(増補版)245D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年5月10日〜1859年)

題:(増補版)245D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年5月10日〜1859年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1857年5月10日、セポイの反乱(〜1859年)。
  イギリス人の虐政に対する抑え難き憤懣がインド兵の
 叛乱となって起きた。
  インドに「メーラトの反乱」が起きた。
  (注)メーラト:インド北部のウッタル・プラデーシ
 ュ州の都市で、首都のデリーの北東約60キロメートルに
 ある。
  この地のインドの大反乱「セポイの反乱」が発火点と
 なった。
  (注)セポイウルドゥー語で「軍隊」「兵士」を意
 味したが、「インド亜大陸において、ヨーロッパ士官に
 訓練、指揮されたヨーロッパ風のインド人軍隊(傭兵)
 のこと。
  この日・5月10日に、メーラトの部隊が蜂起した、そし
 て、兵器庫を襲って武器・弾薬を奪い、民衆と共に兵営・
 住宅・キリスト教会などを襲った。
  イギリスの非人道的な行為に憤怒するインドの方々の
 行動だった。
  また、監獄も襲って、捕らえられていた人々を解放し
 た。
  そして、首都のデリーに向けて進撃した。
  19世紀の半ばまでは、インドの方々は、我慢に我慢を
 重ね堪えていた。
  しかし、インドの方々のあらゆる層に、イギリにの対
 する根深い反感と憎悪は広がっていた。
  この頃から、インドの方々に鬱積(うっせき)した怒
 りは、各地で、自然発生的に反乱や暴動となって現れた。
  北ベンガル一帯を襲った大飢饉を背景に、苦行僧の方
 々が立ち上がった。
  この動きに、多くの農民の方々も加わった。
  そして、この愛国運動は、後に、小説にもなり、作中
 の詩「母なる大地に敬礼」は、愛国歌にもなって、広く
 インドの方々が唄っている。
  19世紀の初めの『バレイリ・サハラーンプル・メラー
 ト』などの農民決起もある、
  1831年ベンガル地方に、たびたび、イギリス経営の
 藍耕作労働者に発生したストライキもある、
  1847年のケララの農民一揆も、
  1855年のサンタール族の壮烈な反乱などなど、いっぱ
 いある、それは切がないほどだった。
  しかし、悲しいかな、そのすべては、力で抑え込まれ
 て来た。
  しかし、この時、大きな反乱が起きた、この反イギリ
 ス感情は、インド人傭兵(セポイ)にもおよんだ。
  これまでも、各地の駐屯地でしばしば集団反抗が発生
 していた。
  1806年に、南インドのヴェッロールの連隊でも発生し
 ていた。
  また、宗教者のキリスト教の行なう差別が酷(ひど)
 く、虐げられ問題となった。
  これが、軍隊内にもおよび、キリスト教への改宗者へ
 の依怙贔屓(えこひいき)もひどく、特に、抜擢が露骨
 に行われ、差別された。
  そしてまた、日常でも、宗教的差別は酷く、セポイ
 方たちも、宗教的に過敏になっていた。
  宗教政策でも、差別的で、排他的な行為が露骨に行わ
 れた。
  また、ヒンドゥーへの配慮もなく無視された。
  イギリスは、無慈悲にも反乱行為の首謀者たちを絞首
 刑にしていた。
  また、参加兵士には、全員に、14年の重労働の判決な
 れた。
  しかし、イギリスは、この様な抵抗に対して、何ら配
 慮せず、自分たちだけに都合の良い法律を制定して対抗
 した(イギリスのいつものやり方)。
  5月10日は、インドの方々の大反抗の日となった。
  イギリスに、歯向かって行った。
  インドの地のほとんどを、奪い取ったイギリスへ。
  インドのその地だけでなく、インドの法までもが、イ
 ギリスに有利にされ〈立法権を奪取され)、
  また、検事の首を据え替たりして、裁判を繰られ(司
 法権を奪取され)、
  そして、イギリスに指示されて動く、出先のイギリス
 人総督の政治(行政権を奪取され)、
  そして、閉鎖的なイギリス人だけのコミュニケーショ
 ンを作って、インドの方々を蔑(さげす)み、インドの
 方々と溶け合おうとしないイギリス人たちだった。
  強力な軍隊を持って武力で従わせて、インドの方々を
 顧(かえり)みなかった。
  キリスト教の有色人種蔑視の考え方に洗脳され、また、
 キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」に洗脳され、マイ
 ンドコントロールされたイギリス人の心によって、有色
 人種であり異教徒であるインドの方々は、安易に処理さ
 れた。
  ここに来て、インドの方々の耐え忍ぶ心も限界に達し
 た。
  インドの方々に、新しく開発された銃が手に入るよう
 になったのも要因だった。
  ベンガル軍に、エンフィールド銃が手に入るようにな
 った。
  エンフィールド銃は、ライフル式だった。
  射程距離は長く、命中率も高かった。
  また、インドの方々の正義の主張・蜂起・反逆・自主
 独立への希求の行動は、イギリスの卑劣な収奪・侵略・
 蔑み蔑視などにその起因はあったが、
  それと、大きな要因の一つとして、宗教的な要因があ
 った。
  インドの方々の宗教的尊重が損なわれる行為を、イギ
 リスは安易に行った。
  宗教的に、インドの方々をなぶった(弱い立場の者を、
 面白半分に苦しめたり、もてあそんだりした)。
  そして、インドの方々は言った、「イギリス人たちは、
 この国の宗教を滅ぼし、インドをキリスト教化するつも
 りだ」と。
  独立闘争の先頭に立ったアンニ・べザント夫人は言っ
 た、「インドにおける運動は、宗教的基盤に基づいて強
 いものとなる」と。
  「セポイ(インド人傭兵)の反乱・蜂起」が起きた。
  この蜂起は、偶発的に起きたものではなく、用意周到
 なる計画のもとに蜂起された。
  宗教のために立ち上がれと、仲間に叫ぶ者もあった。
  イギリス兵は、このセポイ(インド人傭兵)を捕らえ、
 処刑した。
  しかし、ある一人のこのインド兵士の英雄的行動は、
 ベンガル管区の全連隊に伝わり、セポイの兵士の方々の
 血を沸かせた。
  4月20日に、イギリス基地内で、セポイ兵に弾薬が手渡
 されたが、イギリスは、セポイ兵のインドの方々の宗教
 的意識を変革しようとしたのか、その弾薬には、インド
 の方々が宗教的に忌避する事がなされていた。
  少なくとも、その行為がなされていたと、セポイ兵の
 すべては知っていた。
  その弾薬が、手渡された時、セポイ兵のほとんどが、
 受け取り拒否の行動を起こした。
  その拒否したインド兵士は、軍法会議に掛けられた。
  そして、有罪とされ、イギリス人によって、10年の自
 由の拘束の刑とされた。
  足枷(あしかせ)がはめられるなどの、非人道的行為
 もなされ、屈辱も受けた。
  この様な、長い物心両面の様々な屈辱が、5月10日に至
 り、とうとう爆発した。
  インドの方々の一斉蜂起となった。「セポイたちの反
 乱」である。
  反乱した兵士たちは、真っ先に、監獄に駆け付けて、
 イギリスに捕らわれた仲間を救出した。
  それから、武器庫へ押し入って武器・弾薬を奪った。
  そして、キリスト教徒の如く「マロー・フイリンギー
 (異教徒を殺せ)」と叫び、イギリス兵に対峙して行っ
 た。
  セポイ兵士の蜂起が、インドの方々・市民に伝わると、
 インドの方々も歓声をあげて、手に手にこん棒や刃物を
 持って立ち上がった。
  たちまちにして群衆となったインドの方々は、イギリ
 ス人居住区へ向かった。
  蜂起の鎮圧に向かった警察官までもが、その群衆の行
 動に加わった。
  近くの村々からも、農民たちが駆け付けた。
  そして、日頃からインドの方々を差別していた、イギ
 リス兵舎を含め、徴税所・キリスト教会・郵便局を襲い、
 日頃の抑圧された鬱憤(うっぷん)もあって火が放たれ
 た。
1857年5月11日の、その翌日になると、立ち上がった人々は、
 デリーへと向かった。
  そして、到着するとデリーの方々も加わって、人々は
 たちまちにして、この町を占領した。
  そして、ムガル皇帝・バハードゥル=シャー2世(在位
 1837年〜1858年)を擁立した。
  そして、有名無実にされていたムガル皇帝の統治の復
 活を宣言した。
  ムガル皇帝の名で、インド各地へ向けて、『抵抗のた
 めに立ち上がれ』との檄文が送られた。
  すると、たちまちインドの各地で、イギリスの過酷な
 圧迫に耐えていたインドの方々が立ち上がった。
  北インド全域におよぶ、大きな反駁の人々となった。
  イギリスのインド支配の終焉が起きてインドの方々の
 希望がかなうかに見えた。
  しかし、この方々には、統一された組織が無かった。
  イギリスは態勢を立て直し、また、多くの藩王(各地
 の王侯)を味方につけて反撃にうつった。
  事は鎮圧の方向へ向かっていった。
1857年9月の、その4か月後には、インドのメーラトの反抗
 は、イギリスの力で抑え付けられ、この月に、デリーは、
 イギリスの手に落ちた。
  ムガル皇帝は、イギリスの捕虜となった。
  ムガル皇帝の王子たちを、イギリスは処刑した。
  翌年(1858年3月)に、インドの方々の反抗のもう一つ
 の拠点だったラクナウも、イギリスの手に落ちた。
  その5か月後(1858年8月)には、イギリスはムガル皇
 帝を廃位とした。そして、イギリスは、ムガル皇帝をビ
 ルマに追放した。
  300年以上続いたムガル帝国(1526年〜1858年)は、滅
 亡させられた。
  その翌年(1859年4月)に、インドの方々のイギリスの
 圧迫に抵抗した戦いも、そのほとんどが敗北で終わった。
  しかし、インドの方々は、デリーやラクナウの拠点を
 失った後でも、各地でゲリラで戦いを続けた。
  しかし、この年に、頑強に抵抗して来たアウドラの方々
 の反乱軍も鎮圧され、3年に及んだインドの方々の大反乱
 は、ほぼ完全に鎮圧されてしまった。
  インドの1857年〜1859年のセポイの大反乱は、イギリ
 スに力で抑え付けられた。
  しかし、戦いが終わった後なのに、イギリスの酷い仕
 返しが始まる。
  (注)セポイは、イギリスの東インド会社のインド人
 傭兵のこと。
  [まとめ]:1857年、イギリスのあまりにも過酷な圧迫に
 耐えかねたインドの方々が反乱を起こした。
  良く、長い期間、我慢を重ねてきた。
  反乱は、インドのガンジス河の全流域に波及していっ
 た。
  しかし、イギリスの東インド会社から金を貰っていた
 インドの王侯貴族や上層階級は、これに関わらなかった
 ため、半年後には徹底的に鎮圧されてしまった。
  この翌年(1858年)、「インド統治法」ができ、イン
 ド統治の大権はイギリス国王が握った。
  インドの人々にあるべき権利が完全に奪われた。
  そして、イギリス女王ビクトリアが、1876年に、イン
 ド皇帝の座についた。
  ビクトリア女王が、インド皇帝の地位があるという状
 態はそのままにして、1877年に、インド帝国の成立が宣
 言された(1877年〜1947年)
  [イギリスがインドの方々へ与えた恐怖の数々]:
  イギリスが送った東インド会社が行なった悪行為は、
 罪人から収賄することまでした。そして、無罪放免にす
 ることもできた。
  そして、その様な事を告訴(犯人の訴追を求める事)
 をしたインドの高僧を、公衆の面前で絞首刑にした。
  インドの方たちは、まさか絞首刑にはならないだろう
 と思っていた。
  そう思われた高僧さえ殺した。
  また、ジャット人とラージプト人を戦わせたり。
  そのジャット・ラージプト人をマラーター人と戦わせ
 たり、
  ロヒラ人をブンデラ人と戦わせたりした。
  イギリス人は、あらゆる策で、インドの方々が無益な
 闘争に疲れ果てるようにし、漁夫の利を占めた。
  また、条約を、藩王と結んでは、勝手にこれを破棄し、
 藩王を酒と女に溺れさせ、苛斂誅求(かれんちゅうきゅ
 う、情け容赦なく、税金などを取立てる事)をしないと
 財政が立ち行かぬように仕向け、人民と反目させた。
  そうして、一歩一歩、イギリス勢力をインドに確立し
 た。
  このイギリス人の虐政に対する抑えがたい憤懣(ふん
 まん)が1858年の反乱だった。
  この反乱中、並びに反乱鎮圧後のイギリス人の残忍酷
 薄も酷い。
  ケー・A・マレンソノの「印度反乱史」に書かれてい
 るが・・、
  「戒厳令は布(し)かれた。
  5月及び6月の立法会議によって制定された恐怖すべき
 条例が盛んに適用された。
  文官武官が等しく血なまぐさい巡回裁判を開き、
  あるいは、巡回裁判なしに土民(インドの方々)の老
 若男女を屠った(はふった、体などを切り裂く)。
  すでにして血に渇(かわ)ける欲はさらに強くなった。
  反乱に荷担した者のみならず、老人、女子、小児など
 も血祭りに上げられた。
  この事は、インド総督が本国に送れる書類の中の、イ
 ギリス議会の記録に収められている。
  彼らは、絞刑には処せられず、村々において焼殺され、
 または、銃殺された。
  イギリス人は、臆面もなくこれらの残忍を誇って、あ
 るいは一人の生者を余さずと言い、あるいは、黒ん坊ど
 もを方端から殴り飛ばすのは実に面白い遊戯だと言い、
 あるいは実に面白かったと言い、または書いている。
  権威ある学者の承認せる一著書には、三ヶ月の間、八
 輌の車が十字街または市場で殺された屍骸を運び去るた
 め、朝から晩まで往来したとあり、
  またこのようにして六千の生霊が屠られたとある・・
 以下、略す・・。
  キリスト教魔女裁判所も、また、南米などもこの様
 に酷かった。
1857年、当時を見た報告書:「我が軍(イギリス軍)の将
 校は既に各種の罪人を捕らえ、あたかも獣を屠るがごと
 くこれを処刑に処していた。
  絞首台は列をなして建てられ、老者・壮者は言語に絶
 する残酷なる方法をもって絞首された。
  ある時のごときは、児童らがむじゃきに叛兵の用いし
 旗を押し立て、太鼓を打ちながら遊んでいるのを捕らえ
 て、ことごとくこれに死刑の宣告を与えた。
  裁判官の一人なりし将校は、これを見て長官の許(も
 と)に赴き、涙流してこれらの罪なき児童に加えられる
 極刑を軽減せられんことを嘆願したが、遂に聴かれなか
 った」。
  そして、反乱が収まっても・・
  反乱後の、イギリスの、インドの方たちへの蛮行。
  反乱がおさまっても、イギリス人は卑劣な鬱憤(うっ
 ぷん)ばらしをした。
  面白がってインドの方々を殺すイギリス人の蛮行の姿
 が白日の下になっている。
  「予(イギリス人)は面白い旅をした。
  我らは一門の大砲を乗せたる汽船に乗り込み、左右両
 岸に発砲しつつ航行した。
  反乱のあったところに着くと、船から上陸して盛んに
 小銃を発射した。
  予の二連銃はたちまち数人の黒ん坊(インドの方々)
 を殺した。
  予は実に復仇(ふっきゅう、かたきを討つこと)に渇
 していた。
  我らは右に左に小銃を発射した。
  天に向かって発射せる銃火は、微風に揺られて反逆者
 の上に復仇の日が来たことを示した。
  毎日我らは騒動の起こった村々を破壊し焼き打ちする
 ために出て歩いた。
  予は政府並びにイギリス人に抵抗する一切の土民を裁
 判する委員の主席に推された。
  日々我れらは八人乃至十人を屠った。
  生殺の権は我等の掌中にあった。
  そして、自分はこの権利を行うにいささかの容赦もな
 かったことを断言する。
  死刑を宣告された犯人は、首に縄をまいて、大木の下
 に置かれた馬車の上に立たされ、馬車が動けば犯人は吊
 り下がって息絶えるのである」。
  可哀想なインドの方々だった。
  怒りが心頭に達する。
  そして、最後に、イギリス人は言う、「インドはこの
 様にしてイギリスのものとなったのであります」と。
  イギリスは、有無を言わさず「イギリスに都合のよい
 法律を成立させた」。
  そして、言う。法律があるじゃないか・・と。
  私たちは不法な事はしていません・・と、
  インドの在来の農業制度も根底から潰された。
  インドの人々のつながりも破壊され、村々の社会、共
 同体も滅び去った。
  イギリスに都合よく作り直されていった。
  インド農村は、イギリス資本の支配の都合のよいもの
 になって行った。
  このイギリスの事を言う某知識人は、「予は誓って言
 う。大英帝国において、インド農民以上に悲惨なるもの
 はない・・と。
  彼は一切を絞り取られて、ただ骨のみを残している」
 と言った。
  インドの方々は、腹いっぱい食べる経験なしに死ぬの
 だと言われた。
  常に、精根を使い尽くしているので、病にかかればす
 ぐ倒れると言われていた。
  衣服をまとう余裕もないと・・言われていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive