(増補版)181D2/3:気になった事柄を集めた年表(1774年〜1775年)

題:(増補版)181D2/3:気になった事柄を集めた年表(1774年〜1775年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1774年、ラヴォアジェ(フランス)が燃焼を説明し、質量
  不変の定律を提唱した。
1775年、間宮林蔵(まみやりんぞう、探検家)が生まれた
 (1775年〜1844年)樺太の探検家、
  常陸(ひたち)国筑波郡の農民の出身、
  1790年頃に、江戸に出て地理学を学ぶ、
  1796年に、数学の才が認められて、普請役雇として幕
 府に出仕した。
  1800年に、蝦夷地の測量(蝦夷地御用雇)を命じられ、
 幕吏・村上島之允に従い蝦夷地に渡った。
  蝦夷地の箱館で、蝦夷地測量中の伊能忠敬に会い、忠
 敬に測量術を学んだ。
  1803年に、西蝦夷地を測量する。
  1808年に、幕命によって、松田伝十郎と共に樺太(サ
 ハリン)を調査し、
  1809年の夏に、再び、樺太に渡り、北西岸の調査の後、
 ギリヤーク人に同行して黒竜江アムール川下流を探
 検し、満州仮府デレンを訪れ、周辺諸民族の清国への朝
 貢の実態を調べた。
  そして、樺太が島であることを確認し、
  樺太と大陸間の海峡の存在の問題を解決し、樺太地図
 を作成した。
  シーボルトは、この海峡を「間宮の瀬戸(間宮海峡)」
 と名付け、世界に紹介した、
  日本人の名がついた唯一の地名となっている。
  また、千島諸島にまで検地を進めた。
1775年3月、長久保赤水(ながくぼせきすい、地理学者、漢
 学者)が、「日本輿地路程全図(にほんよちろていぜん
 ず)」をつくる(1774年説あり)
  修正に努め、1779年に、「改正日本輿地路程全図」を
 大阪で出版し、普及に努めた。
  この間、水戸藩主の侍講となる。
  1785年には、世界地図「地球万国山海輿地全図説」や、
 中国地図「大清広輿図」も出版している。
  明治初年まで、版を重ね、普及している。
1775年、上杉鷹山(上杉治憲)が、国産所・備荒倉などを
 創設する。
  また、日頃から、家臣らや侍医らに、代用食となる動
 植物の調査・研究が必要と説き、
  自らも飢餓救済の手引書を執筆した。
  「いろは」順に、草木果実などの特徴と調理法につい
 て、
  また、食糧の保存法や、みその製造法、魚や肉の調理
 法について詳しく説明されている。
  また、「かてもの」(主食である穀物とともに炊き合
 わせ、食糧不足に陥った際に節約するための代用食とな
 る食物)を刊行している。藩内に配布した。
  米沢藩は、天明の大飢饉においても、1人の餓死者が出
 さずに済んだ。
  また、鷹山は、跳ね上がった米価の米を、新潟などか
 ら買い求め、領民に分け与えている。
1775年4月19日〜1783年9月3日、アメリカ独立戦争
  アメリカで、1775年に、ちょっとしたことで武力衝突
 が起きた。
 アメリカの宗主国(そうしゅこく、従属国・アメリ
 に対して、宗主権を持つ国家)イギリスと衝突が起きる。
  ボストン近郊で、アメリカ抵抗派の武器を押収しよう
 としたイギリス軍と、駆けつけたアメリカ植民地民兵
 の衝突が起きた。
 この衝突が、アメリカの独立戦争の発端となった。
  日本をあらゆる面で押し付け、あらゆる物資の禁輸を
 したり、すべての面で圧力を加えたアメリカに対して、
 日本が戦端を開いたのと同じ行為が起きた。
  アメリカのマッカーサーが、「日本は、自国の自衛の
 為に、第二次世界大戦の戦端を開いたのだ」と言った事
 と同じことが起きた。
 アメリカ側は、制海権がイギリスに握られているので
 ヨーロッパからの武器輸入がままならなかった。
 アメリカは、各地の戦いに惨敗した。
 司令官のワシントンは、フランスやスペインの参戦を
 期待した。
  アメリカの味方となって参戦する事を期待した。
 ニュージャージーに進軍したイギリス軍が、略奪や、
 婦女に対して卑劣な強姦行為を行なうという愚行も起き
 たりした。不埒な国だ。
  この様な中で、北アメリカ地域のイギリスの植民地で
 発行されていた4つの新聞が、不思議なことなのだが、
 最初は3分の1しか「独立を支持をしていなかった」。
 新聞メディアは、完全に『独立に反対の姿勢』だった。
  独立が達成されるとみていなかった。
 しかし、だんだん独立支持へと変わっていった。
  日和見的な、不埒は新聞・ジャーナリズムだった。
1775年、マラータ戦争が起きた。
  イギリスが、インドにおいて煽った戦争。
  三度に渡って戦われた。
  インドのマハーラーシュトラ州の方々を相手に、イギ
 リスは弱い者いじめの戦争をやった。
  イギリスにとって、民族的なまとまりを持った、また、
 伝統を持った方々が気になった。
  表面的には、マラーター王国の宰相が野心を起こして
 イギリスに支援を求めたとなっている。
  第二次の戦いは、マラータの最有力の候が、イギリス
 と戦い、やっつけられた、イギリスは広大な土地を奪っ
 た。
  インドの諸侯たちは、イギリスと結ぶほか、生き残れ
 る道はなかった、他の道は閉ざされていた。
  イギリスに歯向かって敗けた宰相は流された。
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