(増補版)243D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年12月〜1856年12月)

題:(増補版)243D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年12月〜1856年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1856年(安政3年)2月13日、蕃書調所(ばんしょしらべし
 ょ)が設置された。
  1855年の洋学所設置の決定に基づいた。
  ペリー艦隊の威力に屈服した幕府は、外交事務も多忙
 になったが、専任の外交担当官や、翻訳官の養成の必要
 性を感じたための処置だった。
  また、これと並んで軍備の充実が課題となったため、
 洋学校の設立をした。
  1856年2月に、蕃書調所と改称して、江戸九段坂下の旗
 本屋敷を改修して校舎にし、開設した。
  教授に、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、杉田成卿(す
 ぎたせいけい)をおいた。
  生徒は、初め幕臣に限ったが、のち諸藩の士も入った。
  1856年7月に、開所した。
  1857年1月から、開講(開校)した。
  1862年に、洋書調所となり、
  1863年に、開成所と改称し、
  明治維新後は、大学南校→開成学校→東京開成学校→
 東京大学へとなった。
1856年3月、勝海舟講武所の砲術師範役を命ぜられ、伝習
 (氷川清話)
1856年3月12日、駒場にて西洋流の訓練を行う。
  幕府が、駒場野での大規模な初めての洋式訓練をした、
 58名が参加した。
  老中・若年寄が状況視察した。
1856年3月、踏絵の儀、見合わせ(氷川清話)
1856年3月、老中・堀田備中守、外国事務及び貿易取調を命
 ぜられる(氷川清話)
1856年3月、諸城門の兵備を西洋銃に改める(氷川清話)
1856年4月20日、長崎の合戦場で砲術演習が行なわれた。
  この砲術演習は、4日間にわたり行われた。
1856年4月22日、伊豆国戸田浦にて造船の洋式軍艦に対し、
 「君沢形(きみさわがた、くんたくがた)」と称呼すべ
 しと幕府令あり。
  この原型は、難破したロシア船員帰国用に建造された
 「ヘダ号」で、この型の船を10隻、日本で使用するため
 に量産した。
  ロシア政府は、日本の対応に感謝の意を込めて、戸田
 号に52門の大砲を載せて返還して来た。
  そして、戸田号建造に当たった技術者たちは、その後
 も同型の西洋式帆船(スクーナー型帆船))を建造し続
 けた。そして、この名を幕府は付けた。
1856年4月25日、江戸築地に講武所が開設された。
  講武所では、古来の剣術などだけでなく、西洋式の砲
 術や戦術学の研究も行われた。

1856年4月、イギリス軍艦が長崎に寄港した。
  9月には、ロシアと、再び、イギリス軍艦が来港した。
  いずれも奉行役宅にて応接し、談判を行なうという外
 交任務を遂行した。その手腕を内外ともに認めさす結果
 を得た。
  勝(海舟)は、それらを細やかに見ていたことで、の
 ちに「幕府には、三河武士の美風を受けた正直なよい侍
 があったよ。
  岩瀬肥後、小栗上野(こうずけ)、河村対馬、戸川播
 磨などは良い人物だったが、惜しい事には、みな死んで
 しまった」と昔を懐かしんで語った。
1856年5月、蝦夷人に日本語の習熟、内地人との同化を奨励。
1856年6月、勝海舟、昨年より伝習に格別の功があったとい
 う事で、大番へ番替え命ぜられる(氷川清話)
  大番(おおばん、大御番)は、常備兵力として、旗本
 を編成した部隊。
  親衛隊的側面もあった。
  そして、幕府の直轄軍事力となってゆく。
  戦時には、旗本部隊の一番先手として備(そなえ)の
 騎馬隊として働いた。
  平時は、江戸城および要地の警護を担当した。
1856年、勝海舟、海軍伝習所に関係して、長崎に在住5ヵ年
 (33歳〜37歳)の間、海舟は、壮年のエネルギーを海軍
 将校としての技術・経験の習得に注ぎ込んだ。
  そうして、日本海軍の草分け的存在となった。
  また同時に、外国人、しかも、要職にある高官と、頻
 繁に接触し、友人づきあいをするうちに、外交感覚を身
 に着けて行った。
  また、語学力も役立って、オランダ人同士の会話を盗
 み聴きして、その情報をいち早く、江戸の幕閣に急便で
 知らせたりして、自己の存在を印象付けたりもする。
  あるいは、軍艦で鹿児島に行って、薩摩の島津斉彬
 なりあきら)侯と、ほとんど対等のつきあいをして、勝
 の名を薩摩に売り込んでもいる。
  彼は、江戸を遠く離れる事によって、かえって中央政
 界に徐々ではあるが注目されつつあった(氷川清話)
1856年7月、旗本の子弟を蕃書調所で学ばしむ(6月30日説
 あり)。
  幕府令して旗本の子弟中経書に通ずる者に限り蕃書調
 所に通学を許す。
1856年7月12日、水戸藩主・徳川斉昭の軍船、旭日丸竣工す。
  水戸藩主・水戸斉昭は、江戸石川島(後の石川島造船
 所)で、1856年のこの年、「旭日丸」という軍艦を建造
 して幕府に献じている。
  水戸家は、尊王派の本山の様な家だった。
  水戸斉昭は、強引な酷烈性格で、幕閣に対して厳しか
 った。(竜馬がゆく・2)
1856年7月21日、アメリカ合衆国の初代駐日総領事・タウン
 ゼント・ハリスが、伊豆国下田に来航。
  通訳官ヒュースケン。
  後に、ハリスが伊豆国下田の玉泉寺に駐剳(ちゅうさ
 つ、駐在のこと)した。
  8月24日になって、幕府が、ハリスの駐在を許可した(
 ハリス着任)。
  ハリスは、下田奉行に、「自分は合衆国大統領の代官
 である」と言った。
  そして、「大統領は、日本と通商条約を結びたい。
  その旨の国書を持ってきた。
  ぜひ、江戸の将軍(たいくん)に謁見して直接それを
 渡したい。
  将軍以外の者には渡さない」・・と、強硬な態度を示
 した。
  幕府は、大騒ぎとなった。
  幕府としては、外国人を江戸に入れる訳には行かなか
 った。
  まして、将軍にあわせるなどは論外であった。
  八方手を尽くしてハリスをなだめたが、この貿易商人
 あがりの外交官は頑として聞かず、
  「もし、日本人が我が政府の要求を入れない場合、大
 統領は非常手段をもってその趣旨を貫く用意(砲火の用
 意)がある」と言った。
  去年・1855年の9月に、イギリスが清国を攻めて広東を
 焼いていた。
  幕府は、これを知っていた。
  そのため、ハリスに、幕府は屈した。
  国内では、攘夷が盛んに叫ばれていたが、下田条約を
 結んだ。
  そして、江戸の出府も認めた。
  そして、将軍謁見も認めた。
  しかし、幕府は、攘夷の世論のために開国(通商条約
 締結)には踏み切れなかった。
  ハリスは強硬に迫った、幕府は屈し、1857年11月から、
 通商条約の逐条(ちくじょう)協議を開始した。
  (注)逐条:法律・規約などの箇条を一つ一つ順に取
 り上げること。
  そして、1858年1月12日に、すべての議定を終わった。
  しかし、京都は攘夷の嵐の中にあった。
  幕府も、ハリスに強行突破された立場であって、やむ
 を得ない経過の中で、京都との意見の相違という状況に
 置かれた。
  この違いが、幕末の風雲を生む元にあった。
  幕末の火種を作ったアメリカだった。
1856年7月22日、佐久間象山が、蟄居謹慎中海防意見書を幕
 府に呈して国防を促した。
1856年8月4日、老中・阿部正弘が、貿易開始の積極的方針を
 発表した(貿易開始の基本方針を宣言した)。
1856年8月21日、ハリスが、下田に総領事として着任した
 (24日説あり、24日に駐在許可)。
1856年8月24日、露使プチャーチン、長崎に来航す。
1856年8月23日、安政八戸沖地震(巨大地震
1856年8月25日、秋、関東大風(氷川清話)
1856年8月26日、北海道駒ヶ嶽の大爆発、
1856年月9〜10月、坂本竜馬、江戸到着。
1856年9月3日、福沢諭吉が中津へ帰郷した。
  諭吉は、大阪の緒方塾で勉強を始めていた。
  この年の9月3日に、兄急逝の報に中津へ帰郷した。
  そして、家を継がされた。
  諭吉は、封建体制の世に希望を見いだせなかった。
  そして、脱出の行動だけはしたいと思っていた。
  諭吉は母へ、「私は中津で朽ち果てようとは思ってい
 ません」と言う。
  母は、諭吉へ、思い切りよく、「どうぞ手放して下さ
 らぬ」かと言った。
  そしてまた、言った、「兄の死は仕方ない。あなたも
 また、よそに出て死ぬかもしれぬが、死生の事は一切言
 うことなし。どこへでも出て行きなさい」と。
  子供の可能性を尊重した母だった。
1856年9月18日、浦上三番崩れ、切支丹15人を捕らえる。
  幕府の取締りも緩かったので、このレベル。
  キリスト教針小棒大に言うが・・、
  ヨーロッパの魔女狩りの様に、隣村でも魔女を焼く煙
 がもうもうと上り、ヨーロッパ中の空は曇ったと言われ
 る状況とはまったく違う。
1856年10月7日、下田御用所にて,ハリスと幕府との通貨交
 換率の交渉。
1856年10月17日,老中堀田正睦、外国事務取扱を命ぜられる。
  幕府、堀田正睦に外国事務を担任せしめ、これより外
 交的局面一変せんとす。
1856年10月、外国御用掛設置。
1856年10月20日二宮尊徳が没した(病死)(1787年
 1856年)(69歳)
1856年、村田蔵六(大村益次郎)、麹町新道一番町で私塾・鳩
 居堂を開く。
  蛮書調所教授方手伝、講武所教授方になる。
1856年11月4日、江戸で地震
1856年11月、勝海舟、鼠山で門人の銃陣調練、老中、若干
 の見分けがあり、土岐頼旨が代わって全隊を指揮する。
  この春頃から、洋行の志願をする。又、築城学を兼修
 する(氷川清話)
1856年11月10日、下田にて日露条約交換式、露艦ヂヤナ号
 より大砲52門を送られた。
1856年11月、将軍、松平斉彬の娘を納る(氷川清話)
  天璋院(てんしょういん)篤姫(あつひめ)は、薩摩
 藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、
  1856年のこの年に、右大臣・近衛忠煕の養女となり、
  この年の11月に、第13代将軍・徳川家定正室となっ
 た。
  年寄の幾島を伴って大奥に入った。
  なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島
 に戻ることは無かった。
1856年12月、オランダ人に、長崎市中で物品を購入するこ
 とを許した。
1856年12月4日、竜馬の父・八平(名は直足・なおたる)が
 没した。
  死の直前まで昏睡していた八平は、にわかに眼を開い
 て「竜馬」と言った。
  竜馬、竜馬と呼び、声が終わると息が絶えた。
  二男三女の父で、性格は穏やかだった。
  この報に接した竜馬は、感涙とどめえず、遙かに江戸
 の地より故郷を排し、竜馬かならずこの恩に報ゆべし、
 と天地神明に誓ったという。
  竜馬にとって、よほどの痛恨事であった。
  この日から、翌年にかけての竜馬の逸話がほとんどな
 い。千葉道場にこもりっきりで、必死の剣術修行をした。
  ほどなく、北辰一刀流の最高位である大目録皆伝を得
 た。そして、桶町千葉の塾頭になった。
  千葉の塾頭と言えば、江戸の剣客の花と言ってよかっ
 た。(竜馬がゆく・1)
  この時の竜馬の免状が、本物と鑑定された記事が(読
 売新聞、2015・11・8)に載った。
  以下その概略・・、
  竜馬の免許状が、実物〈本物〉と鑑定された。
  鑑定は、京都国立博物館
  幕末の志士・坂本龍馬に伝授されたと伝わる北辰一刀
 流の長刀(なぎなた)の免状「長刀兵法目録」、
  全長約2.7メートルの巻物。
  ゆかりの指導者名が連ねられ、創始者千葉周作や、
 竜馬と恋に落ちたとされる周作のめい・佐那の名もある。
  日付は「安政5年(1858年)」、
  最後に、「坂本龍馬殿」と結ばれている。
  北辰一刀流は、、3000人以上の門下生をかかえた。
  竜馬は、1853年〜1854年、1856年〜1858年に、周作の
 弟・定吉の道場で修業し、
  剣術と長刀術の免状を得たとされる。
  鑑定した博物館の宮川氏は、「竜馬がまぎれもなく剣
 豪だったことを伝える資料」としている。
1856年12月12日、幕府、松平容保の海防の功を賞す。
1856年12月18日、吉田松陰梅田雲浜と会見。
1856年5月6日、フロイトオーストリア精神分析学者)
 が生まれた(1856年〜1939年)
  白人系ユダヤ教徒アシュケナジムの家庭に生まれた。
  アシュケナジムは、ユダヤ系のディアスポラのうち、
 ドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、および、そ
 の子孫を指す。
  アシュケナジムセファルディムは、今日のユダヤ
 会の二大勢力である。
  大雑把に、前者がヨーロッパ系ユダヤ人で、後者が中
 東系ユダヤ人を指す語としてイスラエルでは使われる。
  種々な説もある。
1856年、フェレル(アメリカ、気象学者)が大気還流論を
 発表した。
1856年7月、ネアンデルタール人が発見された。
  ドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷にある
 フェルトホッファー洞穴で、男性化石人骨が発見された。
  石灰岩の採掘作業中、谷にあったフェルトホッファー
 洞窟から採掘作業員によって採取された。
  遺骨は、顔面の一部や、四肢の一部は欠けていたが、
 状態は良好だった。
  高さの低い脳頭骨や、発達した眼窩上隆起などが特徴
 だった。
 発掘地からネアンデルタール人と名づけられた。
1856年、アロー号事件が起こった(第二次アヘン戦争
  イギリス船のアロー号の船員を、中国・清朝の兵が逮
 捕したことに端を発した(広東港に停泊中だった)。
  アロー号事件を口実にして、フランスと連合してイギ
 リスは清国たたきの戦争した(1860年まで)。
  イギリスは、アヘン貿易の合法化が戦争目的で、もく
 ろみだった。
  清国は、戦争に屈服して、1858年に、不平等な条約を
 結ばされた(天津条約)、
  しかし、あまりにも不平等なるが故に、収まらず、北
 京での条約批准の強行行為に清国が反撃して、戦いは続
 いた。
  イギリスは、北京を占領し、清代の素晴らしい離宮
 ある円明園を破壊し、略奪し尽くして、清朝を屈服させ
 た。
  そして、北京条約を調印させた。
  イギリスの蛮行のやりたい放題だった。
  この事を知っていた日本の江戸幕府は、1858年の日米
 修好通商条約に調印した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive