(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月〜1889年1月)

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題:(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月〜1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年アメリカ合衆国のショエリダン将軍が没した。
  この将軍の有名な言葉に、
  「私がこれまであった中で最も良いインディアンは死
 んだインディアンだ」。
  まったく卑劣な人種差別の言葉である。
  アメリカの将軍たちは、インディアンの方たちに対し
 て、この様な人種差別意識を持っていた・・そして・・、
  『病的なまでの憎悪』を持っていて、強力な武器で、
 あまりにも残忍なやり方で、インディアンの方々を殺戮
 して行った。
  「徹底殲滅の姿勢」、この時に、アメリカ政府の指令・
 取らせていた姿勢が・・この「徹底殲滅の姿勢」だった。
  (参考)
  ショエリダン将軍:(1831年1888年)両親は、アイ
 ルランドのキャバン州からの移民。
  リンカーンが、シェリダンについて言った・・、
  「褐色のがっしりした小男(身長:165cm)、胴長短足
 で、絞首台に吊るすには不十分な短い首、足首がかゆけ
 れば屈むことなく掻くことができる長い腕」・・と。
  リンカーン人間性も分かる言葉となっている・・、
  陸軍士官学校の時、級友と喧嘩して、銃剣で突き殺そ
 うとした(そして・・1年間の停学)。
  このショエリダンの言葉である「最も良いインディア
 ンは・・死んだインディアンだ」は、アメリカで流行語
 となり、白人アメリカ人に、度々、使われた。
1888年8月31日、イギリスで、「切り裂きジャック」による
 最初の殺人事件が発生した。
  19世紀末のロンドンの売春婦連続殺人犯「切り裂きジ
 ャック」の犯行だった。
  (参考)
  切り裂きジャックは、1888年にイギリスで連続発生し
 た猟奇殺人事件の犯人の通称。
  未解決事件であり、21世紀の現在でも犯人の正体につ
 いてはいくつもの説が唱えられている。
  解剖学的知識があるとされて、ジャックの職業は、医
 師だという説が有力視されているが、近年、肉屋である
 という説も有力とされている。
  また、被害者に抵抗の後がない事から、同性の女性だ
 という説もある。
  被害者数は、5人から20人とする説がある。
1888年9月3日、帝国イギリス東アフリカ会社
  イギリスのビクトリア女王が、東アフリカ会社の勅許
 をウィリアム・マッキノンに与えた。
  帝国イギリス東アフリカ会社は、イギリス王室勅許状
 を受けた特許会社で、
  スコットランド出身の資本家であるマッキノン(1823年
 〜1893年)が創設したイギリス領インド蒸気船海運会社が、
 東アフリカのザンジバルへの航路を1872年に開設した際、
  さらに、内陸への進出を計画したことが端緒となった。
  1885年に、ドイツ東アフリカ会社が、ザンジバルの対
 岸の本土部へ進出すると、
  イギリスは、ザンジバルの首長を通して、東アフリカ
 沿岸を間接的に確保しようとした「それまでの方針」を
 変え、
  マッキノンが以前から主張していた商事会社による内
 陸統治という考えをとるようになった。
  特許会社は、王室から独占特許状を与えられて、貿易
 や生産の独占をしようとして許された会社で、
  ある範囲の行政権限をもって、植民地経営を行なった
 会社で、植民地統治をした組織であった(実質はイギリ
 ス)。
  1895年には、イギリス政府が自ら統治に乗り出し、東
 アフリカ保護領が形成された(イギリス領東アフリカ)。
 イギリスの植民地である(本性が飛び出した)。
  さらに、1920年には、ザンジバルの首長の権益が残っ
 ていた海岸部を合わせて、ケニア植民地、および、保護
 領とした。
  最初は、モンバサ港周辺にイギリスが持っていた商業
 利権をもとに、
  1888年、勅許会社の帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA)
 が設立されて・・経営(統治)が開始され、
  1895年に、現在のケニアに相当する部分が保護領とな
 り・・、この保護領は・・
  1920年に、直轄のケニア植民地となる。
1888年、イギリスが、サラワク王国ブルネイ、北ボルネ
 オを保護国化(実質の植民地)した。
  1841年、ブルネイのスルタンが、イギリス人探検家ブ
   ルックにサラワクを領地として与え、「白人藩王
   が誕生した。
  1846年、サラワク王国が、ブルネイから独立した。
  1881年、イギリスの北ボルネオ会社が、サバを租借し
   た。
  1888年サラワク王国北ボルネオ会社に、領土を侵
   食されたブルネイが、イギリスの保護領となった(
   乗っ取られた)。
  1890年、サラワク王国が、リンバン川流域を併合した。
   テンブロンは、ブルネイ本土から切り離された。
  1963年、サラワクとサバが、マレーシア連邦に参加し
   た。
   ブルネイは、イギリス領のまま残り、テンブロンは、
   その飛び地となった。
  1984年、ブルネイが、イギリスから独立した。
  ボルネオ島の北側にあるブルネイは、古くから中国の
 文献に交易拠点として記載されて、アジアとヨーロッパ
 を結ぶ「海のシルクロード」の中継地として繁栄してい
 た。
  18世紀に、東側にあるサバが、「海賊の島」として有
 名なスールー諸島のスルタンに取られてしまった。
  そして、19世紀には、内乱が起こり、ブルネイのスル
 タンが、1839年に、やって来たイギリス人の探検家ジェ
 ームズ・ブルックに鎮圧を頼んだ。
  そして、鎮圧に成功したブルックに、スルタンはクチ
 ン(現在サラワク州の州都)を領地として与えてラジャ
 (藩王)に任じた。そうしたら・・、
  ブルックは、白人王(ホワイト・ラジャ)に即位して
 サラワク王国を作った(国を乗っ取った)。
  そして、イギリスの保護の下で、次々とブルネイの領
 土を奪って拡大していった(植民地の拡大)。
  1881年、一方のサバも、イギリスが作った北ボルネオ
 会社が、この年・1881年、スールー島のスルタンから租
 借し、ブルネイの領土を侵食しながら拡大して行った。
  こうして、東西から挟み撃ちにされたブルネイは、残
 った領土を保全しようと、
  1888年に、イギリスの保護領になったが、間もなく内
 陸部からも勢力を拡大していたサラワク王国にリンバン
 川流域を奪われて、テンブロンは飛び地になってしまっ
 た。
1888年11月14日、パストゥール科学研究所が設立された(
 1887年説あり)
  L・パスツールの業績を記念して、1888年、パリに設立
 された医学研究所。
  設立にあたっては、フランス内外・世界からの醵金(き
 ょきん)による多くの寄付金が寄せられた。
  また、11月14日の開所式には、フランス大統領が列席
 するなど、この研究所は、当初からフランスにおける、
 伝染病の研究・治療の中心としての役割が期待された。
  そのため、この研究所には、所長のパスツール以下、
 彼の弟子たちを中心に優秀なスタッフが集められた。
  彼らは、狂犬病など伝染病の予防と治療にあたるほか、
 生物化学や細菌学など基礎的研究に取り組んだ。
  創設時の建物は、現在、パスツール博物館となってお
 り、彼が使用した顕微鏡はじめ、各種実験器具類が、完
 全に保存されているほか、
  自然発生説否定のために創案した「ハクチョウの首型
 フラスコ」や、研究発表のための乳酸菌・酵母などの微
 生物形態図、カイコの図なども保存されている。
1888年6月15日、ドイツのヴィルヘルム2世が即位した。
  (〜1918)
  独帝フリードリヒ3世死去し、ヴィルヘルム2世即位。
  年に二回皇帝が代わったことから「三皇帝年」と言わ
 れた。
  プロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世)と、
 イギリス王女ヴィクトリアの長男としてベルリンに生ま
 れた。
  1888年に、祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世
 が相次いで死去したことにより、29歳でドイツ皇帝・プ
 ロイセン王に即位した。
  祖父の治世において、長きにわたり宰相を務めたオッ
 トー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始
 し、治世前期には、労働者保護など社会政策に力を入れ、
 社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。
  しかし、その後保守化を強め、社会政策にも消極的に
 なっていった。
  1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は、政治的権
 力を大きく落とした。
  一方外交では、一貫して帝国主義政策を推進し、海軍
 力を増強して、新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリ
 スやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、
 最終的に第一次世界大戦を招いた。
  オーストリアハンガリーオスマン=トルコ、ブル
 ガリアと同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相
 手に4年以上にわたって消耗戦・総力戦で戦うこととなっ
 た。
  1916年に、パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエ
 ーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が
 成立すると、ほとんど実権を喪失した。
  大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなく
 なった国民の間で不満が高まり、ドイツ革命が発生する
 に至った。
  革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正
 行なったが、革命の機運は収まらず、結局オランダへ亡
 命して退位することになった。
  そのままなし崩し的に、ドイツは、共和制(ヴァイマ
 ル共和政)へ移行し、ホーエンツォレルン家は、ドイツ
 皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。
  ヴィルヘルム2世自身は、戦後もオランダのドールンで
 悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支
 援した。
  1925年に、ドイツ大統領となったヒンデンブルクは、
 帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政
 復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラ
 ーによる独裁体制が誕生したことにより復位の可能性は
 なくなった。
1888年11月2日、咸宜帝(かんぎてい)が仏官憲に引渡され
 た。
  阮朝(グエンちょう)は、1802年〜1945年にかけて存
 在したベトナムの王朝。
  咸宜帝(かんぎてい、1872年7月22日〜1943年1月14日)
 は、阮朝の第8代皇帝(在位:1884年〜1885年)
  1884年に、13歳で即位したが、
  1885年・翌年に、抗仏勤皇大蜂起の檄を発して王都フ
   エを脱出、地方の在地知識人にフランスへの徹底抗
   戦を訴えた。
   フランスは、ただちに兄の同慶帝を立て、咸宜帝に
   帰順を呼び掛けた。
   咸宜帝はこれに従わず、農村を転々として抵抗を続
   けたが、
  1888年、ついに捕らえられてアルジェリアに配流され
   た。
   やがて、現地でフランス人女性と結婚し、3児をもう
   けた。
  1943年、72歳で死去した。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  (北洋海軍創設)
  中国、清末期の新式海軍・主力艦隊。
  李鴻章によってつくられ、『定遠』『鎮遠』など甲鉄
 砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装甲砲艦1隻を中心とした。
  威海衛に基地を置き清国海軍の主力であった。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問して、中
 国海軍の主力として勢威を誇った。
  海軍の戦備が劣っていた日本に衝撃を与えた。
  中国海軍の主力として勢威を誇ったが、日清戦争で惨
 敗し、壊滅した。
1888年5月13日、ブラジルで摂政イザベル皇女が奴隷制廃止
 法案に署名 (米大陸の奴隷制終焉)
  キリスト教は、キリスト教の神が容認した慣行として
 「奴隷制が認められている」。
  キリスト教聖書にも、キリスト教の神が「奴隷にせよ。
 奴隷にせよ」と叫んでいる。
  この様に、キリスト教という「宗教として容認する」
 という形態であったことで、無くなることなく人類の歴
 史に続いて来て、悲しい歴史を刻んだ。
  また、卑劣な事に、その事がキリスト教の聖書にも書
 かれているからこそ、消えることなく、
  奴隷制は人類の歴史の中で無くなることなく続いた。
  日本においても、キリスト教宣教師がからんだ南蛮貿
 易で、日本女性が奴隷(性奴隷)として売られている。
  1582年、天正遣欧少年使節の少年たちも港々に居る売
 られた日本女性を見ているが、そのことは秘密にされ、
 キリスト教によってプロパガンダ(嘘宣伝)された。
  織田信長は、キリスト教宣教師がその様な悪とは知ら
 なかったが、豊臣秀吉は、その情報を得て、臣下に確認
 を行わせ、その事実を知り、政策を一転させた。
  1587年7月、キリスト教の禁教の施策となった(天正
 遣欧少年使節の5年後)。
  1596年、再び、秀吉が禁教令を出す。
  従った宣教師たちは、長崎出島から、ちゃんと出航し
 て行ったが・・、
  問題なのは、違反して、日本に潜伏した宣教師たちだ
 った。
  秀吉が、ちゃんと法を発令したのにもかかわらず、法
 に従わないキリスト教宣教師たちが居た。
  また、その宣教師たちは、日本の一般民衆を惑わした。
  そのため、再び、禁教令が出された。
  取締り行為もせざるを得ず、行なった・・この事を、
 キリスト教は「殉教だ、殉教だ」と騒いだ。
  法律に従わない「お前たちが悪いのだ」。
  法律違反行為者を取り締まるのは当たり前だ。
  その代表例が、キリスト教が「日本二十六聖人」と美
 化している人たちだ(法律違反者たち)。
  法に従わなかった人々、または、地下に潜ったキリス
 ト教聖職者たちに惑わされて法を破った人たちである。
  秀吉は、マニラのキリスト教本部にも「領土的野心を
 持たぬ事」と通達している(キリスト教宣教師は、日本
 の植民地化への先兵となっていた)
  この様な事は、歴史教科書から一切が隠されている。
1888年10月29日、スエズ運河の自由航行に関する条約締結
  1869年に開通したスエズ運河は、1882年以降、イギリ
 スによって軍事占領された。
  これに対し、ヨーロッパ諸国が、運河の自由通航の保
 障を求めたため、この条約が締結された。
  原締約国は、イギリス、ドイツ、オーストリア=ハン
 ガリー帝国、スペイン、フランス、イタリア、オランダ、
 ロシア、オスマン帝国(日本は加入してない)
  この条約は、運河の自由航行を定めているが、戦時に
 は、しばしば、航行が阻害された。
  第二次世界大戦中に、枢軸国の艦船が通航を拒まれた
 のをはじめ、
  1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)では、一時運
 河が封鎖された。また
  1967年の第三次中東戦争による運河の閉鎖は、1975年
 まで続いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ヤルタ会談・・くせものの会談・・密約のある会談・・
    嘘をつく癖のあるキリスト教に洗脳されたルーズベルトも・・同じだった・・
.
1945年2月3日、ヤルタ会談をするため、アメリカ大統領ル
 ーズベルトが、黒海に突き出たソ連領のクリミア半島
 突端のヤルタに着いた。
  ソ連スターリンは、まだ着いてない。
  ルーズベルトスターリンの会談は、翌日・4日、午後
 4時に、スターリンの表敬訪問の形で始まった。
  1943年11月のテヘラン会談以来の約15か月ぶりだった。
  互いに戦果を褒め合い、打ち解けたムードだった。
  フランスを参加させるか?と、その第二次世界大戦
 終結が見えている状況のこの中で、フランスの功績につ
 いての話になった。
  「フランスに、参加する資格はあると思いますか?」
 とスターリンは言った。
  二人は、すでに、「フランスの功績は無かった」で合
 意していたが、この言葉が出た。
  ルーズベルトは、「あるとすれば、それは親切心から
 ですな」と言い、同席しているソ連外相のモロトフと共
 に、一同は、大声で笑った。
  日本の「に」の字も出ない。
  「日本は、すでに決着している」という一同の認識だ
 った。
  この会談自体が、第二次世界大戦後の勢力圏をどう配
 分するか?に、思惑を巡らす状況だった。
  日本は、「完全に、負けるから」の認識の中にあった。
  世界の勢力圏の話し合い、駆け引きだった。
  すでに、イギリスとソ連の意見が、合わない状況にあ
 った。
  つまり、日本への原爆投下の必要性は、この時点でさ
 え「まったく、無かった」、必要性はないの認識の中に
 あった。
  死に体の日本、原爆投下の必要性なし・・だった。
  キリスト教の「シャローム」の教義=異教徒の完全抹
 殺の後に、平和が訪れるという迷信に洗脳された、キリ
 スト教徒のルーズベルトは、「無条件降伏を要求」して
 たが・・、イギリス首相も驚くという「無条件降伏を日
 本へ要求」していて・・、
  そして、異教徒の完全破壊の教義に洗脳された頭の中
 から、「原爆投下が出てきた」。
.
1945年2月8日、ヤルタ密約
  千島列島は、日本のものです。
  びっくりなさるかもしれませんが、北方四島はもちろ
 んの事・・千島列島も日本のものです。
  ただ、厳しい言い方だが、『ルーズベルトが、馬鹿だ
 った』。
  1945年2月8日、ヤルタ密約の協議が行われた。
  この協議で「ソ連の対日戦争を始めること」について
 話し合われた。
  この協議に参加したアメリカ大統領のルーズベルトは、
 まったく、この協議に関する基礎知識がない状況だった。
  ここが悲しい事だった。
  「有色人種の日本の事だ」と軽く見ていた。
  この様な人間性ルーズベルトだった。
  本当に、キリスト教の有色人種蔑視観というのは多く
 の有色人種の方々へ悪影響を与えている。
  この場のルーズベルトもそうだった。
  まったく、当事者能力が不足しているのであった。
  この協議に同席したアメリ国務省ソ連専門家・ボ
 ーレンは、戦後に、この場のルーズベルトの交渉が、ま
 ったくお粗末だった事を、「厳しく批判した」。
  最大の、最高の交渉者であるべき、このアメリカ大統
 領のルーズベルトの認識の無さはゼロに等しかった。
  「樺太や千島列島」が、日本領土になっているのは、
 「日露戦争で日本が得た」・・と、間違って認識してい
 た。
  ボーレンは、このソ連との協議のために、「基礎知識
 が書かれた本」を、ルーズベルトへ渡していた。
  しかし、ルーズベルトには、まったく、この基礎知識
 が頭に入っていないという事に、ボーレンは、この協議
 が始まって気づいた。
  ルーズベルトは、この基礎知識の本に、目を通してい
 なかった。
  読んで居なかった。頭に入れていなかった。
  事実関係を、まったく理解していないで、協議に臨(
 のぞ)んでいた。・・オソマツ・・
  ボーレンは、「千島列島は、ソ連へ渡すべきではなか
 った」・・と言っている。
  しかし、悲しいかな・・と言うべきか? 愚かな者た
 ち・・と言うべきか?  この協議を行なうアメリカ側
 に、ほとんどと言って、一人も・・この極東の常識・基
 礎知識を持つものが居なかった。
  アメリ国務省のこのソ連専門家のボーレンは、つく
 づく、『あれほど簡単に、ソ連スターリンへ、千島列
 島を渡すべきではなかった」・・と言った。
  このアメリカの『ミス』は・・、例えば、仮の話であ
 るが、立場を代えて話すと・・、日本の代表が、ソ連
 話し合って・・「今、アメリカの州となっている『アラ
 スカ州は、元は、ロシアのものだったですよね』・・だ
 から、アラスカはソ連のものです」・・と、ソ連へ渡し
 てしまったら・・どう思うか?・・その様なものだ。
  こんな『決定的なミス』が、アメリカによってなされ
 ていたのだった。
  樺太は、ロシア人が来る前から日本人が住み始めてい
 た。
  日本人の領土だった。
  その後、ロシア人も来て・・住み始めた。
  そして、そのうち、ロシア人がどんどん来るようにな
 って、樺太の担当者が幕府へ日本人も樺太に来て住まな
 いと、樺太はロシアのものの様になると言った。
  しかし、日本人は思った様に増えず、そして、幕府は
 ロシアと協議して共同の地とする。
  しかし、その後、樺太・千島列島の交換条約をロシア
 と締結する。
  そして、日露戦争に勝利した日本は、樺太の半分の所
 有権を復活し、南樺太を以前の状態に戻した。
  南樺太が日本の地になった。
  つまり、千島列島は、ソ連へ簡単に渡すような地では
 なかった。
  しかし、アメリカの協議をする面々は、まったく、そ
 の知識がなく、「日露戦争で日本が得たのだ」という間
 違った・大雑把な思い込み、間違い知識しかなく、日本
 の歴史の過程の中で、堂々と日本の固有の領土となって
 いるという理解は無かった。
  薄っぺらな知識と間違った思い込みしかないというア
 メリカの協議をする面々だった。
  協議の最高責任者であるルーズベルトは、「ロシアが、
 戦争で取られたものを取り返すだけのもとだ」と、びっ
 くりするぐらいの、間違いの、薄っぺらな思い込みの中
 で協議をしていた。
  この間違い知識の中で・・ことの処理がなされた。
  だから先に記した逆の話、「アラスカは、ソ連のもの
 だと言ったら、アラスカは、ソ連のものになるのか?」。
  この協議自体が成立していない、「再審ものだ」。
  このヤルタ密約協議が、間違っていると分かっていた
 人が、もう一人いた。
  しかも、この協議の場に、この現場に・・居た。
  それは、駐ソのアメリカ大使・ハリマンで・・、
  ハリマンも、この千島列島についてのアメリカのルー
 ズベルトと、ソ連スターリンの話の中に居て、
  『この話はおかしい』と分かっていた。
  この密約協議で、スターリンは、卑劣にも・・引っ掛
 け発言をしていた。
  スターリンは、しきりに・・「日露戦争で、日本が奪
 った領土を、単に、取り返したいだけだ」・・と、何度
 も、「この引っ掛け発言を」している。
  何度も・・何度も・・この引っ掛け発言をして・・強
 調した。
  基本的に、ルーズベルトに基本的知識が無かったのが
 悲しい事で・・問題なのだが・・、
  その上に、ルーズベルトには、「日本の島など取るに
 足らぬ」の認識があった。
  悲しい事に・・こんな輩が、世界を「不安定にする」
 のだ。
  薄っぺらな知識で、責任だけが大きい輩が・・?
  しかし・・駐ソ大使のハリマンは「偉かった」。
  しっかり・・この点を・・ルーズベルトに「指摘した」。
  ハリマンは、しっかりした知識で、「千島列島は、(
 樺太・千島交換条約で)日本の領土として正式に認めら
 れてます」という知識で、指摘した。
  また、ハリマンは、はっきり、スターリンが、ルーズ
 ベルトをはめている・・欺(あざむ)いていると見てい
 た。
  そして、ルーズベルトに、はっきりと忠告をした。
  しかし、しかし、愚かなるこの大統領は・・言った、
 「ソ連が、日本と戦ってくれるなら、日本の千島列島な
 ど取るに足らぬ、つまらぬ事だ」・・と。
  馬鹿め!
.
  キリスト教は、この宗教が出来た古代の時代に、また、
 この宗教の出来た地である砂漠の地で・・、
  飢えに襲われ、
  そして、どうしようもない時は、
  ナイルの恵まれた流れの地、そして、実りある地に、
 身分をかなぐり棄てて、なりふり構わずに・・逃げ込ん
 だ。
  また、そして、隣国の富を奪いに行ったりして、飢え
 を凌(しの)いだ。
  この様な、自然の厳しさゆえに取ったやむを得ない行
 動でも・・このうしろめたさを・・民は・・、
  キリスト教の神の義があるから・・と、自らを慰(な
 ぐさ)めた。
  そのキリスト教の神の義によって許してもらえるのだ
 と、免罪符と同じ考え方をした。
  戦いとなって他民族を殺す事になっても・・「(キリ
 スト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」と考え
 た。
  飢えているのだから・・と、許しがあると・・その様
 な苦し紛(まぎ)れの宗教を創った・・神を創った。
  赦しを作った・・、
  天からの恵みの少ない砂漠の地の・・「このような赦
 (ゆる)しの形をとった宗教=キリスト教という宗教」。
  しかし、現代の・・「恵まれた時代に生きている時」
 も、
  また、「恵まれた地に生きている時」で・・あっても、
  このキリスト教の赦(ゆる)しの教理に洗脳されて、
  また、この教理が一人歩きをし・・悪さをし始める・・
  自分の利を求めて殺戮に及(およ)んでいる。
  「(キリスト教の)神の義」があるから「正義なのだ」
 と言って、
  そして「自分が強く」、そして「自分が大きく」、そ
 して「自分が恵まれて」いても・・、
  「義がある、正義なのだ」・・と、
  「小さい者を、そして弱い国を」攻め、そしてキリス
 ト教の教義「シャローム」を求める・「無条件降伏」を
 要求する。
  シャロームキリスト教教義の「完全絶滅」のキリス
 ト教の教理にマインド・コントロールされて「原爆投下
 を実行する」。
  それらすべてを、「キリスト教の正義」だとする。
  「不正義な行為を・・正義だ」とする。
  キリスト教によって、「不正義を・・正義と錯覚する」。
  キリスト教に強い信仰心を持っていたアメリカ大統領
 ルーズベルトは、その行為を正義だとして、「許されな
 い行為」を、「悪の行為のことごとくを」、アメリカと
 いう強力な国家を利用して行った。
  自分の考えを正義だとして、アメリカという豊かな国
 と、国民の方々を、その命を利用した。
  多くの武器・弾薬を、アメリカ国民の方々の多くが「
 戦争反対を叫ぶのにもかかわらず」、自分の考えに合う
 国だけに正義だとして、その豊かさをもって、言葉に尽
 くせぬほどの大量の武器・弾薬を、世界中にばらまいた。
  戦争の、戦いの・・輸出をした。
  悲惨な戦争が広まるのは・・当たり前だった。
  考えの違う者たちを悪として、その様な行動をした。
  キリスト教の法王が行なう公会議が、「考えが違う者
 たちを・・異端として・・殺戮したように」
  「異教徒は殺せと・・キリスト教の教義の行動をした
 ように」、弱者を殺戮し、虐げた。
  ルーズベルトニューディール政策でも、回復しなか
 った頑固な世界恐慌の悪い景気の影響は・・、
  (ルーズベルトニューディール政策で、アメリカ景
 気は回復したと言われているのはプロパガンダ・嘘宣伝)、
  アメリカの景気回復は、このルーズベルトがやった「
 戦争景気で回復した」。
  武器・弾薬を、アメリカ国内でどんどん作り、世界中
 にばらまいた。
  「戦争を作って・・回復した」とは言えないので、こ
 こでも嘘をついた。
  嘘で固められた行動だった。
  命を亡くなされた方々が、言葉を尽くせぬほど多いの
 に、ただただ、唖然として、怒りが湧く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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