(増補版)198D2/3:気になった事柄を集めた年表(1806年〜1807年)

題:(増補版)198D2/3:気になった事柄を集めた年表(1806年〜1807年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1806年7月8日、天文学者・オランダ通詞の志筑(しづきただ
 お)忠雄が没した(47歳)
1806年9月22日、米価下落のため,酒造量の制限を解除した。
1806年10月11日、幕府が、臨時支出が増大したので、3年間
 の倹約を出した。
  その間、幕府や諸大名からの貸付金を許可しないこと
 とした。
1806年10月、若年寄の松平乗保(まつだいらのりやす)が大
 坂城代になった。
  また、水野忠成(みずのただあきら)が若年寄となった。
1806年10月14日、米価の下落に対して、米を買い上げたり、
 江戸町人(豪商)に買持米を命じ、下落を買い支えた。
1806年10月、幕府が、江戸町人、およぴ、幕府領の農民に
 御用金(ごようきん)を課した。
  御用金は、幕府や諸藩が、公用遂行の資金を得るため、
 利息を付けて返済する約束で、町人や百姓に課した借用
 金。
1806年10月31日、喜多川歌麿(きたがわうたまろ、浮世絵師、
 狂歌師、1753年〜1806年)が没した。
1806年11月23日、将軍・家斉が、琉球使節を引見した。
1806年11月、江戸と大坂で、裕福な商人に、米の買い上げ
 を命じた。
1806年12月16日、「藩翰譜(はんかんぷ、歴史書)」につづ
 く、各大名の年譜「続藩翰譜」の編集が終わった。
1806年冬、「五海道其外分間延絵図」が、道中奉行所によ
 り完成した。
1806年、式亭三馬(しきていさんば、戯作者)の「雷太郎
 強悪物語(いかずちたろうごうあくものがたり)」が刊
 行された(合巻の初め)。
  殺人や強盗などの悪事を重ねる雷太郎を、被害者の家
 族らが浅草観音の導きで討ち取る仇討ち物語。
1806年、山東京伝作・歌川豊国画「昔語稲妻表紙(むかし
 かたりいなずまびょうし、読本)」が刊行された。
1806年、ロシア人フォストフとダビドフの船が、千島と樺
 太を侵寇した。
  樺太南部にある運上屋を襲撃した。
1806年、ナポレオン1世が、大陸封鎖令(たいりくふうされ
 い)を発した(イギリス封じ込めが目的)。
  フランス皇帝のナポレオン1世が、トラファルガー沖の
 海戦に敗れた報復として、ヨーロッパ大陸諸国とイギリ
 スとの通商断絶を図って、勅令を出した。
  ロシアの密貿易などを招いて失敗に終わった。
  イギリスは打撃を受けたが、フランスの私掠船(しり
 ゃくせん、ある政府から、敵対関係にある船を攻撃し、
 その船や積み荷を奪う許可を得た船)が暗躍し、
  商船は略奪され、国内では国民の暴動が発生した。
  イギリスとフランスは、お互いを果てしなく叩き合っ
 た。
1806年、神聖ローマ帝国が終焉した
  中世の西ヨーロッパのキリスト教世界は、教皇と皇帝
 という二つの中心を持つ世界であった。
  当初は、ローマ帝国の伝統とキリスト教会の権威を結
 びつけたが、次第に形骸化した。
  15世紀以降は、ハプスブルク家が、帝位を独占し、世
 襲して来た帝国だったが、この年に、
  ナポレオン勢力下のフランツ二世が、帝冠を辞退し、
 崩壊させられた。
1807年1月、曲亭馬琴(きょくていばきん)作・葛飾北斎
 (かつしかほくさい)画の「椿説弓張月(ちんせつゆみは
 りづき)」前編が刊行された。
  椿説弓張月の内容は、保元の乱に敗れた源為朝が、苦
 労を重ね、漂泊を重ね、伊豆の大島を逃れて、琉球に渡
 り、危機に立つ王女を助けて、内乱を鎮定し、その子が、
 琉球王に推挙されるという、為朝の一代記。
1807年4月、2隻のロシア船が、択捉島のナイホを襲い、番
 人を含めて5名の日本人を拉致して、部落を全滅させた。
  そして、さらに、数日後にも、他の湾の箱館奉行所
 人と、盛岡・弘前藩兵が詰めていたシャナに、ロシア船
 が来襲した。
  そして、陸戦隊を上陸させて、日本側と交戦し、
  日本側の大砲5門を捕獲して、日本側の守備兵を敗走
 させ、部落を焼き払った 。
  (この大砲のうち、2門はポルトガル製の古いもの、
 1門は日本製、他の2門は不明である)。
  その後、5月に、ロシア船は、再度、樺太のアニワ湾
 のルウタカにも来襲し、
  居合わせた日本船4隻を焼き払い、
  積荷米や、塩・魚を奪い取り、魚を入れた倉庫3棟を
 焼き払って、立ち去った。
  そして、さらに続いて、6月には、礼文島沖で松前
 商船を、
  また、利尻島に停泊中の幕府船と、松前の商船を襲っ
 た。
 また、この4月の択捉島シャナの襲撃に際して、ロシア
 側は、拉致してあった番人に、
  今回の敵対行動をとった理由を明記した手紙を持たせ
 て釈放した上、
  利尻島を襲撃後、立ち去る前には、拉致した日本人の
 うち4名を釈放し、番所のあった宗谷に送還した。
 この時のロシア側書簡には、
  「一昨年に、長崎に、日本人漂流民4人を送り届け、
 ならびに、交易を願出る使者を派遣したが、
  交易の願いは実現しなかった。
  その上、今後は、日本人漂流民があっても送還するに
 は及ばず、ロシアが日本に船を寄せた場合には、船を焼
 き払うとの布告が出され、
  この事についてロシア皇帝は立腹した。
  この際に、力の及ぶ限り、日本を焼き払うとの意見も
 出た。
  今回、酒や米などの品物を奪ったので、海賊かと思わ
 れたかもしれないが、これは通商の願いが叶わず、やむ
 を得ず出た行動であって、
  けっして盗賊の営みではない。
  今後、通商の願いが実現した暁には、奪った品物は返
 還し、代金も支払う所存である」・・と、
  今回の行動を弁明しているが、
  これに続くところでは、
  日本が、今後も通商を認めないのであれば、
  多数の軍艦を派遣して、さらに、攻撃するとの脅しの
 文句も入っていた。
 この暴挙を行ったロシア船は、ロシアの露米会社所有の
 商船であったが、
  これを指揮していたのは、ロシア軍人のフヴォストフ
 中尉とダヴィドフ少尉であり、
  1804年の、長崎での通商交渉に失敗した、ロシア使節
 レザノフが、
  ロシア皇帝・アレクサンドル1世に送った、日本の北
 辺に武力攻撃を仕掛けることで、通商を実現しようとい
 う意見書に基づいたもので、
  皇帝の裁可が下りないままに、レザノフが独断で、当
 時、軍籍に属したまま、露米会社商船に乗り組んでいた
 二人の軍人に襲撃を指示したものであった。
  ロシア船の、1806年のカラフト襲撃の報は、翌1807年
 4月に松前に届き、
  ただちに、松前奉行からの報告書が、幕府に届けられ
 た。
  そして、これと相前後して、松前藩盛岡藩の江戸藩
 邸からも報告書が届けられた。
  続いて5月には、ロシア船が、択捉島を襲撃した情報
 も届き、幕府を震撼させた。
 幕府は、1807年5月に、盛岡藩弘前藩、さらに、秋田
 藩や、庄内藩へ、蝦夷地への出兵を促し、
  盛岡藩972名・弘前藩800余名・秋田藩591名・庄内藩
 319名の計3000名近い兵力が、蝦夷地に派遣された。
  そして、箱館・ウラカワ・アッケシ・ネムロ・クナシ
 リ・福山・江刺・ソウヤ・シャリの各地に配置された。
  また、この厳重な警備は、翌年1808年以後も継続され、
 盛岡・弘前両藩・各250名と、仙台藩2000名・会津藩
 1600名の体勢で警備が行われた。
  さらに、幕府は、若年寄堀田正敦・大目付中川忠英・
 目付遠山景晋など、対露関係の有力者を蝦夷地に派遣し
 て、諸藩の兵を指揮させるとともに、
  小普請方の近藤重蔵を西蝦夷利尻あたりまで、
  徒目付神谷勘衛門を東蝦夷 クナシリあたりまで派遣し
 て、要害を置くべき地を巡察させ形勢を視察させた。
 この様な急激な動きを、幕府は、決して公表しなかった
 のだが、
  ロシアによる襲撃の報や、幕府の動きは、諸藩の江戸
 留守居役による情報収集によって、ただちに、全国の諸
 藩に伝わり、
  箱館奉行所の幕府要員や、蝦夷地に派遣された下役、
 さらには、蝦夷地警備に当たっている松前弘前・盛岡
 諸藩の目撃・体験情報も流布し、
  これに襲撃された会所や商船に居た商人からの情報も
 加わって、
  ロシア船が、蝦夷地を襲撃し、幕府が、大規模な軍隊
 を派遣したことは、ただちに人々に、尾ひれをつけて伝
 わった。
 江戸では、6月ともなると、ロシア船来寇のうわさが、
 駆け巡り、
  すでに、ロシアと盛岡・弘前藩兵が、戦闘におよび、
 ロシアの軍艦は、数百艘で、津軽海峡が封鎖されて、松
 前は孤立し、
  箱館奉行は、捕虜となり、
  松前藩の家老の一人は、ロシア側に寝返ったなどの風
 説が飛び交った。
  そして、この風説は、鎌倉時代のモンゴルの来寇と比
 べられ、
  あの時は、伊勢や石清水の神威によって、元軍10万は
 海底に沈み事なきを得たが、
  今は、神威もあまり頼りにもならず、
  ロシアの船は、海城ともいうべき巨大のもので、江戸
 は海に面しているので、油断はできないなどと、
  今すぐにでも、ロシアとの戦争が、江戸にまで拡大し
 て来るかのような風説となって拡大し、
  鍛冶を生業とするものたちは、武具を鍛え、
  古着のある家々は、軒に陣羽織を掛けて、戦に備える
 などの騒動が起こった。
 このような風説は、江戸だけではなく、全国に及び、長
 崎のオランダ商館員の耳にも入り、
  あわせて、択捉島襲撃の際には、番所につめていた箱
 館奉行所役人や、弘前盛岡藩兵が、総崩れとなって退
 却したことは、日本開闢以来の敗北と受け止められ、
  日本の威信を守れなかった幕府に対する批判を生み出
 し、
  さらに、ロシアの通商要求を強硬に拒否した幕府の外
 交政策に対する批判まで噴出し、
  幕府は、各地で、雑説禁止令を出さねばならいないほ
 どの騒動となった。
 幕府は、1807年6月に、あいついで3通の触書を出し、
 ロシアの襲撃の情報と、その背景などを詳しく諸藩に対
 して報じた。
 この触書には、ナイホとシャナでの、会戦の折には番士
 が、ロシア人5・6人を撃ち殺したが、防ぎきれずに撤退
 したと、
  手をこまねいてロシア人の襲撃を許した訳ではないと
 釈明し、
  さらに、襲撃したロシア船は、2隻で、人数も60人程
 度であることなど、幕府に入った情報を簡潔ではあるが
 公表した。
  そして、幕府は、同じ情報を、朝廷に対しても、武家
 伝送を通じて伝えた。
  当時の光格天皇を中心とし た朝廷が、
 天明の大飢饉や、打ち続く外国船の来航などに、国家の
 危機を感じ取り、
  古代において戦乱収束のお礼として始まった石清水八
 幡宮の臨時祭や、賀茂社の臨時祭などを復興し、
  日本国の安寧を祈ることが朝廷の責務であると、行動
 されていたからだった。
  そして、同時に、各地で、雑説禁止令を布告し、悪質
 な噂を流したものを捕らえて罰するなどの処置を取った。
 この幕府の動きは、情報を秘匿した中で、風聞だけが、
 一人歩きして、噂が拡大し、噂に基づいた幕政批判など
 が横行することは、幕府の威信にも関り、世の乱れの元 
 になると、幕府が判断したからだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009