(増補版)246D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年12月〜1858年12月)

題:(増補版)246D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年12月〜1858年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1858年(安政5年)1月5日、老中・堀田正睦が、通商条約の
 調印の2ヶ月延期をハリスに要請した。
  (幕府、日米条約締結を決意)の説もあり。
1858年1月8日、幕府が、老中・堀田正睦に上洛を命じ、日
 米条約調印の勅許を請わしむ。
1858年1月12日、日米通商条約の交渉妥結。
  幕府とアメリカ人・ハリスとの通商条約の逐条協議の
 議定のすべてが終わった。
1858年1月21日、老中・堀田正睦が、上京の途につく。
  ハリスが、江戸会見を終え下田に帰参した。
1858年2月20日、幕府が、諸国に令して、楮(こうぞ)、茶
 などを植え、蝋、漆、紙、茶業の興産を計る。
1858年3月、朝廷が、勅許を許さず。
1858年3月24日〜25日、江戸日本橋安政5年の大火 (約12万
 戸焼失)
1858年4月5日、堀田正睦が、上洛して、米国との条約締結
 勅許を仰ぎて成らず、空しく還る。
1858年4月9日、飛越地震
1858年4月23日、彦根藩主・井伊直弼が、大老を命じられる。
  井伊直弼が、保守派におされて大老に就任すると、
  慶福(よしとみ、家茂)を、14代将軍と定め、
  勅許のないまま、安政条約を締結し、
  また、反対派を、徹底的に弾圧した(安政の大獄)、
  このため、水戸、薩摩両藩の志士らによって、1860年
 3月に、桜田門外の変が起き、直弼は暗殺された。
1858年4月24日、老中・堀田正睦が、ハリスを私邸に招き、
 日米条約調印の延期を要請した。
1858年4月27日、日米通商条約の調印が、3ヶ月間再延期に決
 定した。
1858年5月3日、オランダへ注文した軍艦エド号(後の朝陽
 艦、300トン、砲18門)が、長崎へ入港した。
1858年、勝海舟が、長崎に滞在。
  軍艦で九州を巡航、鹿児島に行く、島津斉彬に謁す。
 (氷川清話)
1858年5月7日、江戸に、種痘所が開設された、
  江戸の蘭学者の有志たちが、神田・お玉が池に種痘所
 を開設し、種痘をした。
  また、蘭方医学の研究拠点とした。
  伊藤玄朴等、医官となる。(氷川清話)
  内科に、はじめて蘭医を用う。(氷川清話)
  当時、府下の蘭家医80余名。(氷川清話)
1858年5月、長崎で、中国経由で入港していたアメリカ軍艦
 の乗組員にコレラ患者が発生し、
  長崎に上陸したため、長崎市民に感染した。
  767人の死者が出た。
  後に、猛威が、九州各地から広がり、
  大坂、京都へ行き、
  7月には、江戸が流行、西日本一帯に蔓延して行った。
  50日間で、4万人以上の死者数となった。
  薩摩藩島津斉彬コレラで没した。
1858年5月23日、幕府が、初めて、陪臣の蕃書調所への入学
 を許した。
1858年6月4日、三条実萬が、大老井伊直弼へ意見書を送
 り、大いに時事を論ず。
1858年6月17日、米国使節・ハリスが、軍艦ポーハタンにて
 神奈川に来航し、日米通商条約を迫る。
  国内は、このハリスとの安政の仮条約締結問題と、14
 代将軍継嗣問題も絡んで、保守派と改革派は、深刻な対
 立関係になって行った。
1858年6月19日、幕府は、勅許を得ないまま、日米修好通商
 条約を調印した。
  江戸小柴沖停泊中の米艦上で、日米修好通商条約調印。
1858年6月23日、老中・堀田正睦、罷免。
1858年6月24日、前水戸藩主・徳川斉昭と、尾張藩主・徳川
 慶恕が、不時登城し、日米修好通商条約調印を巡って、
 伊井大老を面詰した。
1858年6月24日、松平春嶽が、日米通商条約を独断で調印し
 た井伊直弼を詰問した。
1858年6月25日、紀州藩主・徳川慶福(家茂)の将軍継嗣が、
 決定したことを発表した。
1858年、徳川慶喜が、条約締結問題について、井伊を詰問
 したことから、隠居謹慎させられた・・
  が、しかし、井伊の横死(1860年3月)後、幕府が、公
 武合体に転換したのに伴い、許されて、慶喜は、家茂の
 後見人となった。
  そして、松平慶永(よしなが)とともに、幕政改革を
 務めた。
1858年7月5日、徳川斉昭は謹慎に、また、徳川慶恕と松平慶
 永は隠居謹慎を命ぜられた。
1858年7月6日、将軍・家定が没した(35歳)。
  将軍家定逝去(温恭院)、(氷川清話)
1858年7月8日、八戸沖で地震
1858年7月8日、海防掛に代わり外国奉行を置く。
  この日、イギリス使節エルギン、江戸湾に来航。
  イギリスの軍艦4隻が、日本との開港条約を迫って品川
 に来航した(7月5日説あり)
1858年7月、露英蘭の仮条約成る(氷川清話)、
  朝廷、調印に反対す。
1858年7月、江戸に出ていた松下村塾の門下生の中谷正亮
 (しょうすけ)から、松蔭にあてて、
  「幕府は、天皇を、井伊直弼の本拠地・彦根に、遷座
 幽閉しようとしているとの噂がある」と知らせて来た→
 噂に終わった。
1858年7月10日、日蘭修好通商条約調印(オランダ)。
1858年7月11日、日露修好通商条約調印(ロシア)。
1858年7月16日、薩摩藩主・島津斉彬没(コレラ)(1809年
 〜1858年)(49歳)。
  松平斉彬逝去(氷川清話)
1858年7月18日、日英修好通商条約調印(イギリス)。
1858年7月21日、徳川慶福、名を家茂と改む。
1858年7月29日、日米修好条約が締結された(アメリカ)。
  続いて仏(8月13日)、蘭(8月17日)、露(8月18日)、
 英(8月26日)、と五カ国条約。
  この日米修好通商条約が、神奈川で結ばれて、
  日本は、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オ
 ランダと自由貿易をすることになった。
  この条約は、問題のある条約だった。
  不平等条約だった。
  治外法権(特定外国人に日本の法律が適用できない)、
  つまり、外国人が、日本で悪いことをしても、捕まえ
 る事が出来ないし、
  裁くこともできないという不平等を、日本は認めさせ
 られた(酷いことに、今・現在も存在している、独立国
 の立場なし)。
  また、関税自主権がなく、不平等を強いられた。
  これは、独立国が、その主権に基づいて、自主的に関
 税制度を定め、運営する権利が認められなかったという
 こと。
  これは、日本がどうなろうと、儲かればどんどん好き
 な貿易取引ができて、
  関税によって、その問題の動きに対し、国は調整する
 ことが、したくても出来ない・・という状態に置かれた。
  (これも、今のTPPがこれで、自分が強いのを良い
 ことに、関税は0(ゼロ)が良いのだと、関税によって
 自国産業を保護する手立てを奪う事が行われている。一
 方的な論理の下に・・、
  また、自分の弱点に対しては、35年という超長期のあ
 るか?なしか?・・の、条件にさせられている)。
  午後3時、横浜沖のアメリカ軍艦・ポーハタン号上で、
 井伊直弼大老の幕府と、アメリカ総領事のハリスとの間
 で、日米修好通商条約が調印された。
  21発の祝砲が、江戸湾に轟き渡った。
  大老に従った幕府側の有能な武士は、岩瀬忠震(ただ
 なり)、水野忠徳だった。
1858年7月29日、日米修好通商条約を結ぶにあたって、幕府
 が、天皇の勅許を求めた。
  そして、この事を、直接のきっかけとして、この天皇
 =朝廷が、一挙に政治の舞台に登場した。
  この天皇=朝廷の政治化とともに、政治の舞台の中心
 が京都に移った。
  また、孝明天皇は、特に、外国に対しての敏感な感覚
 (嫌悪感覚)を持っていた。
1858年7月、幕府は、アヘンの輸入禁止を、イギリス・アメ
 リカ・オランダ・ロシアと締結した。
  節操のない国もあるので重要な事だった。
1858年7月以降、長崎に端を発したコレラが、江戸に蔓延、
 死者3万余人を数えた。
1858年7月29日、アメリカとイギリス間の電信用の海底ケー
 ブルが敷設された(大西洋横断ケーブル)。
1858年8月8日、条約調印、及び、徳川斉昭らの処分に関す
 る勅諚(ちょくじょう、勅命)が、幕府と、水戸藩に下る。
  これは、処分の勅諚ではないという説がある。
  朝廷は、幕府よりもむしろ、御三家の一つの水戸家を
 信頼していて、
  この日に、密勅降下があったという。
  それは、事実上の井伊直弼大老排斥の趣旨を含んだ
 もので、
  この密勅事件が、今後、起きる大獄の直接の原因・発
 火点だったという。
  そして、その井伊の強引な検察的態度に、京都も震え
 上がり、そして、水戸家も戦慄していた。
1858年8月17日、江戸でコレラ大流行(病死者681名)
  死者3万の説あり、
1858年、佐久間象山が、電磁石・ダニエル電池を制作した。
1858年9月3日、日仏修好通商条約調印(フランス)。
1858年9月5日、安政の大獄(10月11日説あり))
  岩瀬忠震、作事奉行へ左遷もあったが・・、
  この日、井伊大老が断を下した京都論壇と、水戸論壇
 に対する大検挙は、既に、浪人、儒者藩士に始まって、
 公卿の家臣、そして、公卿に及んで行き、そして、大名
 にまで及ぼうとしていた。
  井伊大老の頭の中には、条約勅許問題と、将軍継嗣問
 題について、江戸と京都で暗躍した反井伊派の逮捕であ
 った。
  井伊はこれを命じた。
  これは、一斉検挙の形をとらず、この日から、翌年末
 まで続いた。
  大名・公卿に対しては、蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)、
 差控(さしひかえ、出仕の禁止、自邸謹慎)、隠居(い
 んきょ、退職処分)だった。
  これ以下の、いわゆる志士に対しては、逮捕江戸送り、
 そして、投獄、死罪という厳しいものだった。
  藩主・山内豊信は、越前侯、宇和島侯などとともに井
 伊の大嫌いな水戸系の尖鋭大名ゆえに、この大獄では、
 とうてい無事では済まされそうになかった。
  山内家では、取り潰しになるかもしれないと思ってい
 たと「竜馬がゆく・2」には記されている。
  また、同誌には、京都西町奉行所の与力・渡辺金三郎
 は、「安政の大獄」で、志士の逮捕に活躍した鬼与力で、
  どれだけの志士が、この与力のために六角獄(ろっか
 くごく)に放り込まれ、死地へ送られたか。
  この与力・渡辺は、数年後、武市半平太の指揮による
 尊王攘夷派の剣客団のために、江州水口宿の近くの石部
 で暗殺された。 
  安政の大獄で六角獄舎につながれたものは、鷹司家
 6人、青蓮院宮家(しょうれんいんみやけ)で2人、有栖
 川宮家(ありすがわみやけ)で1人、一条家で2人、久我
 家で1人、西園寺家(さいおんじけ)で1人、三条家で4人、
 梅田雲浜橋本左内頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、
 他・・、
1858年9月7日、小浜藩浪士・梅田雲浜、京都で逮捕される
  (これより京都・江戸で尊皇攘夷派の逮捕しきり、安
 政の大獄始まる)
1858年9月10日、幕府の弾圧急となり西郷吉之助、有村新七
 等僧月照を伴い京都に逃る。
1858年9月15日、竜馬、江戸留学の期限が切れ、国元へ戻る
 べく江戸を出発。24歳。
1858年10月5日、若狭小浜安政5年の大火
1858年10月23日、橋本左内、江戸で逮捕。
1858年10月25日、徳川家茂、14代将軍となる(将軍在任:
 1858年〜1866年))(生没年:1846年〜1866年)
  家茂が上洛し・・、徳川家茂紀州慶福・よしとみ)、
 征夷大将軍内大臣に任ぜられた。
  これに対抗した、一橋慶喜を推す一派は、安政の大獄
 に連座した。
  勝海舟は、この家茂によって引き立てられた。
  咸臨丸渡航の功によって、天主番頭格(400石)になり、
 さらに、1862年の40歳の時に、軍艦奉行並(1000石)に
 昇進し、
  翌年の1863年4月に、将軍を順動丸に乗せて大阪湾を視
 察させ、いろいろ説明したり進言して将軍と近い関係に
 なった。
  そうして、将軍直々に神戸操練所を建設する許可を受
 ける。
  そして、同じ年の1863年12月に、江戸から大阪まで、
 翔鶴丸で将軍のお供をして、甲板上で地勢を説明したり、
 夜は将軍お手ずから目貫(めぬき)や小柄(こづか)を
 海舟に賜ったが、下田沖を通過するときは西風強く、側
 近達は将軍を陸路上坂させるべきを主張して船内は大い
 にもめた。
  ところが将軍は、「今さら陸で行く必要はない。海の
 事は軍艦奉行に任せてあるのだから」と言って海舟を庇
 (かば)った。
  「小臣涕泣して、上意の忝きに感激す」と海舟日記に
 書いている。
  涕泣(ていきゅう、涙を流して泣くこと。)
  忝き(かたじけなき、もったいない、恐れ多い、感謝
 の念でいっぱいであるさま)
  紀州沖では、夜の航海をすべきか否かで迷ったが、朝
 を待って出帆。
  その間、将軍よりお酒を賜わったり、酒がなくなって
 銀貨を賜わったり、海舟はすっかり家茂のお気に入りと
 なった。(氷川清話)
1858年11月8日、福沢諭吉(23歳)が、豊前中津藩の命によ
 って出府した。
  蘭学・洋学塾(慶応義塾)を開いた。
1858年11月16日、西郷吉之助(30歳)が、同志の僧月照
 ともに薩摩潟(鹿児島湾)に投身したが一人助かって、
 奄美大島に流された。
  西郷は、二度に亘って島流しにあっている。
  島津斉彬の後の、島津久光は西郷を嫌った。
1858年11月17日、老中・間部詮勝が、米国との条約締結は、
 之を取消すこと不可能の旨奏上す。
1858年11月23日、伊達宗城が、隠居を命ぜられる。
1858年、仏人シャロン男爵、北斎漫画など美術・工芸品を
 購入して帰国。
  ウィーンのジャポニズムの動きなど日本美術の影響が
 ヨーロッパを刺激していく。
  浮世絵のマネや印象派への影響が有名。
  日本紹介の書物によって、この頃までに、日本への関
 心は高まっていたが、この関心が、芸術の面に反映して
 行った。
  開国して、外交官が日本を訪れる様になると、
  随行員として来た、このシャロンの様な美術好きな人
 が、購入して持ち帰った日本の美術品が、フランスへ日
 本芸術を伝えた。
  そして、後期印象派への影響も与え、版画、彫刻、工
 芸、建築、そして、写真などへも大きな影響を与えた。
  多岐に渡る日本芸術の影響が表れた。
  それは、単なる異国趣味のものではなく、正当な高い
 芸術性理解をもって、きわめて画期的な芸術現象として
 表れた。
1858年12月19日、江戸神田安政5年相生町の大火
  神田相生町から出火し、神田一帯を灰塵に帰した。
1858年12月26日、吉田松陰、再び、野山の獄に下さる。
  吉田松陰(28歳)が、幕府の安政の仮条約調印を怒り、
 攘夷倒幕を企てて、再び、下獄した。
  そして、江戸に送られ、安政の大獄で、1859年に、死
 刑に処せられた(29歳)。
1858年12月30日、西郷隆盛奄美大島に流される。
1858年、外国奉行を置く。(氷川清話)
1858年、御木本幸吉が生まれた。
1858年、安藤広重が没した(1797年〜1858年)
1858年、活字判摺立所で「日蘭条約書」、ポンペ著「種痘
 書」(蘭語)など出版
1858年、緒方洪庵著、『虎狼痢治準』が出版された。
  洪庵が、長崎から流行し始めたコレラが、江戸や洪庵
 の住む大阪で、大流行したため、
  こうした状況を打開しようと、急遽、対策書として世
 に出した。
  コレラについて、オランダ軍医ボンベが口授した内容
 を筆記し、
  更に、モスト、カンスタット、コンラジという3人の医
 師が書いたコレラについての書物を、訳して、まとめた
 もので、
  洪庵の今までの経験も交えながら、症状や治療法を、
 詳しく解説した。
  コレラの流行を、大きな社会問題として、いち早くと
 らえた洪庵だった。
  洪庵は、無料で、多くの医師に配布した。
  日本の医学の近代化に貢献した。
  まだ、コレラ菌が発見される以前の、日本だった。
  長崎出島のオランダ人医師のポンぺは、「コレラ患者
 にキニーネとアヘンを服用させ、温浴させる」という治
 療方法を行なったが、
  適塾の洪庵は、キニーネの使用については賛成ではな
 く、
  モストらのオランダ医学書からのコレラ対策を、この
 書に記し、対策方法を示した。
  因みに、キニーネは、キナの樹皮に含まれる主要なア
 ルカロイド。
  マラリア治療の特効薬として知られている・・とある。
1858年、ペリーが没した。
1858年、仏越戦争が起きた。
1858年、イギリスが、インドを併合した。
  イギリスが、ムガール帝国を滅亡させた。
  セポイの反乱を機に、東インド会社を解体し、イギリ
 ス女王が帝位について、イギリスの直轄とした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive