(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月〜1868年4月)

題:(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月〜1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月6日(3月14日)翌日の会談・・江戸開城談判
  再度、翌日に、西郷隆盛勝海舟との会談が行われた。
  幕府全権の陸軍総裁の勝安房(海舟)と、新政府軍参
 謀の西郷隆盛の和平交渉が行なわれた。
  幕府側は、大久保一翁(利通)や山岡鉄太郎(鉄舟)
 、東征軍側は、村田新八桐野利秋らが同席した。
  交渉は、江戸高輪の薩摩藩江戸藩邸だった。
  前日に続いての、この会談で、江戸城を開城し、新政
 府軍に明け渡されることになった。
  新政府軍による江戸城総攻撃は、4月7日(旧暦3月15日)
 と、この会談の日の翌日と予定されていたが、勝の説得
 に西郷が応じた。
  江戸が戦火に巻き込まれずに済んだ。
  この後、5月3日(旧暦4月11日)に、江戸城無血開城
 された。
  真の「名誉革命」だった(イギリスの名誉革命は偽り)。
  城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれた。
  徳川慶喜は、謹慎所の上野寛永寺から、水戸へ。
1868年4月6日(3月14日)品川談判2、
  勝海舟は、この日の事を書いた・・、
  「翌日、すなわち14日に、また、品川へ行って、西郷
 と談判したところが、
  西郷が言うには、「委細承知した。しかし乍ら、これ
 は拙者の一存にも計らい難いから、今より総督府へ出掛
 けて相談した上で、なにぶんのご返答をいたそう。
  ・・が、それまでのところ、ともかくも、明日の進撃
 だけは、中止させておきましょう」と言って、
  そばにいた桐野や村田に、進撃中止の命令を伝えたま
 ま、後は、この事について何も言わず、
  昔話などして、従容(しょうよう、ゆったりと落ち着
 いているさま)として、大事の前に横たわるを知らない
 ありさまには、俺もほとほと感心した。
  この時の、談判の詳しい事は、いつか話した通りだが、
 それから、西郷に別れて、帰りかけたのに、この頃、江
 戸の物騒なことといったら、なかなか話にもならないほ
 どで、
  どこからともなく、鉄砲玉が、始終、頭の上をかすめ
 て通るので、俺も、こんな中を、馬に乗って行くのは険
 呑(けんのん、危険な感じがするさま)だと思ったから、
 馬をば別当に引かせて、俺は、後からとぼとぼ歩いて行
 った。
  そして、ようやく城門まで帰ると、大久保一翁をはじ
 めとして、皆々が、俺のことを気遣って、そこまで迎え
 に出ておったが、
  俺の顔を見るとすぐに、「まずまず無事に帰ったのは
 めでたいが、談判の模様はどうであったか」と尋ねるか
 ら、
  その顛末(てんまつ)を話して聞かせたところが、
  皆も大そう喜んで、
  「今し方まで、城中から四方の模様を眺望していたの
 に、初めは、官軍が緒方から繰り込んでくるから、これ
 は、必定、明日、進撃するつもりだろうと気遣っていた
 が、
  先刻からは、また、反対にどんどん繰り出して行くよ
 うなので、どうしたのかと不審に思っていたのに、
  君のお話によれば、西郷が進撃中止の命令を発した訳
 と知れた」と言うので、
  俺は、この瞬間の西郷の働きが行き渡っているのに、
 実際、感服した。
  談判が済んでから、例え、歩いてとは言うものの、城
 まで帰るには、時間は幾らもかからないが、
  その短い間に、号令が、ちゃんと諸方へ行き渡って、
 一度、繰り込んだ兵隊を。また、後ろへ引き戻すという
 働きを見ては、西郷はなかなか凡の男でない、といよい
 よ感心した。
  ひっきょう、江戸百万の人民が命も助かり、家も焼か
 れないで、今日の様に繁昌しているのは、みんな、西郷
 が「諾(よし)」と言ってくれたおかげだ。
  俺は、始終、この事を思っている(氷川清話)
  勝海舟、再度、同所で西郷と会談、徳川恭順の旨を伝
 える。
  彼、よく情実を察し、明日の進撃を中止す(氷川清話)
  14・15の両日、薩摩屋敷で大総督府参謀・西郷隆盛と、旧
 幕府陸軍総裁・勝海舟の会談が行なわれた。(無血開城
 で交渉成立)。
1868年4月、海舟の後日談・・、
  海舟の「江戸城無血開城」の策が受け入れられなかっ
 た場合の・・次なる策の「江戸の町の焦土作戦」・・、
  そして、そのために用意した品々が・・、
  無血開城策が受け入れられたので、無用の長物となっ
 て・・品川の沖に捨てる事になり、
  その事を行なったが・・、余りに怪しい行為だったの
 で、大いに疑われた・・という、幸い、笑い話になった
 が、
  そこまで考えていた海舟を、結果として、この用意が
 無駄に終わって良かったのだが・・、
  人は、その愚を、海舟に感謝しつつ苦笑し、笑った。
  しかし、海舟に言わせれば・・、
  「予も亦甚だ愚拙(ぐせつ、愚かでつたない者、男性
 が自分をへりくだっていう語)を知る。
  然りといへども、若しかくの如くならざりせば、14、
 15両日の談、予が精神をして活発ならしめず、又、貫徹
 せざるものあり」。
  つまり、外交談判というものは、「気迫」である。
  いくら正理正論を述べても、人はその論に聞かず、そ
 の人に聞くものである。
  その気迫の充実、その気合いの鋭さによって、同じこ
 とを言っていても、通る時と通らない時とある。
  背景に力があり、自信がなければ、どんな立派なこと
 を言ってみても、それは「口舌の徒(こうぜつのと、言
 葉は達者であるが実行力の伴わない人を軽蔑していう言
 葉)」にすぎない。
  相手に見透かされてしまう。
  だから一見無駄なようであるが、それだけの用意、手
 配というものは無駄でないのである。
  西郷を押し切るだけの迫力があるかないのかが問題だ
 ったのである(氷川清話)
1868年4月6日(3月14日)五箇条の御誓文
  (民主主義は、日本自らのもの、既に持っていたもの、
 欧米から得たものではない)
  氷川清話:五箇条の御誓文が発す。
  明治天皇が、南殿に渡御し、公卿諸卿を率いて、天地
 神祇を祭り、五箇条の御誓文を下す。
  明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を
 標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。
  慶応4年1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事
 之体大意」五箇条を起案し、
  次いで、土佐藩出身の制度取調参与・福岡孝弟が、修
 正し、そのまま放置されていた。
  それを、同年3月に入って、長州藩出身の参与・木戸孝
 允が加筆し、同じく、参与の東久世通禧を通じて、議定
 兼副総裁の岩倉具視に提出した。
  昭和21年の天皇陛下人間宣言において、御誓文が引
 用されているが、
  天皇陛下が示されたお考えは、「これまでも皇室が決
 して独裁的なものでなかったこと示すために・・」と、
 明治天皇五箇条の御誓文を加えられた。
  また、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召し
 である・・そうして、五箇条御誓文を発して、それが、
 基となって明治憲法が出来たので、民主主義というもの
 は決して輸入物ではないということを示す必要が大いに
 あったと思います」と。(1977年8月23日、記者会見)
  「五箇条の御誓文」の、まず、最初に・・
  一、広く会議を興し万機公論に決すべし・・とある、
  これこそ・・民主主義である。
  第二次世界大戦のとき、日本は、民主主義を欠いてい
 たから侵略戦争を起こすに至ったと、アメリカは繰り返
 し、繰り返し・・言ったが、・・
  言いがかりだ。
  アメリカは、五箇条の御誓文などの日本の歴史の史実
 などを知っているのだろうか?
  「我々(アメリカ)は、知っている」が、日本は、民
 主主義を知らないと言うのは・・蔑視だろう。
  アメリカにある蔑視意識・・キリスト教国にある有色
 人種に対する蔑視意識である。
  欧米の民主主義に匹敵するものは、既に、日本にもあ
 った。
  また、平等の考えについても、とうの昔からある日本
 なのだ。
  平等院に見学に来る外国人たちに、欧米列国より、と
 うの昔からあるという話にびっくりするが、佛教にある
 平等の理念が、既に、日本にあった。
  西欧の市民革命より600年以上も前に、日本には平等の
 教えがあり、根付いていた。
  平等院という建物さえある。
  この1例の様に、日本には、その様な教えの数々がある。
  逆に、欧米にある唾棄すべき奴隷という意識・観念は、
 日本には、まったくない。
  キリスト教の聖書には、キリスト教の神が率先して「
 奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫び、隣国の民を自国のた
 めにだけに利用しようと奴隷観念を教え、そして、説く。
  その様な教え・教義に感化された社会とは違う日本な
 のだ。
  アメリカの独立宣言の文を書いたジェファーソン(第
 3代大統領))は、奴隷を多く使った大きな牧場を経営す
 る牧場主で、人種差別の悪の行為をしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive