(増補版)196D2/3:気になった事柄を集めた年表(1804年〜1804年)

題:(増補版)196D2/3:気になった事柄を集めた年表(1804年〜1804年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1804年9月6日、ロシアのレザノフが来航
  ロシアのレザノフが、長崎に来て通商を要求した。
  レザノフたちを長崎に留め置いて、半年ののちに、幕
 府は、これを拒否した(通商要求の拒否)。
  日本の対ロシア政策は、1792年の12年前に、ロシアの
 ラスクマンが来た時には、国の法を説明し、通商を拒否
 した。
  しかし、長崎への入港の許可を示す『信牌』は与えた。
  ロシアはこれで帰った(老中・松平定信の時代)
  この時の幕府の主旨は、江戸に来させず、長崎に行か
 せるという事だった。
  今回のロシアの来航は、「信牌を得た」ので交易開始
 の糸口になるのでは・・という解釈だった。
  この時の、幕府責任者は、松平定信ではなかった。
  この時の幕府の責任者・土井利厚らの幕閣の考えは、
 「通商は断固拒否」であった。
  老中の土井利厚は、「腹の立つような乱暴な対応をす
 れば、ロシアは怒って二度と来ないだろう。
  もしロシアが、これに対して武力を行使しても、日本
 の武士は、いささかも、おくれはとらない」と言った。
  それ故、この時の幕府は、上陸も許さなかった。
  後に、乗組員の病気治療と、船の修理を許した。ただ
 し、上陸は昼のみとした。
  そして、2か月後、一同を仮家に収容した。
  そして、冷たい態度で接し(こうすれば二度と来ない
 だろうと)、
  半年、待たせて後、通商を拒否した。
  レザノフは、ロシアに帰る途中、この時の怒りがあっ
 たのか? 日本人の居た千島や樺太を攻撃したり、略奪
 をしたりという事件を起こした。
1804年9月、町人や百姓の武芸稽古が禁止された。
1804年9月、この頃、豊作が続く
  幕府は、豊作のため、1万石につき1,000俵の備荒貯蓄
 用の囲い米をする様に指示した。
  また、江戸や大坂への廻米の2割減を命じた。
  これは、米価の維持のためだった(豊作貧乏にならな
 いように)困窮する武士を救うという配慮もあった。
  また、酒造の制限をなくし、酒を勝手に造っても構わ
 ないとし、酒造高の増量も指示した。
1804年11月21日、当年が期限だった「倹約令」を、さらに、
 7年間、延長した。
1804年、幕府の刑事判例集「御仕置例類集(おしおきれい
 るいしゅう)」古類集が編纂されている。
  先例を5回に渡って編纂した(1771年〜1852年)。
  第1集(1771年〜1802年)30冊、
  第2集(1803年〜1814年)31冊、
  第3集(1815年〜1826年)37冊、
  第4集(1827年1839年)65冊、
  第5集(1840年〜1852年)79冊、
1804年、最上徳内の「度量衡説統」が刊行された。
1804年、谷文晁(たにぶんちょう、画家)の画の「名山図
 譜(のち日本名山図会)」が刊行された。
1804年、高野長英(たかのちょうえい、蘭学者、蘭医、兵
 学者)が生まれた(1804年〜1850年
  才ある人だったが、
  その人生は、大きな波の中にあった。
  奥州水沢(岩手県奥州市)に生まれる。
  水戸藩士の子で、9歳の時に父を亡くした。
  母方の伯父・高野玄斎の養嗣子(ようしし、家督を相
 続する養子)となる。
  玄斎は、杉田玄白の門人である。
  17歳のとき、兄について、江戸に遊学し、蘭方医術を
 学んだ。
  1825年(21歳)で、長崎に行き、シーボルト鳴滝塾
 に入る。
  平戸藩主・松浦(まつら)侯の援助を受け、「シケイ
 キュッデ」(化学書)20巻の翻訳に着手する。
  また、シーボルトの依頼により、和文蘭訳の業にも従
 った。
  1828年(24歳)の時に、シーボルト事件が起きると、
 長崎を脱出した。
  各地を、広島・尾道・大坂を転々とし、京都で開業し
 た。
  1830年(26歳)で、江戸に戻り、麹町で開業する。
  生理学の研究も進める。
  「西説医原枢要」も脱稿。
  そして、渡辺崋山の依頼の蘭書の訳述も行い、崋山ら
 と交際を深めた。
  1838年(34歳)に、「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」を草
 し、幕府の異国船打払い策を批判した。
  この冬、結婚する。
  1839年(35歳)に、蛮社の獄で、崋山が「慎機(しん
 き)論」、および、「西洋事情書」による、幕政批判の
 罪で召還されるや、長英は、姿を隠す。
  しかし、北町奉行所に自首する。
  収監され、獄中から「わすれがたみ」を著し、罪のな
 いことを表明する・・が・・、
  著作などの幕政批判で有罪となり、入牢の判決となる。
  赦免出獄を画策する・・しかし、効はなかった。
  1844年(40歳)に、外部の者と連絡を取り、江戸放火
 を画策し、小伝馬町の牢舎から脱獄した。
  江戸市中に潜む。
  この間、兵学書の翻訳をする。
  長男も生まれる。
  1847年(43歳)に、「知彼一助」を宇和島藩主の伊達
 宗城に献上する。
  また、書を訳出する。
  1848年(44歳)に、宇和島藩主に招かれ宇和島へ行く。
  名を変えて、蘭書を、ここで教授する。
  また、ここで、兵書の翻訳もする。
  そして、この年、宇和島を去り、広島を経由して、江
 戸に、再度、潜入をした。
  また、名を替えて、医業を営んだ。
  しかし、1850年10月に、捕吏(捕り方)に襲われ、こ
 こで自刃した。47歳だった。
1804年、令:出版統制、この年に、幕府の出版統制はさら
 に厳しくなった。
  江戸時代、各種の「太閤記」が発禁処分を受けている。
  それは、開祖の徳川家康についても触れざるを得ず、
 秀吉の下に立ち、諸大名と肩を並べる家康という設定に
 なるからで、
  しかし、庶民は、動物を擬人化したりして発行する。
  この年に、十辺舎一九が「化物太平記」を出版した。
  「太閤記」でなく「太平記」とし、人名ももじって戯
 画化した。
  しかし、この「化物太平記」も出版後、絶版の憂き目
 に遭い、作者の十辺舎一九は、手鎖50日の刑に処せられ
 た。
1804年、ナポレオン戦争が起きた。
  フランス国民は、度重なる危機にある世情に、強力な
 リーダーシップを持ったナポレオンを推した。
  1804年に、ナポレオンは、国民投票の結果、圧倒的な
 票数を獲得し、皇后のジョセフィーヌとともに戴冠式
 行った。
  ナポレオンは、皇帝に即位し、ナポレオン1世となった。
  ナポレオンが皇帝になったことで、第一共和制は終わ
 った。そして、新たに第一帝政が始まった(1804年〜
 1815年)
  皇帝となったナポレオンは、対外戦争を再開させた。
1804年、メフメット=アリー(ムハンマド・アリー)が、
 エジプト総督となり、エジプトの近代化につとめた(
 1805年説あり)。
  オスマン帝国のエジプト太守で、ムハンマド・アリー
 朝の始祖。
  1801年、ナポレオンのエジプト占領時に、アルバニア
 傭兵隊将校として、オスマン・トルコ帝国よりエジプト
 に派遣された。
  ナポレオン1世のエジプト侵入に抗戦し、ナポレオン軍
 の撤退後のエジプトで、マムルーク勢力を追い落として、
 次第に頭角を現し、この年に、太守となった。
  事実上の独立の獲得。
  近代国家エジプトの基礎を築き、その国力を背景とし
 て、中部アラビア、スーダン、シリア方面などの領土拡
 張政策をとった。
1804年、ワッハーブ王国(ワッハーブ派イスラム教徒)が、
 メディナを占領(1805年説あり)。
  1765年に、ムハンマド・ブン・サウードが没したとき、
 アラビア半島の中部および東部の大部分はサウード家
 支配になっており、サウード王国またはワッハーブ王国
 と呼ばれた。
  19世紀の初め、ワッハーブ王国は、イラクシーア派
 のカルバラーを襲って、メッカとメディナを占領した。
1804年、リチャード・トレビシック(イギリス)が、乗車
 可能な蒸気機関車を発明した。
  世界初の機関車で鉄道車両を牽引した。
  これによって鉄道が急速に発展した。
1804年、アメリカ合衆国、13州成立以後・・
  初めは、北米大陸の東岸沿岸の13州に成立したが、そ
 れ以後も、領土的に野心を持つ国家だった。
  独立戦争の結果、ミシシッピ川より東の広大な領土を
 得た・・が・・、
  そして、そこに住んでいた人々、本当の領土の持ち主
 であるアメリカ・インディアンの方々を、ミシシッピ川
 の西へ行ってくれと追い出した・・が・・、
  インディアンの方々の居ない領土をつくり、そして、
 奪った・・が・・、
  しかし、まだまだ、領土的野心は止まらなかった。
  インディアンの方々を追い出したその先のところを、
  追い出した先の地の領土までもが・・欲しくなったの
 だった。
  そして、さらに、インディアンの方々を、更にさらに、
 西へ行ってくれと追い出した。
  そしてまた、そこを俺の土地だとして居た外国勢力・
 イギリスやフランスやメキシコと戦争をして、武力で、
 領土を奪って行った。
  そして、この年、1804年、この極限に達した。
  この年に、ジェファーソン大統領は、北米大陸の「極
 西部地方・ファー・ウエスト」の地の領土的野心を表明
 した。
  政府役人に開拓を目的とする調査の任務を命じた。
  ロッキー山脈を越え、太平洋に至る所までの領土的野
 心を表明したのだった。
  これまで、白人が来た事のない所まで得ようと命令を
 出したのだった。
  そして、欲の塊のアメリカ合衆国は、この太平洋をさ
 らに西へ領土を得たい、領土を奪いたいと行動をし続け
 て行く。
  「フィリッピンが騙されて領土を奪われる」などのア
 メリカの悪行為が、歴史に書き込まれている。
  この悪行為の侵略について、アメリカは謝罪を表明し
 ていない。
19世紀初め、アメリカ合衆国の政府は、この世紀に入ると、
 新たにアメリカに来た入植者(占領者)たちに、
 西部の奥に追いやったインディアンの方々の地へ入植す
 る事を奨励した。
  アメリカ合衆国政府は、西部の奥深く分け入り、そこ
 に住み着くことを奨励した。
  そして、1840年1860年に至ると、アメリカの地は、
 ヨーロッパからの人間で溢れかえった。
  アメリカ合衆国に到着するヨーロッパからの人達は、
 400万人を超えた。
  これは、カリフォルニアやコロラドに、1848年に、金
 が発見され、この金が欲しいという事も関係していた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009