(増補版)189D2/3:気になった事柄を集めた年表(1789年〜1789年)

題:(増補版)189D2/3:気になった事柄を集めた年表(1789年〜1789年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1789年5月、フランス革命が始まる、国民議会結集
  フランス革命の始まりである第3身分代表の国民議会
 結集が始まった。
  三部会から国民議会への動きである。
  全国三部会は、1789年5月5日に、ベルサイユ宮殿で開
 催された。
  第三身分は約600人だった、その他、キリスト教聖職者
 や貴族議員が各々300人だった。
  第三身分議員は合同討議を主張し、6月17日の国民議会
 を宣し、他の派も合流して、この案は承認された。
  国民議会は、7月初めから、憲法作成の作業に取り掛か
 った。
  しかし、宮廷の保守派が、国王に圧力を掛け、軍隊を
 終結させた。そのため、パリ市民に極度の不安を与えた。
  1789年7月11日、国王ルイ16世は、この事態を引き起こ
 した責任者を罷免した。
  この知らせがパリに届くと、市民は激高した。
  1789年7月14日に、パリ民衆の約1万人が、政治犯を収
 容していたバスチーユ牢獄を襲撃した。
  王室親衛隊もこれに加担し、バスチーユを占拠した。
  監獄に居る囚人は、偽造犯4人、精神病者2人、浪費癖
 の若者1人の計7人であった。
  このパリ・バスチーユの監獄の襲撃で、フランス革命
 の火蓋は切られた。
  この日の朝10時、市民代表10人が、監獄で司令官から
 昼食のもてなしを受けていると、外の群集は「人質にさ
 れた」と興奮して行った。
  「司令官は騙し討ちをした」というデマが、口コミで
 パリじゅうに広がった。
  「兄弟が虐殺されている」というアジ演説で、バスチ
 ーユ襲撃は始まった。
  司令官は、身の安全を保障されて降伏した。
  しかし、失業中のコックがその首を切り、くまで(熊
 手)に刺して、市中パレードをやった。
  この後、憶測や風聞が流れ、「スパイだ」
 「陰謀だ」と言われた17000人もの命が、この時、断頭台
 で消えた。
  何と、多くの人々が卑劣なリンチ(私刑)にあったも
 のか? 低劣な行動をするものだ。
  「おお自由よ、汝の名の下に何と多くの罪が犯された
 ことか」という言葉を残して殺された人(女性)もいた。
  翌日、旧体制最後のパリ市長と守備隊長が殺され、宮
 廷の企図は阻まれた。
  パリは、自治制の確立に向かった。
  選挙人会から市長と国民衛兵隊司令官が任命された。
  地方でも、パリの運動に呼応するかの様に騒動が起こ
 った。
  1789年8月26日に、立憲議会は、人権宣言を可決した。
  この人権宣言には、『政治的平等』がうたわれてない
 と言われている。
  国王は、人間宣言への同意と、封建的特権の廃止にた
 めらった。
  (後に、しぶしぶ同意し、絶対王政への道は閉ざされ
 た)。
  1791年10月1日に召集された立法議会は、種々の対立で
 もめたが、戦争政策の流れの中にあった。
  1792年4月20日、国王は、オーストリアに宣戦した。
  国王の本当の内心は、外国軍によって、パリに起きた
 革命が抑えられる事を願っていた。
  1792年、共和制となった。
  1792年8月10日、八月十日事件が起きた。
  国民衛兵を先頭に市民の武装隊も加わって、数万が進
 撃し、多数のスイス人傭兵を殺害した。
  国王は、難を逃れたが、身柄は、新パリ市当局に引き
 渡された。
  王権は停止された。
  王党派の武装解除が断行された。
  1792年9月2日、民衆が、アベイ監獄などを襲い、宣誓
 を拒否したキリスト教聖職者を主とする囚人を虐殺した。
  1793年1月21日、ルイ16世が、公敵だとして処刑された。
  1794年、ロべスピエール(八月十日事件後に蜂起委員
 となっていた)の処刑で反動期に入った。
  1799年11月9日、ナポレオン・ポナパルトがイタリア方
 面軍総司令官としてオーストリア軍を連破し、フランス
 での名声を高めつつあった。
  そして、この日、シエイエスらと組んでクーデターを
 起こした。
  総裁政府を廃して、統領政府を樹立した。
  これで、フランス革命の流れが終わり、時代が収束し
 た。
1789年、英国の詩人・ウィリアム・ワーズワースは、
  フランス革命の報を聞くと、フランスへ渡った。
  忌(い)まわしい絶対王制が一掃されたと思った。
  ワーズワースが考えていた事は、反対者を投獄し、公
 正な裁判も無く、議会の投票制度も無い王制が一掃され
 たのだ・・と思っていた。
  これは素晴らしい出来事と思っていた。
  そして、ワーズワースは、それが見たかったのだった。
  しかし、実際、フランスに起きていた実態は・・、
  暴徒が、王の様に振る舞い、
  和平と和解の姿は、まったく無く、
  低劣な復讐の世界だけだった。
  見せしめの裁判、
  そして、旧官僚や貴族、そして、王族の「公開処刑
 が行なわれていた。
  各地で、ギロチンが使われ、
  死刑執行人が、恐怖政治さながらに、犠牲者の首を高
 々と掲(かか)げた。
  民主主義の欠片(かけら)も無かった。
  狂気と憎悪、政敵の無差別処刑だけだった。
  期待を裏切られ、恐怖におののいたワーズワースは、
 フランスから逃げ出した。
  (以上ポール・ケネディ氏筆・英歴史家、読売新聞)。
  これと似た事で、第二次世界大戦後、アメリカは、日
 本の政治指導者を、裁くべき法律が無いのに、裁判らし
 い擬似裁判を、世界注視のお膳立てを作って行った。
  そして、日本の指導者を死刑にした。
  これは、明らかに、分類上は私刑(リンチ)となる。
  また、歴史をたどるとキリスト教は、これ以上の卑劣 
 な公開処刑をした。
  魔女にした多くの女性を、広場に連れ出して、薪を、
 うず高く積み上げて、
  それも、すぐには燃え上がらない、燃えにくい生木(
 なまき)で、じわじわと陰湿に焼いた。
  そしてまた、キリスト教聖職者を先頭にして、ラッパ
 を鳴らして市中を練り歩き、騒ぎ立て、この様な卑劣な
 盛り上げの中で、公開処刑をした。
1789年8月2日、フォールン・ティンバーズの戦い:
  白人・アメリカ人とインディアンの方々の戦い
  白人・アメリカ人は、狡猾に先住民のアメリカ・イン
 ディアンの方々の土地を奪って行った。
  白人・アメリカ人に言わせれば、何らおかしい所はな
 いと言うが、歴史はごまかせない。
  当時のアメリカ・インディアンの方々をうまく籠絡(
 ろうらく、巧みに自分の思い通りに繰ること)したとし
 ても・・、
  そして、アメリカ合衆国の行うインディアンへの方々
 への軽蔑を伴う行為は、遂に、インディアンの方々の
 「誇り」を呼び覚ました。
  アメリカ合衆国は、貪欲に土地を奪って行った。
  インディアンの共有地であろうと、何であろうとお構
 いなしに奪った。
  インディアンの方々の共有の森は、白人たちのものと
 なった。
  もはや森の中で木を切ることも出来なくなった。
  木ぎれを拾い集める事も出来なくなった。
  今までの生活、伝統の、幸せな平和な生活が出来なく
 なった。
  インディアンの方々は、その幸せな生活を取り戻した
 いと願った。
  そして、伝統の、長い間、育まれて来た生活へ回帰し
 たいと、民族の団結を目ざして抵抗運動を組織した。
  この日も、アメリカ合衆国の将軍は、強烈な軍隊を引
 き連れて、オハイオ州を越え、進撃して行った。
  戦いは、当然、起きた。
  当然、インディアンの方々のファイトバックが起きた。
  しかし、果敢なその抵抗も、強烈なアメリカ軍の前に
 屈してしまった。
..
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