(増補版)191D2/3:気になった事柄を集めた年表(1794年〜1798年)

題:(増補版)191D2/3:気になった事柄を集めた年表(1794年〜1798年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1794年、フォールン・ティンバーズの戦い:
  アメリカ合衆国アメリカ・インディアンの方々の戦い
  アメリカの領土の本当の持ち主であるアメリカ・インディ
 アンの方々への、アメリカ合衆国軍の掃討と名付けられた
 軍事行動・作戦は限りなく続いていた。
  この年の8月2日も、アメリカ合衆国軍のアンソニー・ウェ
 イン将軍は、合衆国軍を率いてオハイオ州を越え、進撃して
 行った。
  白人・アメリカ植民者(占領者)たちのインディアンの
 方々へ投げかける軽蔑の眼差しは、ついに、インディアン
 の方々へ民族の誇りを呼び覚ますことになった。
  アメリカ合衆国は貪欲に土地を奪って行った。
1794年1月10日、麹町から出火し、山王社や大名屋敷を類焼
 した。
  また、4月2日にも、新吉原が焼失した。
1794年5月、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、浮世絵
 師)が、版元の蔦屋重三郎から役者似顔絵・相撲絵など
 を次々と版行し、評判となった。
  この版元の蔦屋が非常に大事なプロデューサー役を演
 じていた。
1794年6月、幕府が、ロシアより帰還した大黒屋光太夫と磯
 吉に報奨金と月々の手当てを与えた。
  そして、みだりに外国のことを話すことを禁じた。
1794年8月、桂川甫周(かつらがわほしゅう、蘭方医で幕府
 の医官)が、「北搓聞略(ほくさぶんりゃく)」を著した。
  大黒屋光太夫が、ロシアで10年間に渡って体験したこ
 とを聞き出したもの。
  桂川甫周が、将軍引見の際に列席し、尋問、聞き書き
 して、このロシア事情紹介書を著した。
1794年9月、酒造制限解除:
  幕府が、この年の酒造高を、1786年までの造り高の3分
 の2とし、制限を緩和した。
1794年9月、幕府が、土佐藩の蜂蜜などの様な薬種献上を各
 大名に命じた。
1794年10月、倹約令を10年延期した。
1794年、千葉周作(ちばしゅうさく、剣客)が生まれた
 (1794年〜1855年)(生年に1793年説あり)
  陸奥(むつ)国栗原(くりはら)郡に生まれた。
  北辰一刀流の開祖、江戸神田お玉が池に開いた玄武館
 道場が江戸三大道場の一つとして繁栄した。
  門弟3600名、坂本竜馬も門下、
1794年、水野忠邦(みずのただくに、大名)が生まれた
 (1794年〜1851年)、老中となる。
  将軍・徳川家慶に信任され、天保の改革を断行した。
1794年、施策:常夜灯の設置、
  幕府が、東海道逢坂に常夜灯の設置を許可した。
1794年4月、ペリーが生まれた(1794年〜1860年
  アメリカ海軍の軍人、日本へ来航し開国を求めた。
1795年1月9日、初代の横綱免許の一人である、谷風梶之助
 (たにかぜかじのすけ、力士)が没した
 (1750年〜1795年)(46歳)、陸奥(むつ)の人、
  63連勝の記録を持つ大力士、309戦258勝、優勝22回、
  京坂場所を入れると98連勝、負けはわずか14回、
1795年3月、医師の橘南谿(たちばななんけい)が、諸国を
 遊覧体験を記した「西遊記」の刊行が始まった。
  8月には「東遊記」の刊行が始まる。
1795年7月17日、円山応挙(まるやまおうきょ、画家)が没
 した(1733年〜1795年)(63歳)
  「雪松図屏風」(国宝)
1795年10月3日、幕府が、女髪結に商売替えを諭した。
  華美な風俗の取締りを強めていた幕府が、風俗を乱す
 とした。
  豊かな江戸の流行の中で、髪型を追及する女性たちは、
 幕府の禁令には耳を貸さなかったという。
1795年10月4日、幕府が、前年に続いて酒造高の規制上限を
 緩和し、1786年までの造り高を許可した。
1795年11月14日、大坂の定番同心の家職を継いだ高橋至時
 (たかはしよしとき、天文暦学者)が、幕府天文方に登
 用された。
  弟子に伊能忠敬がいる。最初の天文家と言われる。
1795年、鹿狩り
  家斉が、下総小金ヶ原に鹿狩りをし、一日でシカ95頭、
 イノシシ13頭などを捕らえたという。
1796年1月、幕府が、薬種として白牛酪(バター)の販売を
 公表した。
1796年2月18日、稲村三伯(いなむらさんぱく、医師)らが、
 蘭和辞典の「波留麻和解(はるまわげ)」を完成した。
  完成まで13年を要したという。
  オランダのF・ハルマの出版した蘭仏辞書を底本とし
 たもので、語数が約8万を集録している。
1796年3月8日、幕府が、諸大名へ、行列の風俗質素や、往
 来の邪魔にならない供の間隔について、触れを出した。
1796年5月28日、幕府が、肥前藩儒者の古賀精里(こがせ
 いり)を昌平坂学問所の教授に登用した。
  朱子学の振興に努力した。
1796年10月、幕府が、医学館への薬種料を100両から200両
 へ増額した。
  医学館は金沢藩の藩校、
  教授:黒川良安(医)、スロイス(医)、
  卯辰山(うたつやま)養成所を起源とする。
1796年12月6日、琉球使節が、江戸城で将軍・家斉と会い、
 芭蕉布・久米錦・焼酎・泡盛酒などを献上した。
1796年、この年、江戸で橘(たちばな)の鉢植えが大流行
 した。
  橘は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種。
1796年、清国が、アヘンの輸入を禁じた。
  イギリスとの貿易で、清国は、二重の深刻なる重荷を
 背負わされていた。
  一つは、イギリスが、どんどん麻薬のアヘンを、中国
 国内へ流入させ、麻薬中毒患者が急増し、国民の心身が
 劣悪になって行った。
  今・現代では、死刑判決が出るような極悪行為である。
  二つ目は、中国国内の銀の国外流出が、はなはだしく
 急増した。
  イギリスと貿易を始めた当初は、イギリスが買いたい
 ものが多く、イギリスの輸入超過だった。
  その支払いで、支払う銀がイギリスから流出し、イギ
 リスは、この銀の流出を止めたいと、禁じ手の麻薬輸出
 を始めた。
  これが中国・清に蔓延し、銀の支払いが逆転し、中国
 から銀の流出となった。
  イギリスは、卑劣な手を使った。
1796年、トレヴィシックが高圧蒸気機関の開発に成功した。
1796年、シーボルト(西ドイツ、医者、博物学者)が生ま
 れた(1796年〜1866年)
  オランダ商館の医師として来日した。
1796年、カジャール朝が興る(1796年〜1925年)
  イランのトルコ系王朝、首都:テヘラン
  1925年に廃されてパフラビー朝が成立した。
1797年1月、幕府が、輸入薬種の高値是正のため,14品目に
 ついて、過去の売り出し相場より安価で取引する様に令
 した。
1797年4月14日、幕府が、油の流通把握のため、少量の人力
 絞り用以外の菜種・綿実のすべてを、大坂・兵庫へ送る
 ように命じた。
  また、領主には、大坂町奉行への生産額・回送高の届
 け出をする様に命じた。
  これによって、幕府は、流通商品の口銭の実態を奉行
 所に把握させた。
1797年7月、イギリス船が、再び、蝦夷に来た。
  蝦夷地の不安定化に対し、幕府は、1793年に、既に、
 弘前藩の軍勢の281人を松前へ派遣し、
  また、この1797年のイギリス船の来航に対応して、500
 人が函館へ派遣されていた。
  幕府は、ちゃんと防備を計っていた。
  そして、幕府は、この年に、国後、択捉を調査し、東
 蝦夷地(函館から択捉まで)を直轄領とした。
  そのうえで、東蝦夷地の要所を弘前藩盛岡藩に警備
 させることにした。
  この5年後に、函館奉行も創設し、責任者も任命してい
 る。
1797年9月11日、幕府が、金銀貸借などの金公事(訴訟)に
 つき、相対済し令を発令した。
1797年9月、幕府が、質屋の質物不法取り扱いについて、
 処罰を決めた。
1797年10月、料亭で、江戸小咄を披露する会が流行した。
  幕府は、質素倹約などの面から禁止した。
1797年11月18日、幕府が,翌年からの新暦採用を公表した。
1797年12月1日、幕府が、湯島聖堂を幕府の官学とし、学問
 所と改称した。
1797年12月18日、西洋医学を紹介した宇田川玄随(うだが
 わげんずい、蘭方医津山藩医)が没した(1755年〜
 1797年)(43歳)。
  大槻玄沢に入門し、杉田玄白前野良沢に学ぶ。
1797年12月18日、漁船などが、外国船と遭遇することが多
 いため、幕府は、穏便に処理するように改めて命じた。
1797年、この年に、「絵本太閤記」初編が刊行された。
  庶民の圧倒的人気を得た。
  これによって、豊臣秀吉像が 形成された(1802年完結)。
1797年、安藤広重(あんどうひろしげ、浮世絵師)が生ま
 れた(1797年〜1858年)、
  江戸八代河岸の幕府定火消同心の子として生まれた。
  歌川豊広に師事、本性が安藤、広重の名を与えられ、
 歌川広重ともいう。
  代表作の「東海道五十三次」など、諸国風景や江戸名
 所を多数描いた。
1798年、日本の総人口: 25,471,000人
1798年2月、幕府が、唄・浄瑠璃・三味線などの女師匠が、
 男子の弟子にとることを戒めた。
  特に、武士の 女師匠への入門を禁じた。
1798年4月、国東治兵衛(くにさきじへえ、殖産家)の「
 紙漉重宝記(かみすきちょうほうき)」が刊行された。
  国東治兵衛は、岩見(島根県)の紙問屋に生まれた。
  また、石見半紙の興隆と普及につとめた(1743年〜?)
  紙漉重宝記は、石洲半紙の製法を図入りで懇切丁寧に
 解説した名著と言われていて、名高い著となっている。
1798年 5月1日、品川沖で鯨が捕れた。
  5月3日に、代官の差配で、浜御殿の海へ回して、将軍・
 家斉が見物した。
1798年5月、庶民が、慶長銀など古銀を貯蔵するため、幕府
 は、銀座での古銀引き替え促進を命じた。
  以後3カ年の各古銀交換比率を定めた。
1798年5月、塙保己一が、「群書類従」の版木の防火保管の
 ため、用地借用を、幕府へ願い出た。
  幕府は、土地の貸与と、地代などを決めた。
1798年6月、大坂から来た岡本万作(おかもとまんさく)が、
 神田で落語寄席をはじめた。
  江戸の寄席興行創始者と言われる。
  また、烏亭焉馬(うていえんば、戯作者、落語を自作
 自演し、落語中興の祖と言われる)が、小咄集「無事志
 有意(ぶじしうい)」を発刊した。
..
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