(増補版)251D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1860年〜1861年6月)

題:(増補版)251D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1860年1861年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1860年山岡鉄舟(やまおかてっしゅう、剣術家、政治家)
 が「武士道」を著した(1836年〜1888年
  鉄舟は、江戸に生まれ、
  千葉周作の門に入り、
  後に、一刀正伝無刀流を開き、
  また後に、明治天皇の侍従を務めた。
  戊辰戦争の際は、
  勝海舟の使者として、西郷隆盛を説き、
  西郷・勝の会談を実現させて、
  江戸城無血開城を実現させる功績とたてた。
  この功績によって、
  江戸市民は、戦乱の嵐から逃れられた。
  また、火の海となるところを、その戦火から救われた。
  名誉ある、本質の『無血革命』を実現させた。
  イギリスの名誉革命は、作られた名誉革命である。
  鉄舟は・・、
  「武士道は、中世より存在したが、自分が名付けるま
 では『武士道』とは呼ばれていなかった」としている。
  また、衆議院議員、次世代の党の前党首の平沼赳夫
 ひらぬまたけお)氏の著書『政治武士道』に、
  以下の様な記述がされている。
  世界の人々が幸せに、
  安寧に平和を希求して行く、
  そして、さらなる健全な社会発展を実現する上でも、
  日本人が、長年にわたって培(つちか)い、
  世界的に評価されている武士道の精神が、
  今まさに大切であると実感する。
  人を憐れむ心、自己よりも他を重んずる心、
  死を恐れない精神力、
  恥を知ること、
  やせ我慢の精神、
  長幼の序、
  仁義を重んずること、
  絶対的なものへの畏敬(いけい)、
  孝養の道、
  質実剛健の処世、
  弱い者いじめをしないこと・・など。
  そして・・、
  キリスト教徒の新渡戸稲造が、武士道が、人口の約1割
 の武士のものだと批判した。
  また、武士道論書の葉隠(はがくれ、佐賀藩士の著述)
 にもまったく触れていないという『落ち度』が、新渡戸
 の論理にはある。
  新渡戸は、わずかに、歌舞伎や文楽の事例を言って批
 判をしているが、
  逆に、この歌舞伎や文楽は、数少ない娯楽であって、
  庶民は、これを楽しみにして、この娯楽を、繰り返し、
 繰り返し見て、心に焼き付けている。
  庶民が見る歌舞伎や文楽・・、
  これらを庶民が見て、庶民の間に、隅々まで涵養され
 て行った(かんよう、水が自然に染み込むように、無理
 をしないでゆっくりと養い育てること)武士道だった。
  新渡戸の見方は広く捉えていない、まったく違う武士
 道が、そこにあった。
  庶民にとっては、武士の持つ意識・概念は憧れたのだ
 ったのだ。
  武士道にある一つである意地の概念などは、日本に完
 全に根付いている。
  また、「ガッツ」などと類似した、派生した概念として
 も日本に根付いている。
  また、「骨のあるやつ」などと、この類の派生概念は
 豊富にある。
  「仇討ち」の行為も、また、この行為をしなくても、
 概念として、日本人の心にある。
  また、武士道の根幹に流れる儒教朱子学を、教養の
 一つのジャンルとして武士を始め、日本人は良く知り、
 また、良く学んだ。
  この様に、まだまだ、日本人には、庶民にも根付き、
 心の底で血肉にもなっているこの事実を、新渡戸は見誤
 っている。
  まったく色眼鏡的な、また、偏見の論理で言っている。
  実態から、事実から、かけ離れた遊離した論理を展開
 しているという事が分かる。
  アメリカに居たことも、その様な論理展開をした理由
 の一つと言え、また、
  彼の持つ「その宗教性からも」公正な考え方・見方が
 出来なかったのだと言える。
1861年(萬延2年)1月22日、「徳川幕府・長崎溶鉄所」を
 「官営長崎製鉄所」と改称した。
  5月4日に、長崎製鉄所工場が完成する。
1861年2月3日、対馬事件(3月14日説あり、4月12日説あり、
 8月説あり)
  ロシアのポサドニック号が、対馬の占領を企てた。
  約半年後に、イギリスなどの詰問により退去した。
  村民の2名が死亡した。
  勝海舟が、イギリスに頼んだのだった。
  このロシア軍艦の対馬占領事件は・・、
  ロシアの南下政策の行動の中で起き、この動きは、後
 の、日露戦争へと繋がって行く。
  露人、対州に上陸、小屋を建て居住(氷川清話)
  文久の昔の話だが、あるとき、ロシアの軍艦が、対馬
 にやって来て、軍艦の修繕がしたいという口実で、
  その実、途方もないことをするではないか。
  海岸を測量したり、地図を作ったり、
  山道を切り開いたり、畑地を作ったり、
  粗末ながらも、とにかく兵舎の様なものを建てたり、
  それは、実に、傍若無人の挙動(ふるまい)をしたの
 だ。
  それが、始めは、対馬の尾崎浦という所へ投錨したの
 であったから、土地の役人は、開港場でない所へ軍艦を
 寄せる事を詰問しようと思って、小舟に乗って、軍艦の
 二町手前まで漕いで行くと、
  軍艦からは、三艘(そう)のボートへ水兵を乗せて、
  この小舟を取り囲んで、水兵はやにわにこっちの舟に
 乗り移って、鎧一りょう、槍九すじ、そのほか鉄砲、脇
 差しなどを強奪して、本艦へ持って行ってしまった。
  この時、土地の役人は、いよいよ彼らの無法を憤って、
 軍艦にこぎつけて、色々談判に及んだが、
  彼らは少しも取り合わなかった。
  そこで仕方ないから、その日は、まず、無事に引き上
 げて、翌日、またまた談判に行くと、
  今度は、艦内で大そう御馳走してからに、紙だの、砂
 糖だの、日本の貨幣などを土産に贈ったが、
  しかし、肝心な談判の方は、少しも要領を得なかった。
  この様に、幾度掛け合いに行っても、いつも確とした
 返事をせずに、ぐずぐず日を送っているそのうちに、
  南の方の要所要所は、すっかりボートで測量してしま
 って、ゆうゆうと錨を上げて、北の方へ去ってしまった
 (氷川清話)
1861年文久1年)2月19日、「文久」に改元された。
1861年3月、長崎に軍艦打建所が設置された。
  3月,、長崎奉行、服部左衞門佐、浦上村淵立神郷に軍
 艦打建所創設のため、海面12,160坪を埋立て、その基礎
 を作らんとしたが・・
1861年3月28日(旧5月4日)長崎製鉄所工場が完成した(3
 月25日説あり)
  長崎製鉄所開所式、オランダより機械類を取寄せ、製
 鉄、及び、造船を兼ねたる工廠長崎鮑浦に落成。
  総坪数8,226坪、現在の長崎造船所の前身となる。
  キングポストトラス鉄骨造で、鍛冶場、工作場、溶鉄
 場の3工場で編成され、8馬力の蒸気ハンマー、15馬力の
 最新の工作機械蒸気機関が設置された。
  機械代9334両を含めて、工事費は5万8000両を要した。
1861年4月、硝子会社の創業
  現在の川添硝子株式会社の創業者・川添家9代:川添
 甚兵衛により出島の門前、江戸町にガラスを含む洋品
 貨の貿易を始め、
  1894年(明治27)2月に至り、板硝子需要の旺盛にとも
 ない、雑貨商を廃止して板硝子専業になった。
1861年4月12日、対馬事件、露船対馬に来り侵す
1861年5月、毛利慶親(もうりたかちか、長州藩13代藩主)
 が、公武合体・航海遠路の議を朝廷に呈した(1819年〜
 1871年
  この長州藩主は、幕末の混乱期に、有能な家臣を登用
 し、活躍させ、
  また、若い才能を持つものを育て、
  窮乏していた長州藩を豊かにし、
  未来ある明治維新の実現に大きく貢献し、明治・日本
 の大躍進の大功労者の一人。
  貧しく、身分の低い吉田松蔭の逸材を見抜いた烱眼(
 けいがん、物事を発揮しと見抜く力、鋭い眼力、慧眼)
 は、すごいの一言に尽きる。
1861年5月23日、長州藩藩士長井雅楽(ながいうた、直
 目付)が、公武合体の議を建白した(後に藩論一変)
  長井雅樂、三条実美へ建白書を呈し、大いに時局の批
 政を論難す。
  長井雅楽は、藩主・毛利慶親の小姓、奥番頭で厚い信
 任を受けていた。
  開国論者で、これが藩論となった。
  ただ、尊王攘夷派の門下生を持つ吉田松陰とは対立関
 係にあり、安政の大獄で松蔭が捕縛されても、対策は取
 らなかった。
1861年5月28日、東禅寺事件(1861年1862年の2回発生)
  外人排撃の水戸浪士等、品川東漸寺の英国公使を襲い、
 彼我共に死傷あり。
  尊王攘夷の志士によるイギリス公使襲撃。
  幕府は、警備上の問題から海路での移動を勧めたが、
 公使側は、条約で定める国内旅行権を強硬に主張し、陸
 路で行ったら、案の定、東禅寺に入ったが、志士たち14
 名に襲撃された。
  幕府の外国奉行配下の公使館警備に就いていた旗本ら
 が応戦し、戦闘となった。
  英国公使のオールコックは危うく難を逃れたが、書記
 官らが負傷した。
  志士らは襲撃の趣意書を携帯していて、それには「尊
 王攘夷の大義のため」実行した旨が記されていた。
1861年5月、大船建造・購入を許可。
  幕府は、すでに1853年に、220年の時を経て「大船建造
 の禁」を解いていた。
1861年5月、グラバーが仕事を始める。
  グラバーの上司のマッケンジーが中国へ去り・・、
  グラバーは、その仕事を引き継ぎ、「グラバー商会」
 を旗揚げした。
  このスコットランドの生まれのグラバーは、誠実な人
 だった。
  グラバーには日本人の妻が居て、この妻との家庭を、
 一生、大切にした。(シーボルトは日本人妻を捨てた)。
  そして、グラバーは、日本の近代化に手を貸してくれ
 た。
  (幕末期は、武器商人となり、「死の商人」を演じて、
 私腹を肥やしたが・・)。
  明治の近代が来る事を希求し、演じていた坂本龍馬
 いう若者を信じ、手を貸し、相談相手となった。
  そして、薩摩藩とグラバーがからみ、西郷隆盛と坂本
 龍馬がからみ、頭の良い、慧眼の長州藩主がからんで行
 く。
  そして、その先に、勝海舟が居る。慶喜も居る。
  しかし、グラバーの基本は商人であった。儲けが基本
 だった。
  このグラバーに息子に、倉場富三郎という人が居る。
1861年6月、水野筑後守、服部帰一に、小笠原島を巡回さ
 せる(氷川清話)
1861年6月、長州侯、国是を定め開国の業を起こすべきと
 建言す(氷川清話)
1861年6月、日本海測量を米人に許す(氷川清話)
1861年6月、勅して、伊勢、志摩近海英人の測量を禁ず(氷
 川清話)
1861年6月、品川御殿山に外国公使館を建つ(氷川清話)
1861年6月、対州に上陸した露人が、退帆(氷川清話)
1861年6月3日、伊東玄朴、麻酔薬を使って片脚切断の手術
 を行なう。
1861年6月19日、幕府、庶民に令して、旧来の大船製造の禁
 を解き、外国船の購入をも許す。
  百姓、町人の大船の諸事を免許す(氷川清話)
  庶民の大船建造と外国船購入を許可、
  そして、沿海航行商船から外航行軍艦へ、
  西欧列強に対抗できる程の大きな船を建造する事を許
 可した。長崎の造船所などの創業が下地にある。
  また、国内運輸から転じて、外国との貿易への発想の
 広がりがある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive