(増補版)197D2/3:気になった事柄を集めた年表(1804年〜1806年)

題:(増補版)197D2/3:気になった事柄を集めた年表(1804年〜1806年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1805年1月26日、ロシア船来航に備えて、幕府が、沿岸の諸
 大名へ警戒を命じた。
1805年2月、幕府が、唐物(からもの、中国、および、その
 他の外国から輸入された品物)の抜荷(ぬきに、運送中
 または保管中の荷物の一部をこっそり抜き取ること)を
 固く禁止し、不審荷物や船舶の検査を強化した。
1805年2月、伊能忠敬が、幕命によって、伊勢・紀伊・山
 陽・山陰の各地の沿岸の測量へ向かった。
1805年3月7日、幕府が、目付の遠山景晋(とおやまかげくに、
 幕臣、1764年〜1837年)を長崎に派遣し、
  前年に来航したレザノフの通商要求を、拒絶させた(
 3月19日に、レザノフは長崎を退去した)。
1805年5月9日、幕府が、銀座以外で灰吹銀や潰銀を売買す
 ること、そして、京都以外の職人が 銀箔を製造すること
 を禁止した。
  灰吹銀(はいふきぎん):銀山から山出しされ、灰吹
 法により製錬された銀地金。
1805年5月、農民に対し、武芸の稽古の禁止や、江戸町方
 火消人足の風体のまねを禁止した。
1805年6月、関東取締出役(かんとうとりしまりでやく、俗
 称:八州廻り)の職を設置する。
  関東地方(関八州)を幕領・私領(水戸藩を除く)の
 区別なく巡回し、無宿者や博徒などの横行を取締って、
 治安維持の強化する事を目的とした。
1805年、江戸が、旱魃(かんばつ)となった。
1805年9月、幕府が、女浄瑠璃(おんなじょうるり)を禁止
 した。
  女が語る浄瑠璃で、江戸中期以降は女義太夫と言った。
1805年10月、加藤千蔭(かとうちかげ、歌人国学者)が、
 「万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ、万葉集の注釈
 書)」を幕府に献上した。
  先人の説を修正したもので、入門書として広く読まれ
 た。
  稿が成るごとに本居宣長の閲を請うて、その説を取り
 入れることが少なくなかった。
  父の跡を継いで町奉行の与力も勤めていた。
1805年11月3日、米価が低落したため、幕府が町人に官金を
 貸与して米穀を買い上げさせた。
1805年、長久保赤水(ながくぼせきすい)が、「長崎紀行」
 を著した。
1805年12月2日、アウステルリッツの戦いが起きた。
  ナポレオン1世の率いるフランス軍が、ロシア軍とオー
 ストリア軍の連合軍を、アウステルリッツ(現チェコ
 で撃破した。
  この結果、第三回対仏大同盟は崩壊した。
  この日は、ナポレオン1世の皇帝戴冠1周年記念日だっ
 た。
  ロシアは自国に退き、オーストリアは、ベネチアなど
 領土割譲し(人口の7分の1)、賠償金(国庫収入の6分
 の1)を支払い、ドイツとイタリアの失った。
  この後、ロシアはフランスと和約を結ぶ(大同盟崩壊)。
1805年、ビューフォート(イギリス)が、風力階級を考案
 した。
1805年〜1811年、アメリカ合衆国に、狡猾に土地を奪われ
 て行ったアメリカ・インディアンの方々。
  この年のあいだに、ショーニー族の族長は、いくつも
 の部族を周って、土地を奪われた者たちが、誇りを再び
 取戻し、一致団結して戦おうと、説得して回った。
  また、各部族を励まして回った。
  「われわれが今、共通の敵に対して、共通の目的・我
 々の土地を取り戻すために団結しなければ、われわれの
 民族は滅亡する日は近い」・・と。
1806年1月26日、幕府が、来航するロシア船を、穏便に帰す
 すために、
  沿岸に領地を持つ諸大名・旗本に対し、事を荒立てず
 に対処するため、来着のさいの取扱令を出した。
  「文化の撫恤(ぶじゅつ)令」とか、「薪炭給与令」と
 かと称する。
  また、「薪水給与令(しんすいきょうよれい)」とも
 言う。
  撫恤(ぶじゅつ)は、「憐み、慈しむこと」の意。
  しかし、ロシアのレザノフが、1806年と、1807年に、
 日本の北方の拠点を攻撃した事件が起きたため(文化露
 寇)、
  1807年に「ロシア船打払令」が出され、わずか1年で、
 この令は撤回された。
1806年1月30日、関東郡代(かんとうぐんだい)を廃止し、
 馬喰町御用屋敷詰代官役所をおいた。
  関東郡代徳川家康の関東入封に始まり、関東地方の
 幕府領を支配するものだった(訴訟・民政・年貢徴収)。
  この年に郡代制を廃止し、馬喰町御用屋敷詰代官役所
 を置いたが、1864年に復活している。
1806年1月、山東京伝(さんとうきょうでん、偽作者、浮世
 絵師)作で、歌川豊国(うたがわとよくに、浮世絵師)
 画の、「桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼの
 ぞうし)」が刊行された。
  これは、歌舞伎などで流布していた清玄・桜姫の怪談
 的伝説をもとに、悪と美とグロテスクと怪奇を織りなし、
 中国小説の趣向などもからませた伝奇小説。
1806年2月、幕府が、米価下落対策のため、関八州陸奥
 江戸への廻米を禁止した。
1806年3月4日、江戸三大大火の一つ(丙寅の大火)
  江戸芝の車町(くるまちょう)からの出火し、西南の
 強風にあおられ、郭内の大名小路の一部、京橋、日本橋
 のほぼ全域、
  そして、神田・浅草の大半を類焼した、
  翌日昼前、早朝からの大雨でようやく鎮火した大火。
  530余町が焼け、焼失面積は、幅800メートル、長さ8
 キロメートル。死者1200人余が出た。
1806年3月、先の大火で白米が払底したため,幕府は、地方
 からの白米の買い上げを命じた。
1806年3月、幕府が、大火の被災者のために、市中の8か所
 に御救小屋を建て、設置し、炊き出しを行い、食事を給
 し、窮民に施米した。また、仮の宿も給した。
  また、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与
 えた。
  救小屋(すくいごや)は、罹災窮民の飢えを補ったり
 するため、たびたび設置された。
  また、別に、炊き出し小屋も作って助けた。
1806年5月25日、松平信明(まつだいらのぶあきら)が老中に
 再任され、首座となった。
  信明は三河吉田藩主、
  松平定信の信厚く、側用人から老中となり、寛政の改
 革に協力した。
  蝦夷地開拓を推進し、蝦夷地直轄、開発策をとった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009