(増補版)213D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年〜1823年)

題:(増補版)213D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年〜1823年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1822年(文政5年)12月、佐藤信淵(さとうのぶひろ、農政学
 者)の「経済要略(けいざいようりゃく)」ができた。
  上下の2巻で、信淵の大部の著書「経済要録」に先行
 した書で、彼の経済論の成立期の知識・思想大系の全貌
 を知る書。
  諸侯の取るべき政策、宇宙論、天文地理、農学・農政
 学、鉱山学、交易流通論など。
  「経済トハ、国土ヲ経営シ、物産ヲ開発シ、部内ヲ富
 豊ニシ、万民ヲ済救スルノ謂ナリ」
1822年、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、1730年〜
 1801年)の古事記注釈書「古事記伝こじきでん)」の
 刊行が終了した。
  後の古代文学研究に多大な影響を与えた書。全44巻。
  1764年に、「古事記」研究研究に着手していた。
  そして、1998年の宣長が69歳の時に完成させた。
  そして、宣長の存命中は、卷17までが出されていた。
  巻17までが「古事記」上巻、卷34までが中巻、巻44ま
 でが下巻である。
  宣長の注釈は、今日でもなお批判に耐えうる価値を持
 っている。
  「甘んじて批判を受けよ」と言いいたい場合が多い今
 日に、素晴らしい業績である。
1822年、大蔵永常(おおくらながつね、農学者)の「農具
 便利論(のうぐべんりろん)」が刊行される。
  代々農業兼商業に営む家に生まれた。
  この著は、全国各地で使用される農具の中で、広く普
 及の価値があるというものを、細かい絵入りで説明して
 いる。
  耕耘(こううん、田畑を耕し、雑草を取り去ること)、
 種まき、除草、施肥、給水、収穫、調整などの各作業ご
 との用具を取り上げている。
  また、夏の干ばつのときの井戸から水を引く法とか、
 畜力犂(すき)、大掛かりな揚水機なども記され、オラ
 ンダ製の揚水機まで説明し、農民が新しい道具を受け入
 れることが大切と強調している。
1822年、松田伝十郎(まつだでんじゅうろう、幕臣)が、
 間宮林蔵とともに樺太を探検したときの記録「北夷談(
 ほくいだん)」を著した。
  松田伝十郎は、間宮林蔵よりも先に樺太が島である事
 を確認したと言われている。
  幕府は、1892年のラクスマンの来航以後、蝦夷地の直
 轄化を積極的に進め、
  箱館奉行を設置したり、近藤重蔵択捉島を視察させ
 たり、蝦夷地の経営と防備に積極的に取り組んでいた。
  幕府は、1799年に、蝦夷地を直轄地とした。
  そして、松田伝十郎は、蝦夷地取締御用掛となり、択
 捉島・樺太ななどに任じた。
  これは、1822年に、松前藩に返還されるまで続いた。
  この著は、松田伝十郎の蝦夷地での赴任した記録で、
  1799年:厚岸に上陸して虻田に赴任、
  1803年:択捉島に赴任、
  1808年:宗谷に赴任し、樺太を探検する。
  1809年:樺太に赴任。樺太アイヌと交易をする。幕府
      が交易の借金を肩代わりして清算する。
  1812年樺太に赴任し、交易の改革に努める。
  1817年:江差に赴任、
  1820年箱館に赴任、
  1822年:宗谷・樺太を周り、マシケで越年。
  1822年:蝦夷地の松前藩への返還に伴い、役を解かれ
 た。
  特に、1808年の渡航で、松田伝十郎は、樺太の西海岸
 を探検し、間宮林蔵東海岸を探検し、
  松田は、アムール川河口対岸のラッカに至り、樺太
 島である事を確認した。
  松田は、アイヌの借金の清算に尽力して、アイヌの山
 丹(満州人)との交易を正常化してあげている。
  松田は、3回、4回と、何度も頻繁に樺太を調べている。
  詳しく、住民の様子や、地理や、動植物を記している。
  アイヌの生活習俗が図入りで詳しく説明され、満州
 役職名を持っている者がいることも記している。
1822年、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、戯作者)の「
 続膝栗毛(ぞくひざくりげ)」12編が完結した。
  大衆から知識人に至るまで歓迎され、続編が刊行した。
  続編は、金毘羅詣、宮島参詣、木曽街道、木曽路より
 善光寺道、善光寺道中、上州草津温泉道中と続いた。
1822年、二宮尊徳(にのみやそんとく)が、小田原藩家老・
 服部家の再建(1818年より)、この財政立て直しに成功
 して、この功により1822年に、小田原藩に登用された。
  そして、藩主の分家・宇津家の下野(しもつけ、栃木
 県)桜町領の難村復興を命じられた。
  1837年にかけて、報徳仕法の模範と言われる桜町仕法
 を施して成功した。
  その他、陸奥(むつ)中村藩(福島県)などの再建等、
 多数の業績がある
1822年、日本に最初に、この年にコレラが流行したことは
 前記したが、
  当時、この病気の手掛かりはなく、予防措置を取るこ
 とが全くできなかった。
  36年後の1858年にもまた、コレラが再び流行する。
  これは、この前年のアメリカからの黒船による日本に
 持ち込んだものとされている。
  江戸に飛び火したコレラは、8月上旬から中旬にかけて
 蔓延し、葬列の棺が、昼夜絶えることなく、大通りや路
 地につらなり、
  どこの寺院も列をなしたという。
  江戸だけでも、死者は10万〜26万人という。
  第三次のコレラ流行は、1862年で、江戸だけで患者数
 56万人、死者数7万3000人〜数十万人という。
  そして、この1822年のコレラ流行は、特に、西国での
 流行が酷(ひど)かった。
  開国によってだと、日本に来た異人がもたらしたとの
 噂が広まった。
  これは、くすぶり始めていた「攘夷論」を後押した。
  しかし、海外交易が順調なので、大きな声とはならな
 かったが、
  一方で、商業拡大と、産業革命的動きの開始で、巨大
 化が始まっていた都市部では、上下水道の整備や、側溝
 の充実など、近代的な都市環境の改善があった。
  ヨーロッパなどを含む諸国との、海外貿易が利益を出
 すようになった。
  しかし、翌年は、海外との金銀兌換格差から交易は、
 大幅な赤字に転落した。
1822年、清国が、アヘン販売を厳重に禁じた。
  しかし、何度、禁じても、イギリスが運んで来る密輸
 アヘンの流入は止まらなかった。
  逆に、流入量は増えていた。
  清国は、毎年、禁止令を出すという状態だった。
  密輸入も盛んになされ、横行した。
  それを取り締まる官吏までもが、麻薬中毒者になると
 いう悲惨な状況だった。
1822年、パスツール(フランス、化学者、細菌学者)が生
 まれた(1822年〜1895年)
  革なめし業者の子として生まれた。
  近代微生物学の祖と言われている。
  酒石酸の立体異性体の発見をした。
  生物の自然発生説を否定した。
  発酵・腐敗が微生物によって起こることを証明した。
  感染症を研究し、ワクチンによる狂犬病などの予防に
 成功した。
1823年(文政6年)1月31日、勝海舟が生まれた(1823年〜
 1899年)
  江戸、本所亀沢町に生まれ、
  江戸時代後期の幕臣で、明治初期の政治家。
  名を義邦、通称を麟太郎。
  安房守(あわのかみ)といい、海舟は号である。
  蘭学・洋式兵学を学んだ。
  1855年に、蕃書翻訳御用出役になり、海軍伝習生とし
 て長崎でオランダ人に学び、
  1860年に、咸臨丸の艦長として、初めて太平洋を横断
 しサンフランシスコに渡った。
  1864年に、アメリカより帰国後に軍艦奉行になり、
  その間、幕府海軍の創設に功があった。
  江戸末期15代将軍・徳川慶喜を助け、国内紛争を回避
 するために尽力し、
  特に、倒幕の官軍が東下して来るにあたって、官軍の
 西郷隆盛と会見し、
  江戸無血開城を成立させた。
  1873年に、明治政府の参議軍郷になった。
  1875年に、元老院議官になったが、ほどなくやめ、晩
 年は著述に専念した。
  著作は「海舟全集」に収められており、
  特に、「吹塵禄(すいじんろく)」など維新前後の軍
 事外交を知るのに良い資料となっている。
  海舟の著作の「氷川清話」によると、「明治の改暦に
 よって2月11日を誕生と定めた」とある。
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