(増補版)244D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1856年12月〜1857年12月)

題:(増補版)244D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1856年12月〜1857年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1857年(安政4年)2月1日、甲比丹(長崎のオランダ商館の
 館長)クルチウスが、前年10月のアロー号事件を、長崎
 奉行に知らせて、幕府の通商拒否の方針に警告をした。
  イギリスは、フランスと連合して、アロー号事件にお
 いて、清国を卑劣なやり方で破壊し、略奪し、殺戮した。
  これを、幕府は知った。
1857年4月11日、軍艦教授所を講武所中に置く(氷川清話)
  幕府は、長崎海軍伝習所の学生の一部を、蒸気船の「観
 光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦教授所(軍艦操練
 所)を設置した。
  幕府は、江戸築地に海軍教授所を開設することにした
 (氷川清話)
  海軍伝習が軌道にり、永井岩之丞は、矢田堀景蔵らと
 観光丸で江戸に帰る。
  長崎の方は岡部駿河守が伝習を監督。勝ら数人は残留
 した。
1857年5月7日、下田奉行、ハリスと応接す。
1857年5月26日、下田協約
  ハリスと下田で条約調印がなされた(日米和親条約
 補の条約)
  外国人の居住権・領事裁判権などの規定。
  これは、領事や専門の裁判官が駐在国で自国民の裁判
 が行なえるという制度で、治外法権である。
  つまり、幕府(日本)は、アメリカ人を裁けないとい
 う権利を認めた。
1857年6月、勝海舟、海軍伝習の勤労に付、金二枚時服二を
 賜う(氷川清話)
1857年6月17日、阿部伊勢守、卒す(氷川清話)
  老中・阿部正弘が、没すると、堀田正睦は直ちに松平忠
 固を老中に再任し、幕政は溜詰の意向を反映した堀田・
 松平の連立幕閣を形成した。
  さらに直弼は、第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で紀
 伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳
 川斉昭との対立を深めた。
1857年6月、堀田閣老、貿易取調の命を受く(氷川清話)
1857年7月、堀田正睦が労流になり、開国を説く(氷川清話)
1857年7月、米使ハリス下田に来る。後柳営に引見す(氷川
 清話)
1857年7月8日、米国使節・ハリスが、下田奉行と下田に会
 見し、国書の要旨を求めて許されず
1857年7月、水戸斉昭、海防並びに軍制等のことを建言(氷
 川清話)
1857年7月、外交を許し、制度を変ずるを命ず(氷川清話)
1857年7月、蕃書調所に幕臣及び諸藩士の入学を許す(氷川
 清話)
1857年7月、伊東玄朴、戸塚静海、種痘館を建つ(氷川清話)
1857年7月、北海道の函館の五稜郭が起工された。
  1864年に、箱館奉行・小出秀実が旧奉行所から郭内の
 箱館御役所に移転し、業務を開始した。
  1866年に至って、すべての工事が終了した。
  幕末に、榎本武揚(えのもとたけあき)の幕府軍が立
 てこもった。
  このフランス式の築城技術で建設された城郭で戦った。
  因みに、榎本武揚は、「蝦夷共和国」を設立し、この
 五稜郭は行政府としても機能した。
1857年7月14日、駿河地震安政静岡地震)。
 マグニチュード6.0
1857年7月、長崎に製鉄所を設く(氷川清話)
  長崎奉行川村対馬守が、幕府に長崎港付州の埋立てと
 飽の浦に溶鉄所建設を上申した。
  11月に建設着工する、そして、自前の船が欲しい幕府
 は、船の建造へと向かう、
  何しろ、上申から着工が早い。
  これが、後の三菱重工業長崎造船所となる。
1857年7月、幕府が、長崎奉行を通じて、空地にハゼノキを
 植えよと命じた。
  これは、これと言った産業のなかった長崎に、積極的
 な灯油の資源の生産が生じるのを狙った。
  上杉鷹山の地・米沢藩の成功例などを伝えたのだろう。
1857年7月22日、一橋慶喜を将軍家の後継に推す。
1857年7月23日、徳川斉昭の幕政参事を免ず。
1857年、勝海舟、長崎滞在。(氷川清話)
  勝海舟、この年、教師および生徒新旧交代あり、万事
 を斡旋する。
  秋、ゴットル船航海を試み暴風雨にあう。九死に一生
 を得る。(氷川清話)
  勝海舟、咸臨丸で五島を航海し、対馬、釜山を巡視す
 る。(氷川清話)
1857年、吉田松陰(27歳)が、萩の自宅に松下村塾を開い
 た。
  多くの門下生あり。久坂玄瑞高杉晋作前原一誠
 山形有朋、伊藤博文など。
1857年8月29日、日蘭追加条約調印。
  日本の開港した場所にて、オランダ人の妻子を居住さ
 せても差しつかえなしとなった。
1857年9月17日、薩摩藩島津斉彬が、藩士に自分を写真を
 撮影をさせた。
  日本人による、日本人撮影の最初の成功例(銀板写真
  この写真機は、上野俊之丞が、オランダ船から購入し
 たもので、
  その後、カメラは、薩摩藩の手に渡っていた。
  また、軍艦を作った斉彬は、外国の軍隊が攻めて来て
 も打ち払えるようにと、
  大きな大砲をつくるための設備を、島津家の別荘の裏
 の竹やぶに作った。
  そしてまた、島津家の別邸「仙巌園」の庭の石灯籠に
 ガス灯をひき、
  これを町中にまで普及させようと考えた。
  横浜の町にガス灯がついたのは、この15年後。
  そして、チャレンジャーの斉彬は、工場で製造された
 という糸を見て、これでは手工業の日本は負けると、
  水車を動力にした糸を紡ぐ機械(紡織機)を作った。
  斉彬は、色々な開発をし、工場も作ったが、その工場
 で働く人は1200人も居た。
  その集成館には、大砲を造る反射炉や、ガラス製造所
 などがあった。
  薩英戦争で自分の力を試すが、その差は大きかった。
  力の差を悟った斉彬は、イギリスへ留学生を送った。
1857年9月21日《08/04》幕府がオランダに発注した新建造
 軍艦ヤッパン号が長崎に入港。のちの咸臨丸
  艦長カッテンディケ海軍大尉を隊長とする第2次海軍
 伝習所教官隊一行の37人が乗船した。
 オランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メーデルフ
 ォールト(28)や、オランダ海軍機関将校のヘンドリッ
 ク・ハルデスの姿もあった。
  そして、新たに伝習生として松本良順らが入所し、第
 2次の伝習が始まった。
  第1次の教官隊と交替した。
   陸上や海上での教育のほか、ポンペにより西洋医学
 の講義もなされた。
1857年9月21日《08/04》露使節プチャーチンが来航した。
   9月25日《08/08》退去した。
  10月11日《08/24》再来した。
  10月24日《09/07》日露追加条約を長崎で調印。長崎、
 箱館で通商許可
  10月27日《09/10》プチャーチンが退去した。
1857年9月26日、西役所で、ボンベによる西洋医学の講義が
 始まった。
  後に、伝習生が増えて、高島秋帆の邸内に移った(11
 月12日、大村町医学伝習所と呼ばれた)
  講義内容は、物理学、化学、包帯学、解剖学、組織学、
 生理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、 眼科学
  いつの時代も、優秀な者が、頑張って世の中を支えな
 ければならない。
  「頑張るな」と叫ぶ、キリスト教の運動は間違ってい
 る。
  優秀な方たちの頑張りの中に、その努力の結果の恩恵
 を受けている事に感謝しなければならない。
  特に、ノーベル賞受賞者をはじめとする、尖端を切り
 開いている方々の努力・頑張りに感謝しなければならな
 い。
1857年10月7日、ハリス、江戸出府の為め下田発
1857年10月、ハリス、幕府に通商開始の必要を説く。
1857年、この頃、竜馬、北辰一刀流の最高位である大目録
 皆伝を得、千葉貞吉道場の塾頭になる。
1857年10月3日、江戸鍛冶橋の土佐藩邸に、諸流選り抜きの
 剣客104名が集まり、覇を競った。
  これは、寛永御前試合いらい200年このかた、江戸では
 諸流の剣術試合は絶えて無かった。
  土佐藩主・山内容堂の肝いりで行なわれた安政諸流試
 合だった。
  竜馬は、斉藤道場の島田逸作を破った。
1857年10月12日、伊予・安芸で地震芸予地震
1857年10月16日《8/29》日蘭追加条約を、長崎で調印した。
  事実上、初の通商条約となった。
  これ以後の列強の要求に対する基本の条約となった。
1857年10月頃、この頃の出島には、オランダ人のために、
  色々な家が建ってにぎやかになる。
  また、庭もなくなり、日本人の出入りも自由になった。
1857年10月14日、ハリス、将軍との会見が叶い、江戸に入
 った。
1857年10月21日、米国総領事・タウンセンド・ハリスが、江
 戸城に入り、将軍・徳川家定に謁見し、国書を呈した。
1857年10月26日、ハリスが、老中の堀田正睦を訪ね、会見し、
 日米通商の急務を論じた。
1857年10月25日、第14代将軍が就任し、名を「家茂」に改
 めた。
  徳川慶喜(20歳)は将軍になれず。
  慶喜は、将軍・家定の継嗣候補に推されたが、井伊直
 弼の大老就任で、井伊の推す紀州藩主・慶福(よしとみ)
 が14代将軍(家茂)に決定した。
1857年11月、幕府は、アメリカ人・ハリスの強談に屈し、
  この時から、通商条約の逐条協議を開始し、遂に、こ
 の正月12日、全部議定を終わった。
1857年11月12日、長崎に天然痘が蔓延し始めた。
  大村町医学伝習所で、ボンベが公開の種痘を行なった。
  また、後に、ボンベは、バタビア政庁を通じて痘苗を
 入手した。
  以後、日本人に種痘を行なって行き、天然痘の惨禍か
 ら救った。
1857年11月26日《10/10》幕府が、浦上村淵字飽の浦の9040
 坪の地に、
  「徳川幕府 長崎溶鉄所」の建設に着手し、起工した。
  この製鉄所の建設は、世界と肩を並べる行動だった。
  いずれ自前の船を建造するのが目標だった。
  総指揮は、9月21日《08/04》に来日した海軍伝習所教
 官の機関将校・ハルデスだった。
  煉瓦焼職人がいなかったために、この工場建設用の赤
 煉瓦を、長崎の瓦屋に焼かせた。
  また、ドンケルスクロクという潜水器(ケーソン、重
 さ4.5トン)で、台船に吊下げられ、その中にダイバーが
 入り、上部の通気孔からポンプで空気を送り、上部のガ
 ラス製円窓から採光し、
  ダイバーが膝のあたりまで水に浸かりながら海底の様
 子を調査したりして建設した(しっかり基礎を着底させ
 たかったのだろう)。
  竣工は、文久元年3月25日、落成28日。
1857年11月28日、毛利慶親、外交意見を呈す
1857年12月2日、老中・堀田正睦が、米国領事ハリスを招き
 両国の交易及び公使の江戸駐在を許した。
1857年12月3日、井上清直・岩瀬忠震の両人が、対米交渉の全
 権委員に任命された。
1857年12月12日、幕府が、米国総領事のタウセンド・ハリ
 スの意見書を各大名に示し評議した。
1857年12月20日吉田松陰が、松下村塾を引き継いだ。
1857年12月25日、薩摩藩主・島津斉彬が、通商条約と将軍継
 嗣問題について、幕府に上書した。
1857年12月25日、日米通商条約の草案成る。
1857年、長崎奉行所が、横文諸書を蘭製鉛活字で印刷した。
1857年、凶作、米価騰貴。農民騒動頻発。
1857年、日本で初めて電信機の試作に成功した。
1857年、大奥の女性方の倹約(勝海舟の述懐)
  倹約、倹約とやかましくいう事は俺は大嫌いだ。
  幕府の末でも、あまり倹約・倹約というものだから、
 大奥では、毎日、箒(ほうき)が折れる、茶碗が割れる、
 布団が破れる、それは実に乱暴ばかりして係の役人に当
 たった。
  いつか細工物をなさると言うので、役人に布の注文が
 あったら、役人が寄せ切れか、何かを買ってあげたそう
 だ。
  すると皆が怒って、「こんな粗末な物を持ってくると
 は人を馬鹿にしている。こんなものが何になるか」と言
 って、大騒ぎになった。
  そこで役人は真っ青な顔をして、俺のところへ相談に
 来たから、俺はひどく叱って、直ぐ呉服屋に紅白の縮緬
 (ちりめん)十疋(ひき)ほど持って来させて、俺が自
 分でこれを抱えて大奥へ行って、「あなた方には実にお
 気の毒です。小役人という者は仕方がありません。あれ
 は今日限り免職に致しますから、どうぞご勘弁なさって、
 これをお用い下さい。お倉にはまだ何反でもありますか
 ら、御入用の時は何時でもそう仰せて下さい。あなた方
 のお世話は、今日から私が致します」と言った。
  ところがみんな顔を見合わせて、「こんな結構なもの
 はもったいない。またこんなにたくさん入りませぬ。役
 人を免職にするのもどうかよして下さい」と、今度は向
 こうから頼んで出た。
  それからというものは、乱暴がふっとやんで、大そう
 倹約になったよ。
  それで俺はたびたび大奥へ行って、「あなた方はなぜ
 そんなケチな事をなさいますか。私は御馳走が戴きとう
 ございます」という風に俺の方から催促するのだ。
  天璋院(てんしょういん)様(13代将軍・家定夫人)
 も一つ飯台(はんだい)で大勢の女中と一緒におあがん
 なさっていたが、後におれなども同じ部屋で御馳走にな
 ることもあった。
  すると酒でも三升徳利か何かに入れて、ああいうふう
 な処へ置いて、少しずつ出してお飲みになるから、「そ
 れは何というけち臭いことです。
  三つ割でもお取り寄せなさるが宜しい」と言って、俺
 が自分で立って行って注文するのさ。
  そうすると、お付きのものは、「勝様は気が大きい、
 気が大きい」と言って驚くし、天璋院様でも、やはり三
 升徳利の方がうまいと仰せられたそうだ。
  それからは、お菓子などでも箱を一々開けて紙に包ん
 で天井へ吊しておくと良いというような風に、万事倹約
 主義になって、大奥がむつかしいなどという事は決して
 なくなったよ。(氷川清話)
1857年、イギリスが、インドを直轄植民地化した。
  インド大反乱セポイの反乱(1857年〜1859年)に起
 こった。
  イギリス支配に対する反乱。
  1757年の小プラッシーの戦い以後1世紀間のイギリス支
 配に対する不満の大規模な爆発であると同時に、
  その後の民族運動の起点ともなった。
  反乱に、最初に立ち上がったのが東インド会社の傭兵
 だった。
  この傭兵によってセポイの反乱と言われた。
  反乱を鎮圧したイギリスは、反乱軍に擁立されたムガ
 ル皇帝を廃し、インドを東インド会社の植民地から直轄
 植民地に改めた。
19世紀後半、セポイのインド兵の反乱に至るまでのイギリ
 ス人社会は傲慢(ごうまん)だった。
  その、イギリスの傲慢な思い上がりのインド統治の組
 織、官僚機構は「鋼鉄の枠」と呼ばれた。
  イギリス人の総督ウェルズは、「インドの人々に対し
 て嫌悪感しか持たなかった」。
  また、人種的優越感を一つの支柱とする帝国主義政策
 を行なった。
  イギリス人官吏や軍人は、世界に比類ない高給を得た。
  各地に自分たちだけの特別住区や要塞を築いて、家族
 を隔離して守った。
  勤務後は、自分たちの「文明社会」に戻り、インド人
 の家族と往来するなど、およびもつかなかった。
  家族も、インドの方々を蔑(さげす)み毛嫌いした。
  また、キリスト教宣教師たちは、烈しくヒンドゥー教
 を批判し、攻撃した。
  宣教師は、インドの習慣などを封建的因習と蔑み、ヒ
 ンドゥー教の教義を迷信と蔑み、キリスト教の宗教的・
 道徳的優越性をひたすら声高に一方的に説き、ヒンドゥ
 ー教を露骨になじった。
  「あなたたちの神は、悪魔です」と、また、「悪魔以
 外の何者でもなく、偶像崇拝の極悪を証(あか)される
 ために、永遠の炎に焼かれ、地獄に落ちてゆくのです」
 となじった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive