤信正と会見し、
  「幕府は、和宮様を人質に天皇に譲位を迫るつもりだ」
 との風説について詰問し、幕府に二心無いことを示すた
 め、将軍自らが書いた誓紙を、朝廷に提出することを求
 めた。
1861年12月3日、伊豆国附島御備向取調、水野忠徳、伊豆諸
 島巡視に出発
  咸臨丸は、この日に、水野忠徳らの一行を乗艦させ、
 4日に品川を発ち、浦賀に入港した。
  ここで糧食・薪水を補給し、7日に出港、小笠原に向か
 った。
  初めの予定では、途中、八丈島に寄って、移住者を乗
 せて行くはずであったが、出港後間もなく暴風雨にあい、
 また、黒潮のため大きく東に流され、
  9日に、やっと天測住設を出してみると、すでに八丈島
 をはるか東南に通りすぎていた。
  八丈に引き返すには、風と潮に相当さからわなければ
 ならなかったので、
  八丈寄港を中止して南下することになった。
  13日には、小笠原群島の緯度に達したが、そのまま南
 下を続けた、
  16日に、火山列島北硫黄島硫黄島南硫黄島)を
 視認(しにん、実際に目で見て確認すること)し、これ
 らを内外に見ながら時計廻りに一周して、北上のコース
 をとり、19日に父島の二見港に入港した。
  世界の水路測量史において、最後まで末測量海域とし
 て残ったのは日本近海だけであった。
  そして、幕末期は、ちょうどこの空白部分が埋められ
 る時期に当っていた。
 したがって、当時入手していた海図や航海図書の日本近
 海の島々の経緯度は、まだ充分確定されておらず、信用
 できなかった。
 万次郎は、米国から出発した捕鯨船「フランクリン」号
 では父島に到達できたのに、
  帰国後の安政6年に、「鯨漁御用」を仰せつかって「一
 番君沢形(ヘダ号)」で、小笠原に向かったときは、父
 島を素通りしてしまった。
  彼の航海術は、疑うべくもなく信頼できたから、これ
 は海図や航海図誌に示された父島の位置が正しくなかっ
 たと判断できる。
  幕臣で、優秀な小野友五郎は、築地軍艦操練所の教授
 方出役で、
  1860年の遣米使節随行の咸臨丸に、教授方測量方(航海
 長)として乗務した。
  そして、彼は、軍艦奉行の木村喜毅に、その測量は、
 「かの邦人(米国人)にも愧(き、米国人もはじるの意味)
 じざるわざにして、このたび初めて、その比類なきを知
 れり」と評され(米国人も恥じるほど技術のある人と評
 され、その優秀な技術を知って将軍もうれしくなり)、
  帰国後、単独で将軍謁見の栄誉に浴したという、この
 小野友五郎は、
  この航海に、先の米国行の際、サンフランシスコの第
 6区長から贈呈をうけた「風向・海流図」と、
  英国版「海流図」の両方を携行していたから、
  彼もそれらに誌された小笠原群島や、火山列島の位置
 を検証しようとしていたことがうかがわれる。
  友五郎は、幕命にある「伊豆国附島」をできるだけ広
 く解釈し、伊豆諸島・小笠原群島・火山列島からなる、
 今日のいわゆる「南方諸島」全体とした。
  小笠原群島の常にある火山列島に、もし良好な艦隊泊
 地があれば、小笠原群島の「御備向:防備」をいくら厳
 重にしても、日本の海防は完璧とはならないからである。
  そこで友五郎は、火山列島を一周して、北硫黄島・硫
 黄島・南硫黄島の地勢を各方向から眺望し、かつこれら
 の位置を海図と照合した上で北上した。
  友五郎は、『江都海防真論』に、島の形の峻坦をみる
 だけで、周囲に適当な水深の泊地があるかないかがわか
 ると述べているから、
 これで火山列島には適当な艦隊泊地なしという判断を下
 したにちがいない。
 この「伊豆国附島」の拡大解釈、ひいては火山列島行に
 ついて、友五郎は、水野筑後守には内意を打ち明けてい
 たようだ。
  水野には、軍艦奉行・海防掛の経験があり、それに幕
 府がもう一度、「南方諸島」を調査させる機会などあり
 得ないこともよく承知していたから、
  友五郎の考えに理解を示したと考えるのは無理ではな
 い。
  しかし、目付(めつけ)の服部帰一(常純)は、この
 企図を知らされていなかったようだ。
 当時、目付の権限は大きく、この拡大解釈を許さぬとい
 えば、友五郎の目論見(もくろみ)は実行不可能になる
 おそれがあった。
  服部の『南島日記』は、この時の航海の貴重な記録だ
 が、これを読むと、彼はこの件については何も知らされ
 ていなかったのではないかという感じを深くする。
 彼は、航海術についての知識が皆無にひとしかったから、
 自分のおかれている立場も見抜けなかったのだろう。
  史料:http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/ono5.htm
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive