(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年〜1697年)

題:(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年〜1697年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1697年7月、元禄地方直(げんろくじかたなおし)
  幕府が、御蔵米地方直令を出し、
  500俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方
 直の方針を打ち出した。
  勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主動で実施され
 た。
  天領から米を運搬する費用が掛かる蔵米給付の方が幕
 府にとっての財政負担は大きい・・そして、一方、
  当時の武士は、蔵米取よりも、知行取の方を格上と考
 えており、
  蔵米支給から知行取に変わることを、旗本たちは出世
 ととらえ、
  幕府も、知行取への変更を褒章の一環としていた。
1697年10月、酒運上(酒屋運上)を令した。
  酒運上(さけうんじょう)は酒造税。
  幕府は、売価の3分の1を酒運上を課すことを全国に布
 達した。
  これは、飲酒の制限の意味もあった。
  1709年に廃止された。
1697年、経済政策:新貨との交換を命ず
  幕府が、古金銀の通用期間を限り、新貨との交換を命
 じた。
  1698年限りで、運用停止すると触書を出したが、引き
 換えが進捗せず、退蔵する者が多かった。
  これは、今までの貨幣の方が、金の含有量が多く、品
 位の高い小判であることが、誰が見ても明らかだった。
  結局、割増通用(現行の小判より何割か価値が高いも
 のとして通用させる)という形で、幕末まで流通してい
 た。
  しかし、この割増も退蔵する方が得だったため、交換
 は思うように進捗しなかった。
  元禄金は、量目(質量)こそ、慶長金に等しかったが、
 金に対し密度の低い銀を、多く含むため、分厚く白っぽ
 いものとなった。
  そのため、品位が低下したことは、誰の目にも明らか
 だった。
  また、脆(もろ)く折れやすいものであったため、評
 判は悪かった。
1697年、政策:大名管理
  幕府が、諸国の有力大名に、郷帳と国絵図の提出を命
 じた(居城の絵図、国絵図、海陸の道筋など)。
  また、旗本・寺社へも国絵図の改訂と郷帳面の提出を
 命じた。
1697年、大名管理・吉宗
  徳川吉宗が14歳の時、第5代将軍の綱吉に江戸城内で拝
 謁(お目見え)し、越前国丹生郡所領3万石を与えられ、
 葛野藩主となった(立藩した)。
1697年4月、ガルダン汗自殺、
  外モンゴルが、清の支配下にはいる。
  しかし、この服毒自殺は、清朝で編纂された漢文資料
 に記されているが、史実ではないという指摘もある。
  病死の説である。
  翌年(1698年)清の版図となった。
1697年、ロシア人が、カムチャッカまで到達した。
  コサックの探検隊が、この年に、カムチャッカに、初
 めて到達した。
  日本人の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が行
 く85年前だった。
  大黒屋光太夫(1751年〜1828年)は、伊勢国の廻船の
 船頭で、
  嵐のため、1782年に、江戸へ向かう廻船が漂流し、7ヶ
 月の漂流ののち、アリューシャン列島に漂着した。
 (当時は、ロシア領のアラスカ)。
  先住民のアレウト人や、毛皮収穫のための滞在してい
 たロシア人に遭遇し、彼らと共に暮らし、ロシア語を習
 得した。
  4年後の1787年に、ありあわせの材料で船を造り、ロシ
 ア人らと島を脱出する。
  カムチャッカ・オホーツク・ヤクーツクを経由して、
 イルクーツクに、1789年に、至る。
  ここで、日本に来るラクスマンらに会う。
  サンクトペテルブルグへ、1791年に、向い、ロシア帝
 国の帝都で、女帝のエカチェリーナ2世に謁見した。
  帰国を願い出て、漂流から9年半後、磯吉と小吉との3
 名は、根室に帰国した。
  帰国後、将軍・家斉の御前で、聞き取りを受け、幕府
 は、光太夫を活用して、ロシアとの交渉を計画したが、
 うまく行かなかった。
  江戸屋敷を与えられ、異国の見聞を伝えた。
  蘭学者桂川甫周による聞き取りの「北槎聞略」が史
 料として残された。
  光太夫は、妻も江戸でもらい、帰国も許され、帰国し
 ている。
  また、故郷から光太夫らの親族も江戸に訪ねて来てい
 る。広く知識人らと交際を持った。
  北槎聞略(ほくさぶんりゃく、江戸時代の漂流記録書)
 (宮永孝訳)に、
  「ロシア人に助けられた光太夫達は、住み家もあてが
 われ食事も与えられたが、
  この年の冬はまれにみる飢饉が訪れ、魚しか口に入れ
 ないため、面倒を見てくれている郡官を困らせる。
 この年、先述にあるように世界中が大飢饉となっている
 ことを当人達は知るよしもなかった・・。
 ビタミンCの不足(壊血病)で与惣松・勘太郎・藤蔵が
 死に、オルレアンコフ長官(郡官)に諭されるのである。
「あなた方はみな、伊勢の生まれとか称して、つね日頃、
 獣の肉を口に入れなかったが、このような飢饉の時に至
 ってまで、そんな禁忌を守っていては飢え死にするより
 外はありません。
  先ずこの牛肉を食べて一命をつなぎ、食料が十分に手
 に入ったなら、肉を食べないでもいいではありませんか」
1697年、ライスワイク条約(ファルツ承継戦争終結
  ファルツ選帝侯領の相続をめぐり、
  フランスのルイ14世と、ドイツ・イギリス・オラン
 ダ・スペイン・サボイア(フランスの一部)との間に、
 1689年から戦争が続いていた。
  この戦争の講和がなされた。
  フランスは、イギリスに対し、ウィリアム3世の王位を
 認め、
  また、その相続者のアンに王位継承権を認めた。
  そして、ドイツは、ストラスブール以外の占領地を返
 して、ライン川の右岸から撤兵するとなった。
  勝利者はいない。
  ただただ、戦争で殺し合っただけ、
  そして、厭戦気分が出て、戦争を止めただけ。
  戦争ばかりのヨーロッパだった。
1697年、イギリス・本国の「東インド会社」が、市民の襲
 撃を受けた。
  「貨物を掠奪せんと騒ぐ」・・とある。
  あまりにも、イギリスの一部だけが、
  市民もびっくりするほど莫大な金を、
  インドの方々から巻き上げて、得ているため、
  インドの方々のために、怒ったという訳ではなく、
  そのイギリスの莫大な富を得ている一部の悪漢たちに
 対し、その独り占めしている事に対して、怒ったのであ
 った。
  市民がだまっていられないほどの搾取だった。
  分け前を寄越せの欲得の、餓鬼の騒ぎだった。
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