(増補版)166D1/3:気になった事柄を集めた年表(1738年〜1740年)

題:(増補版)166D1/3:気になった事柄を集めた年表(1738年〜1740年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1739年1月、但馬(たじま、兵庫県の北部)の百姓一揆
  また、1738年の長雨によって鳥取藩内も凶作となり、
 飢饉も発生した。
  しかし、藩は、救済策を施すどころか増税を課し、年
 貢を厳しく取り立てた。
  この事から、1739年2月には、因幡(いんば、鳥取県
 部)から始まり、
  後に、伯耆(ほうき、鳥取県の中西部)まで広がると
 いう、鳥取藩政史上最大の惣百姓一揆(元文一揆、勘右
 衛門騒動)が起こった。
  一揆の参加者は、5万人に上ったと言われ、当時の鳥取
 藩の人口は約30万人なので、実に、総人口の6分の1が
 参加した。
1739年6月、ロシア船出没
  陸奥牡鹿半島)・安房(房総半島)・伊豆下田など
 の沿海に、ロシア船が出没した。
  アメリカの黒船の来航(1853年)に先立つこと114年で
 あった。
  幕府は、ロシア船の去った後、現地住民が船員から入
 手した銀貨・紙札(トランプのカード)を、長崎の出島
 のオランダ商館長に照会し、
  ロシアのものであることを確認した。
  これが、幕府のロシア確認の初の事例となった。
  尚、住民は、銀貨と野菜や魚、煙草などと交換したの
 だった。
  ロシアの日本への艦隊の日誌によると、
  シュパンベルグ船隊の航海日誌
 「1739年7月24日、日本の陸地を発見、
  松前島で多くの日本人に出会うも、乗組員は疲労し、
 病人20人余発生で帰途に着く」とある。
  ワルトン中尉の航海日誌
 「1739年6月19日、18人乗り小舟が接近、カジミロフ航海
 士と、チェルカシェニン給食員と、兵6人で上陸、飲料
 水1樽半分を持ち帰り、酒食で歓待されたと報告、
  150艘以上もの小舟が取巻いたので、出帆して帰路に着
 く」とある。また、
 「1739年6月22日、37度30分で、海岸の沖合に投錨、
  岸から日本人が、小船で来船、物々交換で交流
  10〜12人乗りの小船79艘が、船を取巻いたので、上陸
 は中止して帰路に着く」とある。また、
 「1739年6月23日、北緯33度28分付近で、小島に上陸、薬
 学生が薬草を採取」とある。
  ロシア艦隊は、この後、紀伊半島の潮岬付近まで行っ
 ている。
  日本側の資料として、「元文世説雑録」がある。
1739年、人事:青木昆陽を、幕府が登用。
  野呂元丈とともに蘭学研究などにあたる。
1739年、イギリスとスペインとの間で「ジェンキンスの耳
 の戦争」が始まる。
  海上権争覇(そうは、覇権を争うこと)の戦争。
  イギリスの船長のジェンキンスが、耳を切り落とされ
 たのが名の由来。
  オーストリア継承戦争へも拡大して行く、
 そして、卑劣な事に、ヨーロッパ中が関わって、大戦争
 へと発展して行く。
  戦争が複数へと拡大したこれ等の戦争は、1748年のア
 ーヘンの和約まで続く(9年間)、
  そして、それでもおさまらず、1756年からは、七年戦
 争へと続いて行く。
  日本は江戸時代、本当に平和な時代が続いている。戦
 争一つ無し。天候の関係で一揆はあったが・・、
  戦争のデパートと言ってもよいヨーロッパには、「第
 2次百年戦争」という戦争もやっている。
  1689年〜1815年の間、ヨーロッパ内の国境紛争や、王
 位継承がからみ、
  主に、北アメリカ大陸を舞台として、アフリカや南ア
 ジアも含む、海外植民地の争奪戦。
  イギリスとフランスの間て繰り広げられた戦争もある。
1739年、ナーディル・シャーが、デリー略奪(ムガル帝国
 衰退へ)
  ナーディル・シャーは、イラン(ペルシャ)のアフシ
 ャール朝の初代シャー(王の称号)。
  在位:1736年〜1747年と、きわめて短い期間だが、ア
 ジア大陸最西部のアナトリアから、イラン、中央アジア
 インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れた。
1740年11月、天文学者・西川正休(にしかわまさよし)が
 幕府に召し抱えられた。
  幕府に出仕して寺社奉行配下に属し、後に、江戸城
 上御苑において、暦術測量御用をつとめる。
  長崎の文化人として著名な西川如見の子で、西洋天文
 学を、我が国に広めるのに、大いに貢献した。
1740年、一橋家(ひとつばしけ)の創始(1741年説あり)
  政宗の子・宗尹(むねただ、家斉の祖父)、一橋(御
 三卿の一つ)を創始した。
  1735年に、宗尹は徳川の家号を許され、
  そして、1740年に、江戸城一橋門内に、屋敷を与えら
 れた。
  御三家に次いで、田安、清水両家と共に、高い家柄と
 なった。
1740年、科学:クリスタン(フランス)が、氷点0の温度
 目盛りを用いた(現在の℃と同じ)
1740年10月、オーストリア継承戦争始まる(〜1748年)
  これも、イギリスが絡(から)んだ戦争。
  1740年に、神聖ローマ帝国の皇帝が死に、イギリスや
 オランダやドイツ諸侯などの承認を得た勅書に従い、皇
 帝の長女マリア・テレジアがハプスブルグ領を継承した。
  そのオーストリア王女マリア・テレジアの即位に反対
 するフランス、スペイン、ザクセンなどが対抗した。
  古い恨みや怨念も噴出するドロドロした戦争ばかりの
 地であった。
  欲と怨念の地獄界の世界。植民地の色々の事も絡んだ。
  苦戦のマリア・テレジアは、イギリスの助けで戦いに
 優位に立つ。
  和平しても、その後に、また、各地で戦争が続くという
 世界だった。
1740年、シレジア戦争が起きた。
  シュレージエン戦争ともいう。
  第一次シュレージエン戦争、第二次とつづき、七年戦
 争(第三次ともいう)と続く・・、
  オーストリア継承戦争七年戦争の内、オーストリア
 と、プロイセンがシュレージエン地方の帰属を巡って戦
 った戦争をいう。
  講和をしたり、戦ったりというのを繰り返した。
  オーストリアはシュレージエンを取られて、敗北を認
 めたにもかかわらず、また、奪還を目指して戦うという
 領有を巡ってのあくなき戦いが続いているヨーロッパだ
 った。
1740年、清朝の法典の「大清律令」が成る。
1740年、湖南で苗族(ミャオ族)の反乱(1735年〜1738年
 の説あり)
  苗族は、三次に渡って反乱を起こしている。
  三度目の反乱(1854年1873年)は、最後で、大規模
 な反乱で、苗族の人口の3分の2の方々は亡くなったとい
 う。
  生き残ったのは、3分の1だったという。
  漢族の商人が現地に入って、林業などを中心にして商
 業網を確立して、苗族の方々を抑圧したという。
  焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返す人
 々や、棚田を巧妙に作って水稲稲作を行なって定着した
 人々が平和に暮らして居たが・・反乱を起こすに至った。、
  苗族(ミャオ族)は、中国国内に多く居住する民族集
 団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー
 ラオスベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。今現在
 の総人口は1100万人となっている。
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