(増補版)190D2/3:気になった事柄を集めた年表(1789年〜1793年)

題:(増補版)190D2/3:気になった事柄を集めた年表(1789年〜1793年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1789年7月15日、オスマン帝国のセリム3世の軍制・財政改
 革・・西欧化政策。
  この日、イスラム世界の中心都市・イスタンブールで、
 オスマン帝国の第28代君主となるセリム3世の即位を祝し、
 フランス大使をはじめ西欧各国の大使のオスマン帝国
 府への表敬訪問が行われていた。
  セリム3世は、かつては、イスラム世界が、西欧キリス
 ト教世界を圧倒していたが、
  新しい力と取り入れて、急速に、西欧が近代化し、台
 頭して来て、イスラム世界が圧迫されて来たことを認め
 た。
  それ故、彼は、近代西欧モデルの体系的受容によって
 「西欧化」改革を大々的に着手した。
1789年、発明:ソーダ製造法が発明された(1790年説あり)
  ルブランが発明したソーダ(炭酸ナトリウム)の工業
 的製法(ルブランソーダ法)。
  食塩と硫酸から硫酸ナトリウムを作り、石灰岩・コー
 クスと共に加熱して炭酸ナトリウムを得るもの。
  石鹸その他の化学工業が発達し、ソーダ需要が拡大し
 て来ていた。
  1861年に、アンモニアソーダ法が発明され、とってか
 わられた。
1790年2月19日、幕府が更生施設をつくる、
  幕府が、軽犯罪者のための授産を行い、かつ、更生を
 する施設として、江戸の石川島に、人足寄場を設けた。
1790年4月、幕府が、女性の死刑囚があった場合、
  そして、その女性が妊娠している場合、
  その赤ん坊を助ける方針とし、赤ん坊の誕生まで刑の
 執行はしない方針とした。
1790年、高山彦九郎(たかやまひこくろう、勤王家)が、
 東北地方を巡った、「北行日記」
  諸国を歴遊し勤王の大義を唱えた(勤王思想の提唱)。
1790年5月24日、寛政改革:異学の禁
  幕府が、皇居を造営し、朱子学を正学と定めた。
  また、正学以外の異学を湯島聖堂で教授する事を禁じ
 た。
1790年8月13日、幕府が、輸入される薬種の高値を是正する 
 ため、輸入品偏重を改め、
  薬園育成用の外国産の薬種の苗を分け与えて、奨励し
 た。
  そして、10月には、輸入される薬種の価格引き下げを
 令した。
1790年9月23日、柄井川柳(からいせんりゅう)が没した
 (1718年〜1790年)、川柳の始祖、
  江戸浅草新堀端の代々の名主。
  人気を得て、「排風柳多留(はいふうやなぎだる)」
 を出版した。
  辞世:「木枯らしや あとで芽をふけ 川柳」
1790年11月、旧里帰農奨励令
  幕府が、旅費などを支給して、江戸へ流入した農民の
 帰郷をはかった。
  帰郷して農業に励みなさいの令。
1790年12月24日、幕府が、朝鮮人参の栽培、および、売買
 を自由化した。
1791年1月25日、幕府が、湯屋での男女混浴を禁止した。
  この当時、庶民の家には風呂はなく、銭湯に行く生活
 だった。そして、混浴だった。
  今の様な、明るい風呂場ではなかったので、そして、
 蒸気で見えにくかったのでその様になっていた。
  しかし、松平定信は男女別々を指示した。
1791年8月6日、大風雨で、江戸・相模が、高波および山崩
 れに襲われ、大きな被害を出した。
1791年9月2日、外国船の漂着の際の処置を指令した。
  近海に異国船が出没し、幕府が、異国船を発見した時
 とか、漂着した時とかの警備や手続きについての指令を 
 出した。
1791年10月24日、武芸奨励策:将軍の御前での馬術や武芸
 の披露が行われた。
1791年12月、幕府が7分積金を始めた(1792年説あり)。
  幕府が、町入用節約分の70パーセントの積み立て(7分
 積金)を始めた。
1791年12月、町会所が設置された(1792年説あり)。
  幕府の、自治の支援・改善。
  町入用(ちょういりよう)という、金銭や物品の出納
 が行われ、その算用の過程や結果が記録された。
  町入用は、町人の地縁的共同体である町における管理・
 運営、負担・配分に関する諸項の、町としての収支会計
 のこと。
  幕府は、この年に、七分積金制度の令を出したが、町
 入用を節約させ、その節約分の七分(7割)約2万2000両
 を毎年積み立て江戸町会所を設立した。
  江戸町会所設立は、社倉と低利融資、困窮者への御救
 い米など福祉政策を兼ねていた。
  社倉は、飢饉などの際の窮民救済のために設けられた
 米や麦などの貯蔵庫のこと。
1791年、この頃、金毘羅参りが盛ん。
1791年、フランスのユダヤ人の方々が、自由・平等に基づ
 く市民権を獲得できたのは、フランス革命の勃発後の2年
 目の、この年だった。
1792年、日本人の総人口、24,891,000人
1792年4月、聖堂学問所の制度を定めた。
1792年5月16日、林子平禁錮に処す。
  先覚者の林子平は、「赤蝦夷には在来、南へ勢力を伸
 ばそうという意思がある。
  将来、日本にとって恐るべき禍根になる」と公表し、
 妖言を言いふらすと罰せられたことがある(竜馬がゆく
 ・2)
1792年7月21日、麻布から出火し、赤坂・飯田橋・番町など
 を焼失した。
  29日に、幕府は、屋敷が類焼した1000石以下の旗本に
 手当金を出した。
1792年8月、幕府が、湯島聖堂の施設拡充のため、400坪の
 庁堂・学舎を造営した。
  翌9月に、学術試験にあたる初の学問吟味を実施した。
1792年9月、ロシアのラクスマンが、幸太夫を伴い、北海
 道の根室に来て、通商を請うた。
1792年12月、尊号事件
  幕府の反対により、典仁親王の尊号宣下を停止した。
1792年12月27日、幕府が、海岸防備の重要性と、異国船取
 扱令を諸大名へ伝えた。
1792年、春ころ、司馬江漢が、アムステルダム版の世界地
 図をもとに、初の銅版世界地図「輿地(よち)全図」を
 作成した。
1792年、イギリス人のW・マードックが、自宅の照明用に
 石炭ガスを用いることに成功した。
  石炭や木の乾留ガスを用いた。
  また、1792年から、実験に取り組んだの記述もある。
  そして、1802年に、工場にガス灯を設置した。
1792年、フランス大革命のパリ市民コミューン(自治組織)。
  フランスが共和制になった。
1793年1月、司馬江漢が前年刊行した「輿地全図の解説本」
 の「地球全図略説」が刊行された。
  司馬江漢は、前野良沢の許で研修した。
  「地球全図略説」は、五大州の図として東西両半球略
 図よりはじめ、日食・月食や天動説と地動説などを図解
 入りで説明し、さらに、地球の各地の気候・産物などを
 略記した上、南北両回帰線・極圏などにもふれている。
  日本版世界地図中、最も優れたものの一つと言われて
 いる。
1793年3月7日、典仁親王太上天皇の尊号を贈る問題が紛
 糾した件に関し、幕府が公家2人を処罰した。
1793年3月17日、幕府が、海岸防備・沿岸警備を厳戒にする
 よう諸大名に命じた。
1793年6月21日、林子平が没した。
1793年7月23日、松平定信が、老中・将軍補佐役を罷免され
 た。
1793年9月、塙保己一が、和学講談所を麹町につくった(7
 月23日説あり)。
1793年9月18日、ロシアから送還された漂流民の大黒屋光太
 夫と磯吉が、江戸城内吹上苑で、将軍・家斉と会った。
1793年、雉橋の野馬方で、安房嶺岡牧産の牛乳から白牛酷
 (バター)が試作された。
1793年、安芸の整骨医・星野良悦が、木製人骨を杉田玄白
 らの蘭学者に見せた。
1793年、大塩平八郎が生まれた(1793年〜1837年)
1793年、渡辺崋山が生まれた(1793年〜1841年)
1793年、アメリカ合衆国で、「奴隷取締法」が成立した。
  この法律には、奴隷制度を容認している上、さらに、
  条文の中には、「逃亡した奴隷は、殺しても良い」と
 いう条項もあった。
  奴隷解放なんて全くなされていないアメリカだった。
  リンカーン奴隷解放なんて、「完全なインチキ」だ
 った。
  1850年には、アメリカは、この法律よりさらに厳しい
 奴隷制の法律を作っている。
  「逃亡奴隷取締法」という卑劣な法律だった。
..
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