(増補版)256D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年9月〜1862年12月)

題:(増補版)256D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年9月〜1862年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1862年4月16日、薩摩藩・藩主の島津久光が、公武合体運動
 推進のため兵を率(ひき)いて京に入った。
  薩摩の島津久光が大軍をひきいて京に入り、天子を擁
 して幕府の政道を正すという、幕末、この情報ほど天下
 の志士を興奮させたものはなかった(竜馬がゆく・2)
1862年7月2日、西郷隆盛が、また、島流しになる。
  西郷は、島津斉彬の死の後も、その斉彬の意思を継ぐ
 決意をした。
  西郷は、孝明天皇の内勅を、水戸藩尾張藩に渡す行
 動などをしたり(これは成功しなかったが・・)、
  井伊直弼の排斥などに関わったり、
  また、上京して諸志士らと挙兵を図ったりした。
  その為、幕府の捕吏の追求が厳しなった。
  西郷は、そのため、鹿児島へ帰った。
  捕吏の目を誤魔化すため藩命で、改名したりもした。
  そして、藩は、幕府の目から西郷を隠すため、奄美
 島に潜居させることにした。
  そして、藩主・久光は、公武合体の周旋に乗り出す決
 意をし、西郷が島で生活している間に、久光は、上京を
 計画する。
  薩摩の軍事力を背景に、上京して、幕府に対する発言
 力を高めようと思った。
  そして、この計画実行ためには、西郷隆盛の力が必要
 であると、大久保たちは久光に説いた。
  西郷が召還される事となった。
  仲間の努力の甲斐あって、西郷は、3年ぶりに薩摩藩
 戻った、1862年3月12日に、鹿児島に着いた。
  西郷は、改名もして、久光の上京計画の実行役に就い
 た。
  そして、島津久光が、上京計画について、西郷に意見
 を求めた時、
  西郷は、大久保たちが耳を疑うような進言を口にした。
  久光が無官で、斉彬ほど人望も無いと言った。
  「官位も人脈もない久光公が、京へ行っても何もでき
 ません、計画を延期すべきと思う」・・と、
  また、
  「久光公は地ゴロ(田舎者)なので、周旋は無理だ」
 と言った。
  久光は怒り、不興を買った。
  西郷は、同行を断わった。
  しかし、大久保の説得や仲立ち、仲間たちの取り繕い
 で、処罰は逃れ、上京を承諾する事になる。
  しかし、西郷は、再び、上京中に久光の命令に背くこ
 とをする。
  下関で合流するという計画だったが、西郷は、下関で
 京大阪の緊迫した情勢(京都で薩摩藩士が反乱を企てて
 いるということ)を聞く、
  西郷は、久光上洛までに解決をしようと、
  上洛の成功のためにその行動が必要だと、1962年4月20
 日に、大阪へ向けて出航した。
  西郷らは、4月29日に、伏見に着いた、
  そして、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを
 止めようと試みた。
  しかし、1862年5月4日に、姫路に着いた島津久光は、
 西郷が待機命令を破った再三の背信行為のことや、激派
 志士を扇動していると報告を受け、激怒した。
  久光は、西郷らの捕縛を命じた。
  5月8日に、西郷らは捕縛され、鹿児島へ護送された。
  久光は、浪士鎮撫の朝旨を受け、伏見の寺田屋に集結
 している真木保臣(和泉)・有馬新七らの激派浪士を鎮
 撫するため、5月21日に、久光臣下を寺田屋へ派遣した。
  派遣された奈良原らは、激派浪士を説得したが聞かれ
 なかったため、やむなく浪士ら8名を上意討ちとした(寺
 田屋騒動)。
  そして、西郷らの、護送され山川港で待命中の者たち
 は、1862年7月2日に、徳之島(沖永良部島説あり)など
 の遠島にされた。
  2回目となった今度の西郷の島流しは、厳しい牢獄生活
 となった。
  1回目と違って罪人として牢獄に入れられた。
  牢の中で、西郷は、衰弱し、やせ細って行った。
1862年5月27日、高杉晋作らが上海の実情を見る(この日
 に、長崎を出航した)、
  4か月後の、9月13日に、長崎に帰着し、そして、軍艦
 購入へ
  藩命によって、晋作は、五代友厚らとともに、幕府使
 節随行員として、長崎から、中国の上海へ渡航した。
  清が、欧米の植民地となりつつある実情をつぶさに見
 た。
  上海は、イギリスやフランスの属領のようになってお
 り、主権者であるはずの清国の人々は貧乏で、みすぼら
 しく、ひたすら外国人に使役されていた。
  白人が通りかかると、こそこそとよけて道を譲る。
  そして、警察権も奪われ、行政権も奪われた状況を見
 た。
  奴隷のように扱われている現地の人々を見た。
  そして、晋作は、また、イギリス兵が守る砲台を見て、
 アームストロング砲の進んだ兵器を実地に見たのだった。
  まだ、日本と大きく違うこうした状況を見て衝撃を受
 けた。
  清国は、当時、民衆が蜂起した「太平天国の乱(1851
 年〜1864年)」(長髪賊とも呼ばれた)の最中で、
  1851年には、「太平天国」の国号で独立国家を樹立し、
  1853年には、南京が陥落させられていたが、
  当初、英仏は、キリスト教徒ともいわれる長髪族を利
 用して、漁夫の利を得ていた。
  そして、晋作は、この様な上海で、数多くの蒸気船を
 見た。
  晋作は、これまでの風と潮によって航行を制約される
 帆船では、到底、外国に対抗できないと悟った。
  また、晋作は、同行した薩摩藩佐賀藩の二人の貿易
 調査をしている事に感銘(かんめい、忘れられないほど
 深く感動すること)し、
  また、蒸気船購入などの行動に大いに刺激を受けた。
  五代は、この渡航時に、上海でドイツ船を購入した。
  五代は、まだ、ドイツは、日本と国交がないため、一
 旦、香港に回航し、イギリス船籍に変更した上で、1863
 年4月に、薩摩船籍(青鷹丸)としている。
  (1962年8月から、幕府は、海軍興起の奨励で、各藩が
 自由に艦船を購入をすることを認めている)
  さらに、翌年・1863年に、長崎で、アメリカ船を購入
 し(白鳳丸)蒸気船を3隻持つまでとなっている。
  薩摩藩は、貿易(密貿易)をして、利益も上げていた。
  晋作は、薩摩藩の外国との取引の習熟さにも感銘を受
 け、商売の仕方も実地に学んだ。
  長州藩の遅れも痛く知った。
  晋作は、どうしても蒸気船を購入しなければならぬと
 思い詰め、長崎に着くと、独断で、3万7千ドルで売り
 に出ていたオランダ船の購入の契約をしてしまう。
  驚いた藩政府は、そんな大金はとても支払えないとし
 て、購入を不許可とするが、
  高杉の報告も受け、藩は、長州藩での蒸気船購入の支
 出と決まった。
  そして、横浜に、ジャージンマジソン商会が所有して
 いる2隻の蒸気船が入港し、売りに出されていた。
  1隻は、薩摩藩が買い(永平丸)、もう1隻は、長州藩
 が買った(壬戌丸)。
  これが、初めての長州藩の蒸気船となった。
  高杉は、長崎で注文した船も、正式に買うつもりであ
 ったが、こちらは財政上の問題で中止となった。
  高杉は、「敵を防ぐには、軍艦や大砲が必要」・・と、
 説くが、聞き入れられず、売買は破約となった。
  晋作は、1865年に、伊藤博文と洋行という名目で、2
 度目の長崎行きをして、グラバーに会った。
  そして、グラバーに説得されて洋行を断念し、軍備の
 強化の相談をした(グラバーにとっては商売)
  そして、また、高杉は、1866年に、3度目の長崎行き
 をして、薩長同盟の動きをする。
  1866年3月7日(慶応2年1月21日)(22日説あり)高杉
 は、桂小五郎井上聞多伊藤俊輔らと進めていた薩長
 盟約が、
  土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎・土方久元の仲介によ
 って京都の薩摩藩邸で結ばれた。
1862年9月24日、松平容保(まつだいらかたもり、会津藩主)
 が、京都守護職に任命された。
1862年11月31日、イギリス公使館焼打事件が説得されて、
 中止とされた。
  攘夷断行を、幕府に促す勅使一行が、江戸滞在中の11
 月31日、高杉ら10余人は、横浜襲撃を計画したが、長州
 藩の説得で中止した。
  その詳細を記せば・・
  この計画は、久坂玄瑞が、協力を求めた土佐藩の武市
 半平太が、前土佐藩主の山内容堂に知らせてしまった。
  そのため、容堂公から長州藩主の世子・元徳に伝わり、
  世子と勅使の使者が、神奈川宿までやってきて、晋作
 たちに計画の中止を求めたため、この計画は頓挫した。
  しかし、その後、御楯組を組織し、勅使らが江戸を離
 れた後の1863年1月31日に、実行された。
  浪士、品川御殿山公使館の門衛を殺害す(氷川清話)
  幕府は、東禅寺事件などの対策の為、また、諸外国の
 要求を受け入れて、各国公使館を品川御殿山の景勝地
 移す工事を進めていた。
  しかし、ここのイギリス公使館が焼き打ちにあう。
  何故、イギリスだけが?
  当時の志士たちも知っていたのだ。
  イギリス公使館だけが、火薬を仕掛けられて全焼して
 しまった。
1862年12月、勅使・三条中納言、副使・姉小路少将、東下、
 外交期限を促去る(氷川清話)
  『高杉晋作顕彰碑』の文に以下の記述がある(抜書)
  やがて勅使の三条中納言姉小路少将が江戸を訪れ、
 幕府に攘夷の勅命を伝えた。
  幕府の態度は依然優柔不断で、なかなか攘夷を決断す
 ることができない。
  君(晋作)は同志らと謀って外国人を襲撃し事端を開
 こうとした。
  世子は引き止めたが、君たちは遂に御殿山の外国公使
 館に対し焼き打ちを行った。
  その後、世子(君主の世継)は君を京都に呼び寄せ、
 君は身分を隠すため剃髪し、その名を東行と号した。
1862年12月、軍役兵賦令を出す(氷川清話)
  500石以上の旗本,御家人に、領内から石高に応じて
 人数を出させ歩兵組として編成した。
1862年12月、勝海舟、小笠原閣老大阪出張につき順動丸に
 乗組を命ぜられ、且つ、摂海警護の事を報ずべきの命あ
 り(氷川清話)
  文中の小笠原閣老は、小笠原長行で(おがさわらなが
 みち、肥前国唐津藩の世嗣で、幕府老中になった)
 (1822年〜1891年)
  1862年に、世嗣の身分のまま、若年寄老中格と出世
 し、老中となった。
  生麦事件の時には、事態を、早急に終結させるために、
 1863年6月24日に、幕府に無断で賠償金10万ポンドを、イ
 ギリスに支払った。
  続いて太兵を率いて上京の途に就いた。
1862年12月、勝海舟、賜暇金5枚、時服2、及び羽織を賜う
 (氷川清話)
1862年12月、勝海舟、海軍所を兵庫、対馬に設け、その一
 を朝鮮に置き、終に支那に及ぼし、三国合従すの策を建
 白(氷川清話)
  勝海舟のこの考えは、日中韓の三国が合従して、欧米
 列強の帝国主義的搾取と金儲け主義を跳ね返そうという
 大東亜共栄圏的発想であった。
1862年12月、それまでの竜馬、
  竜馬は絶望し、武市半平太と決別し、脱盟し、やがて
 脱藩を敢行した。
  既存の勤王・佐幕の主義や、硬直し腐った幕府や藩の
 組織に関わりあっては、異質の価値観をもってせまる米
 国や西欧列強に対抗できないと竜馬は思った。
  自分流にやる。
  当時、全国の脱藩の士は京・大坂の尊王攘夷の志士に
 参加し、テロ行動を行なっていたが、
  竜馬は、下関を経て、薩摩から長崎へ回った。
  商売をして金を設け、海軍を作る。
  独自のプランがあった。
  一脱藩浪人に、すぐさまそれを実行に移す力はない。
  九州巡歴は、下見に終わった。
  やがて、竜馬は、大阪を経て江戸に出る。
  まず、訪ねたのが勝海舟である。
  海舟は、3年前に咸臨丸のキャプテンとして、米国に
 渡っている。
  その説は、開国、海軍立国である。
  「これからは、幕府や藩にこだわらず、国家百年の計
 をもって海軍を創設すべき」と・・、
1862年12月、坂本龍馬が、勝海舟の門に入る
  坂本龍馬(27歳)が脱藩して、江戸で勝海舟の門に入
 った。
  勝海舟の所に、土佐の士、坂本龍馬ほか九名門下に入
 る(氷川清話)
  「これからは、幕府や藩にこだわらず、国家百年の計
 をもって海軍を創設すべき」と、幕臣の海舟は、幕府批
 判もやり、海軍充実の必要を竜馬に説いた。
  当時、幕府は、咸臨丸ほか4隻の軍艦しか所有していな
 かった。
  海舟は、西欧の海軍を参考に、艦船百数十隻からなる
 大連合艦隊を構想し、幕閣に提案したばかりであった。
  竜馬は感動し、その場で弟子入りをした。
  そして・・、
  幕府は、海舟の建議した海軍操練所の設置を許した。
  海舟は、幕府に出費をさせるが、運営は自分の理念に
 基づいてやるつもりであった。
  脱藩の竜馬を塾頭格に据え、幕臣に限らず、諸藩から
 の有志を入所させた。
  浪人や士分以外の者も拒まない。
  竜馬は、小龍の薫陶を受けた土佐の同志を呼び寄せた。
1862年、日本初の「英和対訳袖珍辞書(えいわたいやくし
 ゅうちんじしょ)」が刊行された。
  編者は、通詞出身の堀達之助。
  幕府の命により、堀達之助が主任となって編纂し、こ
 の年・1862年に、洋書調所から刊行された。
1862年1月、官板バタヒヤ新聞(かんぱんばたびやしんぶん)
  幕末に発行された邦訳新聞。
  日本における新聞出版の初め。
  長崎のオランダ商館は、幕初以来,毎年オランダ商船
 のもたらす海外情報を江戸幕府に献上していた。
 これを〈オランダ風説書〉といったが、
  安政末年に至り、ジャカルタのオランダ総督府機関紙「
 ヤファンシェ・クーラント」が、代わって献上されるよ
 うになり、
  蕃書調所が翻訳して幕政当局に提出した。
  1862年(文久2)1月、幕府は、御用書肆であった本所竪
 川三之橋の老皀(ろうそう)館に、これを「官板バタヒ
 ヤ新聞」と題して出版させた。
1862年アメリカ・インディアンの方々の蜂起
  アメリカ・インディアンの方々は、アメリカ合衆国
 度重なる嘘や裏切りに、10年の間の積もり積もった怨念
 が爆発して、戦いが起こされた。
  リトル・クロウに率いられたサンティー・スー族の方
 々が、1862年に、白人・アメリカ人の耕作地や商店や詰
 所、そして、砦などを襲撃した。
  恐怖に襲われた白人・アメリカ合衆国の住民たちは、
 家や収穫物など、何もかもを捨てて、逃げ出した。
  州政府は、「インディアンとの戦いは国家の戦争であ
 る」と宣言した。
  そして、中央政府に、連邦軍の出動を要請した。
  武器や戦う組織が、完全に大きく違う、すぐれている
 連邦軍に、インディアンの方々が敵(かな)う訳はなか
 った。
  アメリカ合衆国側には、インディアンの方々に対して
 「野獣と同じに取り扱うべきだ」とし、また、
 「血なまぐさい野蛮人」という記録が残されている様に、
  まったくの有色人種蔑視感によって、卑劣な戦いが行
 われた。
  その後も、その蔑視感で事態は進んだ。
  話し合いも、そして、条約などを結ぶ意思もアメリ
 合衆国には無かった。
  ただただ殺戮し、そして、捕まえた。
  1800人のスー族の方々が捕らえられ、300人を殺した、
 絞首刑にされた。
  あたかも、インディアンの方々だけが悪いという態度
 だった。
  そして、38人のインディアンの方々が、マンカトーに
 連れて行かれ、市民たちの見る中で、公開処刑をされた。
  見せしめだった。
  怒りの市民の、公衆の、うっぷん晴らし的に殺す非人
 道的な行為が、アメリカ合衆国内で行なわれた。
  アメリカ・インディアンの先住民の方々の地であった
 場所で、その持ち主の方々を無残に殺す行為が行われた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive