(増補版)153D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年〜1721年)
題:(増補版)153D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年〜1721年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1721年2月8日〜3月31日、江戸大火(江戸享保6年春のあま
りにも悲惨な連続火災):2月から3月にかけて、6度の
火事で江戸の3分の2が焼失した。
2月8日(6日説あり)午前10時頃、日本橋呉服町1丁目
から出火し、北風にのって延焼、大工町、新数寄屋町、
京橋から築地浜まで燃えて、やっと鎮火した。
2月24日、午前1時頃、麻布善福寺門前の家から出火し、
芝愛宕下裏町まで延焼。
3月4日、午前9時頃、四谷中殿町から出火し、六本木、
麻布一本松あたりまで焼く。
3月6日、午後1時頃、四谷忍町から出火し、左衛門町、
麻布谷町、狸穴脇、三田筋より芝、品川あたりまで焼失、
3月30日、午前11時頃、神田三河町四丁目から出火し、
強い南風にあおられて須田町、神田旅籠町、湯島天神社
地、下谷筋まで残らず焼失、
そこからまた上野池端から東叡山の仁王門を焼き、広
小路も越えて下谷、浅草観音寺内あたりから坂本、千住
まで焼く大火となった。
翌3月31日に、前日に続き、南の烈風が吹き荒れた。
午前9時頃、牛込木津屋町から出火し、同若宮、同御門
外を経て、小日向から小石川伝通院も全焼し、境内に避
難していた360人余が焼死したという。
その後、火は本郷、駒込、千駄木、谷中と進み、氷川
あたりでようやく鎮火した。
この6回の火災で、江戸市中の3分の2が焼失し、
2107人が焼死し、
百石以上の武家屋敷と医師屋敷7415軒、陪臣屋敷と町
屋13万3720軒、その他225軒、寺社560ヶ所が焼失した。
焼失した伝通院は、後に、死者を弔い、無縁塚を建立
した。
1721年閏7月、経済:大坂蔵米の延売(のべうり、延払いで
商品を売ること)と買占(かいしめ)を禁止し、大阪銅
吹屋の御用請負を廃止した。
1721年閏7月、経済政策:幕府が、勘定所機構を改め、公事
方(裁判・民政)・勝手方(財務)に分けた。
行政効率の向上を図った。
1721年8月2日、施策:目安箱(めやすばこ)の設置
吉宗が、江戸城竜の口評定所の門前に、目安箱を設置
し、一般庶民の不満や要求の意見を投書させた。
これは、吉宗の考案によるもので、
民の気持ち・心を知りたいというのが目的だった。
江戸市中の防火制度の整備や、小石川養生所の設置も
目安箱の投書に基づくものと言われる。
町医者の小川しょうせん(赤ひげ先生と言われた)が、
目安箱に、江戸の貧しい病人のための病院が欲しいと投
書し、小石川養生所が実現した。
これは、無料の病院として、幕末まで存続した。
吉宗の幕府が偉いのは、目安箱で幕府への不満を言っ
た場合でも、良く言ってくれたと褒美を与えている。
そして、吉宗が、将軍自らが目を通したというところ
も偉い(毎月3回、目を通したという)。
また、箱は、将軍の面前で錠が開けられ、
書状は、将軍が自らが開封し、
採否は将軍のみによる判断だった。
後に、京都、大阪、駿府、甲府などにも置いた。
意見が、施政上、具体的に活用された事例が多く、新
田開発が採用された事例もあった。
1721年8月17日、施策:江戸小石川に薬園を拡張設置した。
1721年8月25日、施策:江戸市中の諸商人・職人に組合結成
を命じた。
1721年9月15日、幕府が、荻生徂徠に「六諭衍義(りくゆえ
んぎ、分かりやすい道徳教科書) 」を講ぜしめ、
訳述させ、流布を図った。
六諭衍義は、中国の「六諭」が、琉球を経て日本に伝
わり、
幕府は、室鳩巣に「六諭衍義大意」を作らせていた。
幕府は、各藩に奨励し、流布した。
これは、明治期の教育勅語の成立に影響を与えている。
1721年、教育:手習い手本を編纂
寺子屋の手習いの手本を、幕府は、享保6年に初めて編
纂した。
「六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)がそれ。
1721年頃、経済政策:この頃から、年貢徴収を検見法から
定免法へ転換開始。
1721年、令:幕府が、質流地禁令を発布して、質地小作の
制限を図り、質入れ田地の請戻し権を保障し、小作料率
を制限した。
1721年、事件:医師・中島隆硯夫婦殺害
江戸深川の医師・中島隆硯夫妻を下男直助が殺害して
逐電した事件が吉宗の耳に入った。
側近の者は、吉宗が、犯人に対しさぞ怒りを発すると
思ったところ、
吉宗は、江戸の自分の膝元に、この様な主殺しという
重罪人が出たのは残念だ・・と、心を痛めたという話を、
室鳩巣が、伝え聞いて手紙にのせている。
室鳩巣の庶民教育への関心の方向がここに現れている。
1721年、天領の一部を大名の領地とする
適正代官不足のため、天領の一部を大名の領地とする。
1721年、出版:田中丘隅(たなかきゅうぐう、または、休
愚・きゅうぐ)が、「民間省要(みんかんせいよう)」
を著した。
田中丘隅は、武州川崎宿の名主で、役人の横暴を批判
し、武士階級だけではなく民間有為(才能のある)の者
の登用を主張した。
民間省要は、農政の沿革、民間の実情、民政に対する
批判的意見が書かれている(治水政策・土地政策・交通
政策・地方役人論・村役人論・民役・国用・賦税など77
項目にわたる大著)。
この書は、1722年に、吉宗に献上され、享保改革に採
用された節がある。
1721年、イギリスで、ウォルポール内閣が成立した(責任
内閣制の初め)
お粗末な事件の南海泡沫事件の後処理をした。
責任内閣は、議院内閣制の下で、内閣が議会に対して
責任を負う制度で、内閣は、議会の多数の支持により成
立し、その信任を失った場合には辞職する。
王ではなく、議会に責任を負う。
彼を、最初のイギリス首相としている。
1721年、二スタット講和条約(北方戦争終結)
ロシアとスウェーデン間に締結された条約。
ロシアは、バルト海に領土を拡張し、覇権を握った。
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