(増補版)202D2/3:気になった事柄を集めた年表(1809年〜1811年)

題:(増補版)202D2/3:気になった事柄を集めた年表(1809年〜1811年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1810年2月、松平定信が、房州海岸の警備を命じられた。
  これは最初の海防施設の設置についての指示だった。
  今の富津市の竹岡と千倉町の白子、そして、鏡ケ浦の
 波左間などに陣屋を設置し、洲崎には台場を築いた。
  今現在の研究によるとその個所は30か所以上となって
 いる。
  内房および外房に、また、犬吠埼にも数か所設置して
 いる。
  陣屋と言ってもしっかりした囲いの中に出来ていた。
  例えば、その一つである富津陣屋は24000平方メートル
 あった。
1810年3月、幕府の天文方の高橋景保(たかはしかげやす)
 が、間重富・馬場佐十郎らの協力を得て「万国全図(ば
 んこくぜんず)」を完成した。
  1816年に、銅版印刷をして官版の「新訂万国全図」が
 出るが、これは、単なる翻訳ではなく、独自性があふれ
 るものとなっている。
1810年7月、緒方洪庵(おがたこうあん、蘭学者、蘭医、
 教育者)が、備中(岡山県の西部)に生まれた(1810年
 〜1863年
  1830年に、江戸に出て蘭学を学び、
  そして、1836年に、長崎で医学を学び、
  その後、1838年に、大坂に戻り、医業のかたわら、蘭
 学塾(適塾)を開いた。化学なども講じた。
  洪庵の名声は高く、全国から俊秀が集まり、青年を教
 育した。
  塾内寄宿門人は637名を数え、外塾生を合わせての門人
 は3000人とも言われた。
  門人には、福沢諭吉橋本左内大村益次郎、大鳥圭
 介らがいる。
  明治期に日本で活躍した多くの人材を輩出した。
  洪庵は、1862年に、幕府からの強い要請を受け、奥医
 師と西洋医学所頭取に就任した。
  著書、訳書は多く、種痘の普及に尽力し、大坂に除痘
 館(じょとうかん)を設け、天然痘の予防に貢献し、
  また、蘭学の発展に貢献し、日本における西洋医学
 基礎を築いた。
1810年8月、洋画家・思想家の司馬江漢が「独笑妄言(どく
 しょうぼうげん)」を著した。
  司馬江漢の思想を説いた書で、
  序に顕微鏡が出て来る。
  顕微鏡でアリを観察したスケッチがある。
1810年10月、豊作になった。幕府は、非常時のために、諸
 大名に、1万石あたり非常用の囲籾(かこいもみ)1,000俵
 (囲米ならば500俵)を命じた。
1810年、藤林普山(ふじばやしふざん、蘭学者、医師)の蘭
 日辞書「訳鍵(やくけん)」が刊行された。
  普山は、1796年に、京都に出て、医学を学んだ。
  その時、稲村三伯(いなむらさんぱく、医師)の欄和
 辞書の「波留麻和解」を購入して帰郷し、蘭学を10年間
 独学した。
1810年、八隅蘆庵(やすみろあん)の「旅行用心集」が刊
 行された。
  初心者が、安全に旅行するための旅に出る際の心得を
 まとめたマニュアル本。
  「牛の糞を草履の裏へ塗って山道を歩けば、獣や蛇、
 まむし、毒虫などは、恐れて近づかない」
  旅の心得61ヶ条を始め、諸国の温泉、街道の里程など
 が記されている。
1810年代、ロシアが、ベーリング海峡からアラスカに支配
 権を拡大し、
  北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政策を進め
 ていた。
  この頃のアメリカは、イギリス領カナダと、国境の画
 定をすでにしていたが、
  太平洋側のオレゴンと呼ばれた一帯を、イギリスと領
 土紛争を続けていた。
  アメリカは、1823年に、モンロー宣言(ヨーロッパか
 らの干渉の拒絶、意識下に南北アメリカ大陸を支配下
 したいがあった。アメリカ大陸をアメリカの従属国的に
 勝手に言った形)をし、中南米は我が領土の様な態度で
 いたが、実際は、イギリスが守っていた。
  実際は、この頃のアメリカと言えば、インディアンの
 方々の土地を躍起になって奪っていた。
  アメリカは、中南米までの責任が取れるという体制で
 はなかった。
1810年代、各国でガス灯が実用化した。
  18世紀後半、すでに、ベルギー人やフランス人によっ
 て開発されたとする説がある。
  イギリスのマードックによって、1792年に実用化され、
 広く使われるようになった。
  ロンドンで1812年に、また、フランスで1819年に、ガ
 ス事業が開始され、世界の大都市にガス灯が普及した。
  日本では、1871年に、横浜の外人居住地に初めて点灯
 された(1872年に、横浜の馬車道本通りに初めて使用さ
 れたともある)。
19世紀の初め、ヨーロッパで生まれたチョーク。
  日本には、1873年に、フランスから輸入されたのが最
 初で、
  1875年に、杉本卯之助が、初めて国産品を作ったとい
 う。
1811年2月、蕃書和解御用掛(ばんしょわげごようかかり、
 翻訳局〉が設置された(5月説あり)
  幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関。
  幕府の編暦・測量を司る天文方内に置かれた。
  中心に居たのが高橋景保大槻玄沢らであった。
  初め「世界地図翻訳事業」のため、1808年から、長崎
 の通詞の馬場貞由(佐十郎)が呼ばれていたが、1810年
 に「新訂万国全図」の刊行で一段落した。
  しかし、1811年になって、馬場貞由の引き留めをして、
 「家庭百科辞書」の蘭訳本の翻訳を高橋景保の下で行う
 こととし、馬場佐十郎(貞由)が中心となって、大槻玄
 沢も参加して行われた。
  故に、事業は、フランスの家庭百科事典のオランダ語
 からの重訳となり、訳した書は「厚生新編(こうせいし
 んぺん)」とも呼ばれた。
  この事業は、安政のころまで続き、有能な人材を輩出
 した。
  オランダ語訳本から、実用的な項目を選択して翻訳し、
 蘭学の発達・普及に貢献した。
  因みに、重訳(じゅうやく)とは、原語から直接に翻
 訳するのでなく、一度ほかの外国語に翻訳されたものを
 通して翻訳すること。
1811年2月13日、村田春侮(むらたはるみ、国学者歌人
 が没した(1746年〜1811年、66歳)
1811年2月、オランダ通詞の本木正栄(もときまさひで、本
 木庄左衛門)が、「諳厄利亜興学小荃」を著した。
  日本で作られた最初の英単語集で、英会話集と言われ
 ている。
1811年3月5日〜6日、江戸市ヶ谷文化8年谷町の大火
  江戸の町に西北西の風が激しく吹いた午後3時頃、市ヶ
 谷谷町からの出火した。
  この火事で、四谷御門外の堀端の家々が一面全焼した。
  青山から赤坂溜池、麻布谷町、同市兵衛町、芝から赤
 羽橋あたりまで焼け、
  増上寺境内の宿坊を焼いて鎮火した。
  500人が死亡し、負傷者は数知れず、
  2万軒が焼失した。
1811年3月、間宮林蔵の北方地理誌の「東韃(とうたつ)地方
 紀行」が刊行された。
  幕府の命によって、樺太西岸を北上し、樺太が島であ
 る事を発見し(間宮海峡の発見)、
  また、黒竜江下流地域の東韃地方まで探検・調査した
 事について、間宮林蔵が口述したものを、村上貞助が編
 集・筆録した。
  1810年の成立で、1811年に幕府へ献上した。
1811年3月、烏亭(立川)焉馬(うていえんば、戯作者)
 の「花江都歌舞妓年代記」が刊行された。
  江戸歌舞伎の根本資料として貴重と言われている。
1811年5月、式亭三馬滑稽本の「浮世床(うきよどこ)」
 初編が刊行された。
  江戸庶民の社交の場であった髪結い床に集まる様々な
 江戸庶民の人物像と、陽気な会話・世間話を通して、当
 時の生活を克明に活写し、市民生活の側面があざやかに
 描き出されている。
  江戸庶民の生態が明らかにされ笑いの趣向も加わわっ
 ている。
1811年6月、ロシア艦長のゴローニンが捕らえられたゴロー
 ニン事件
  千島列島を測量していたロシア船ディアナ号の艦長・
 ゴローニンを、
  幕府は、偽計(ぎけい、人をあざむく計略)により逮
 捕し 、監禁した。
  [事件内容]:
  日本の領土の国後島に、ロシア軍艦の乗組員が上陸し
 た。
  船長をゴローニンと言った。
  ゴローニンらは、日本の松前奉行に捕えられた。
  牢に入れられ抑留(よくりゅう、おさえ留める事)さ
 れた。
  ゴローニン事件という。
  ゴローニンらは、水や薪が欲しかった。
  また、ゴローニンらは、北太平洋の測量をしていた。
  その後、ロシアは、幕府の御用商人の高田屋嘉兵衛
 捕まえ、2年後の1813年に、日露間で人質交換をして解決
 した。
  ナポレオンの生情報まで知っていた。
  また、幕府は、直接的な貿易をしているオランダに、
 外国情勢について報告させており、外国情報を知ってい
 た。
  徳川慶喜も、大政奉還後、自らをナポレオンになぞら
 えたくらいだった。
  日本は、清国と違い、外国の諸情勢を知っていた。
  黒船来航時は驚いたが、
  外国の諸情勢は知っていたので、条約交渉に後れを取
 る様な立場ではなかった。
  また、黒船は来るだろうとは思っていた。
  また、幕府は、したたかな事をしようとまでしていた。
  ゴローニンの部下に、ムール少尉という男が居た。
  この男は、親日的で、日本に帰化して通訳になりたい
 と思っていた。
  そのムールが書いた「ムール上申書」を、欧州で出版
 しようとまで試みていた。
  外国世論を動かしたいと思っていた。
  鎖国の中に、ただじーっとしている幕府ではなかった、
 日本ではなかった。
  日本の先人の勇気と英知の一端がうかがい知れる。
             (参考:読売新聞)
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