(増補版)168D1/3:気になった事柄を集めた年表(1742年〜1744年)

題:(増補版)168D1/3:気になった事柄を集めた年表(1742年〜1744年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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18世紀、卑劣な、細菌などによる殲滅
  この頃の、18世紀のカナダでは、イギリスやフランス
 が、先住民のインディアンの方々を、
  先にカナダに来て、既に、住んでいた方々を、
  安上がりに殲滅する方法だとして、細菌などによる殲
 滅行為を行った。
  はしかの患者の衣服を買い集めたり、その他の病気の
 菌が付着したものなどを(毛布など)、
  インディアンの方々へ配った。
  この様な悪行為を行った記録が、残されている。
  その複数の部族の方々は、現在では、完全に絶滅させ
 られて、
  まったく『痕跡すら留めていない状態』となっている。
  エール大学のディビット・オブライエン教授は、
  「人類史上、最大のもっとも忌(い)まわしい大量殺
 戮だ」と言って居られる。
  キリスト教の『有色人種蔑視』に洗脳された者たちの
 行為である。
  キリスト教聖職者が『人間ではない』と言った記録も
 あるが・・、
  この宗教にマインド・コントロールされた者たちが、
 この言葉にならない程の極悪な行為を為させた。
1743年、農政:サツマイモの栽培を、徳川吉宗がすすめた。
1743年、清の貿易船数を減じた。
1743年、貿易:海外貿易による致富を説いた(本多利明)
  本多利明(ほんだとしあき、数学者、経済思想家)(
 1743年〜1821年)は、
  「西域物語」「経世秘策」を著して、
  積極的な海外貿易による致富を説いた。
  越後の人。
  江戸に出て、数学・天文学蘭学を学び、
  23歳の時に算学、天文の私塾を開いた。
  重商主義的立場から、貿易振興による富国策を説いた。
  「経世秘策(けいせいひさく)」は:
  1801年に成り、
  開国交易・属島開発による富国政策を論じた。
  国を経営し、
  そして、富ますのが良いのだ、
  その秘策となる政策は・・を、論じた。
  この書は、著者の思想、政策が体系的に示されていて、
 著者の代表作の一つ。
  富国策の基本には、
  爆薬、国土開発の手段や、金銀銅鉄鉛山の開発や、
  船舶(海外貿易用の大きなもので、官営のものを)や、
  属島(北海道や樺太を主にして、科学的な開発)が急
 務だと説いた。
  「西域物語(せいいきものがたり)」は:
  当時、良く知られていなかった西洋を説き、
  激動していた当時の内外情勢をよく把握して説明して
 おり、
  それを反映した現在起きている事象の記述は、具体的
 であった。
  開国の思想を説いた。
  また、物理学の大切さを説き、
  学問の基本だと強調した。
  そして、天文、地理、渡海の学をもっと極めよとした。
  飢饉救済論にも触れ、
  物価の操作の有害も述べ、
  官営貿易の実施を説いた。
  北方王国の建設なども説いた。
  また、アルファベットの導入なども説き、カムチャッ 
 カ半島への遷都も説いた。
  因みに、ドナルド・キーン修士論文は、本多利明に
 ついてのもの。
1743年、トルコ・イラン戦争が起きた(〜1746年)
  対オスマン・トルコとの戦いを再開するが、目立った
 戦果はあがらなかった。
  ナーディル・シャー(イランのシャー)は、ナジャフ
 (イラク中南部の都市)を割譲させたのみであった。
1744年、日本の総人口、26,153,000人
1744年10月、甘藷の栽培を奨励する。
1744年、科学:天文学
  徳川吉宗が、神田佐久間町天文台を造った。
  数年後、西川如見の息子・正休が天体観測をする。
  因みに、如見は、1724年に没している。
  正休は、如見の次男で、長崎に生まれ、父に従って家
 学を受け、その学に精通した。
  才長けていて、吉宗に天学の才を認められ、幕府御家
 人に取り立てられ、暦術測量御用を勤めた。
  1747年に、天文方に任ぜられた。
1744年、出版:御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゅ
 うせい)が成った。
  吉宗が、評定所に命じて集成させた法令集
  1615年〜1743年までの御触書を集めたもの。
1744年、ジョージ王戦争(英仏植民地戦争、〜1748年)
  オーストリア継承戦争に対する、北アメリカ東部の新
 大陸における植民地争奪戦争。
  ヨーロッパで、マリア・テレジアが、君主の座を継承
 したために起きた戦争が、北米大陸に波及して戦った。
  イギリス側のニューイングランド知事が組織したカナ
 ダ遠征軍が、
  セントローレンス湾の岬にあったフランス側の要塞を
 包囲し、6週間後に陥落させた。
  インディアンの方々も戦争に巻き込まれ、犠牲者の出
 る迷惑な戦争の波及事態だった。
1744年、「続大典」成る。
  「経国大典」を基本として、増補などを行なったもの。
  統治の骨格を形成するものとして、重要な位置を占め
 ている。
  「経国大典」は、朝鮮の李朝基本法典、1484年に完
 成し、翌年、施行されていた。
1744年、第一次カルナータカ戦争(〜1748年)
  カルナータ戦争は、1744年〜1763年の間に、イギリス
 とフランスの間で、三次に渡って戦われた戦争。
  戦地は、インドのカルナータカ地方で、迷惑な話だっ
 た。
  イギリスは、フランスから南インドの派遣を奪った。
  フランスは、インドからインドシナへ重点を移した。
  いずれにしても、他人の土地で、好き勝手をやってい
 たイギリスとフランスだった。
  植民地貿易で、えげつない利益を上げて、それをさら
 に増やしたいと、
  今度は武力を行使して、他人の土地で戦争をするとい
 う暴力的な両国だった。
  また、イギリスとフランスのヨーロッパの戦争が、イ
 ンドに飛び火するという形だった。
  スペインの王位継承を端緒にして、イギリスとフラン
 スが戦争をするが、
  1744年以来、インドへ飛び火して、それが、インドの
 欲の争奪戦争へとなって行った。
  貿易の目的で始まった東インド会社から、国と国の欲
 の塊(かたまり)の奪い合い戦争になった。卑劣な事だ。
  1744年、インドにおける、フランスのえげつない植民
 地収奪活動は、
  同じくえげつない収奪活動をしているイギリスとぶつ
 かるようになっていたのだった。
  イギリスとフランスの両国は、スペイン王位相続問題
 でヨーロッパで戦争を始め、
  それが、インドへもおよび、植民地覇権争奪も加わっ
 て、インドも戦争の舞台となってしまった。
  金が欲しい、旨いものが欲しいの餓鬼の争いであった。
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