(増補版)195D2/3:気になった事柄を集めた年表(1802年〜1804年)

題:(増補版)195D2/3:気になった事柄を集めた年表(1802年〜1804年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1802年、農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が、「農
 家益(のうかえき)」前編を刊行した(1768年〜没年不
 明)
  「農家益」は、農学書で、
  「はぜ」の栽培や「製ろう」の技術など、特用作物(
 とくようさくもつ、食用以外の特別の用途にあてるため
 栽培・加工する農作物のことで、
  綿・桑・茶・麻・タバコ・藍など)の栽培と、その加
 工法が詳しく述べられている。
  因みに、「はぜ」は、ウルシ科ウルシ属の落葉小高木
 で、
  果実を蒸して、圧搾して、採取される高融点の脂肪(
 木臘)は、和蝋燭、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、
 クレヨンなどの原料として利用される。
1802年、「絵本太閣記」(岡田玉山挿絵)7編が完結した。
 (1804年絶版)。
  岡田玉山(おかだぎょくざん)は、画家で下絵を得意
 とした。
  絵本太閤記は読本(よみほん、伝奇小説)で、伝奇的
 な、現実には起こりそうにない生涯を描いている。
1802年、令:出版統制、
  この年に完結したばかりの「絵本太閤記」は、この令
 が出された1ヶ月後に、幕府から絶版を命じられた。
  「絵本太閤記」の挿絵を担当した岡田玉山は、手鎖の
 刑を受け、版元の勝尾屋は銭十貫文の過料に処せられた。
1803年閏1月、幕府が、長崎で落札した輸入品を、大坂の
 ほか、京都・堺へ販売することを、京都・堺・長崎・大
 坂・江戸の5か所の商人に許した。
1803年2月5日、幕府が、勘定方役人・山田大吉に、東梅道
 筋分間絵図面の作成を命じた。
1803年2月、本草学者・小野蘭山(おのらんざん)が、「
 本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう、日本の本草
 学の集大成と言われる)」の刊行を開始した(1806年完
 結)。
  小野蘭山は、京都の人で、独学で学識を深めた人。
  幕命により、江戸の医学館で講義するかたわら、諸国
 で薬草を採取したりした。
  また、日本各地を歩いて、植物のほか動物、鉱物を採
 集した。
  幕命で、医学館で講じたのは、71歳で幕府の医官にな
 ってからだった。
1803年2月、伊能忠敬が、幕命によって、東海・北陸・佐渡
 の沿岸の測量に出発した。
1803年5月、「はしか」が大流行した。
  この時代の流行は、規模が大きかった。
  前年に、朝鮮半島に流行し、日本の対馬を経由して、
 長門に上陸し、西日本に拡大し、大流行となった。
  「はしか」は、一生に1度かかる「命定め」の伝染病と
 して恐れられていた。
  死亡率が高かった。
  流行のたびに多くの命が失われた。
  この年の流行は、歴史に残る大流行だった。
  幕府が、窮民を救済することを町会所に命じた。
  庶民は、「御役三病」と言って、天然痘・ハシカ・水
 痘の3つの病を無事に終えることが最大の願いだった。
  因みに、日本のハシカの最初の流行は、998年の、平
 安時代の歴史物語の「栄華物語」に出て来る。
1803年5月、江戸〜大坂を運行する菱垣廻船が衰退したた
 め、十組(とくみ)問屋が組外商人の 取り締まりを願い
 出た。
1803年6月11日、心学者の中沢道二(なかざわどうに)が
 没した(79歳)
  織物師でもあった。
  松平定信が作った佃島人足寄場の教諭方にも就任した。
  言葉:「堪忍の 成る堪忍は 誰もする 
           成らぬ堪忍 するが堪忍」
1803年7月、アメリカ船が、長崎に来て、通商を求めた。
  黒船来航と大騒ぎするころ(1853年)の約半世紀前で
 あるが、
  アメリカは、まだ新興国家だった。
  ロシアやイギリスに比べ、遅れて東アジアに進出して
 来た。
  アメリカが、東アジアに進出する大きなきっかけは、
 日本近海のマッコウクジラの発見だった。
  その当時の、マッコウクジラの脳油は、石鹸やロウソ
 ク、そして、灯油、そして、
  機械の潤滑油として使われる極めて貴重なものだった
 (油だけを使用して、その99%は捨てた。この様な、可
 哀想な捕獲・殺戮の利用率だった。
  オーストラリアのキリスト教に支援された日本の今の
 クジラ捕獲への虐め行為は、お門違いである。
  日本の利用率は100%で、日本は長い歴史があり、伝統
 の文化の中にあるクジラ捕獲である)。
  西洋各国は、この様な可哀想な利用率使い方で、大西
 洋のクジラを乱獲し、
  大西洋のクジラが居なくなったため、太平洋に出て来
 ていた。
  その捕鯨船団の寄港地として、日本の港を必要として
 いた。
  1848年に、カルフォルニアに金鉱が発見されて、
  アメリカの本当の所有者のアメリカ・インディアンの
 方々が、また、不埒な扱いを受ける45年前のことであっ
 た。
1803年10月17日、杉田玄白とともに「解休新書」を訳出し
 た蘭方医前野良沢(まえのりょうたく)(1723年〜
 1803年)が没した(81歳)
1803年、山谷に、料理茶屋・八百善が開店した。
  江戸第一の料理として評判となった。
1803年、瀬戸焼:加藤民吉の父子が瀬戸焼を始めた。
  肥前有田から染め付け磁器の製法を伝えたのに始まる。
1803年、アメリカが、ルイジアナをフランスから購入した。
  購入したと言ったって、そのフランスも、本当の所有
 者であるアメリカ・インディアンの方々から無断で奪っ
 たものである。盗品購入である。
1804年、日本の総人口: 25,622,000人
1804年1月1日、寛政暦を完成させた天文学者高橋至時(た
 かはしよしとき)が没し(41歳)、4月3日に、子供の景保
 (かげやす)が天文方となった。
1804年3月、鍬形恵斎(くわがたけいさい)の画の「近世職
 人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば)」上巻
 ができた。(翌年の3月15日に中巻が完成した)。
  肉筆画の傑作と言われている。
  江戸の町の日常風景を、独特の洒脱さと軽妙な筆づか
 いで活写している。
1804年5月17日、幕府が、一枚絵・絵草子刊行に関する取り
 締まりを強化した。
  喜多川歌麿(きたがわうたまろ、浮世絵師、狂歌師)
 が、「絵本太閤記」の挿絵で処罰されている。
  歌麿は、美人大首絵(おおくびえ、美人や役者の上半
 身を大きく描写した絵)を発表して注目を集めていた。
1804年7月3日、4代目・鶴屋南北(つるやなんぼく、狂言
 者、1755年〜1829年)の「天竺徳兵衛韓噺(てんじくと
 くべえいこくばなし)」が、河原崎座で初演された。
  この話は、天竺(インド)へ渡った船頭の見聞の手記
 を題材とする天竺徳兵衛物の一つ。
  徳兵衛を、日本国転覆をねらう謀叛人としている。
  また、3代目までは江戸歌舞伎の道外方(どうけかた)
 であったが、4代目から歌舞伎役者となった。
1804年7月23日、植崎九八郎上書(うえざきくはちろうじょ
 うしょ)
  幕府が、いたずらに国政を論じたとして幕府小普請組
 の旗本・植崎九八郎政由(まさより)を処罰した。
  1787年松平定信の老中就任に際し、前代の田沼政治
 をきびしく批判した。
  そして、幕政の刷新を訴えた。
  10項目余の内容からなり、人材登用、銭相場の引上げ、
 百姓離村の防止(農業人口減少の防止)、年貢負担の軽
 減、綱紀の粛正、物価の引き下げ、消費の抑制、風儀取
 り締まりなど多岐に渡っている。
  そして、1801年に、将軍・家斉に改革政治批判をまと
 めた書を上呈した。
  この頃は、上書ブームでもあった。
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