(増補版)193D2/3:気になった事柄を集めた年表(1799年〜1800年)

題:(増補版)193D2/3:気になった事柄を集めた年表(1799年〜1800年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
18世紀〜19世紀前半、オーストラリア政府の先住民の殺戮
  オーストラリアでは、この頃、先住民のアボリジニー
 の方々が、卑劣な事に、盛んに、殺戮された。
  政策だった、オーストラリア政府は、この行為を政策
 として遂行した。
  キリスト教の有色人種蔑視に洗脳された者の安易な殺
 戮行為だった、軽蔑すべき行為だった。
  アボリジニーの方々は、絶滅させられようとしていた。
  政策は、それを目的としていた。
  まったく軽蔑すべきキリスト教の教義に洗脳された者
 たちの行為だった。
18世紀半ば〜18世紀末、麻薬を売るイギリス。
  イギリスは、アヘン(麻薬)を、中国・清国の方々へ
 に売りつけた。
  この時期、イギリスは、清国との貿易額が増えて行っ
 た。
  イギリスの貿易相手国としての清国は、大きな割合を
 占めて行くようになった。
  また、清国は、何でもある国だった、その為、清国の
 輸入は少なかった。
  それに引き換え、イギリスは、中国・清国からの輸入
 品は多かった。
  一例として、イギリス本国では、中国から輸入した茶
 を飲む習慣が拡大した。
  今まで、上流社会の高貴な飲み物だった茶が、一般の
 人々も飲みだし、また、飲めるようになった。
  イギリスは、完全な輸入超過に陥(おちい)った。
  イギリスの外貨は流出した。
  この輸出入のギャップを埋めるために、外貨の銀の流
 出を止めるために、イギリスは、非紳士的な手を使った。
  やってはいけない麻薬輸出を行った(アヘン貿易)。
  18世紀半ばの頃までは、アヘン(阿片、麻薬)は、ペ
 ルシャで栽培されていた。
  イギリスは、狡いこと・悪賢いことを考えた。
  このアヘン(麻薬)を、イギリスの植民地のインドで
 栽培し、外貨流出になっている中国へ売り込もうと考え
 た。
  イギリスは、この麻薬を、植民地としているインドへ
 持って行った。
  そして、インドで栽培を奨励し、インドでの栽培を行
 った。
  インドでのアヘン栽培は、どんどん増えて行った。
  そして、イギリスは、その麻薬・アヘン(阿片)を、
 中国へ持って行った、貿易品として使った。
  イギリスは、忌むべき麻薬商人国家に成り下がった。
  イギリスが持ち込んだ麻薬のアヘン(阿片)で、清国
 では、急激に、麻薬中毒者が増えてしまった。
  当然、中国・清国の国内では、アヘン中毒患者の急増
 が問題となった。
  清国は、何度も、何度も、禁止令を出した。
  取り締まりも厳しく行った。しかし・・、
  それでも流入は止まらなかった、流行も止まらなかっ
 た、
  イギリスによるアヘン流入を、清国は、アヘンを武力
 を使ってまでしても阻止せざるを得なかった。
  そこまで追い込まれていた。
  当然の行動に出ざるを得なかった。ファイトバックし
 た。
  そして、アヘン戦争となった。
  イギリスは、当然、勝てる戦争だと思っていた事が、
 本当に卑劣だった。
  イギリスは、まだ、この謝罪をしていない。
1800年、日本の人口: 約 3,100万人
1800年、職業分布:この頃の職業分布、武士7%、農民84%、
 町民6%、その他(易者、医者など)3%
1800年1月、町火消しが出初めと称し,火消し道具を持ち出
 して、梯子の上で芸などを行うため、 幕府は禁止した。
1800年3月30日、昌平坂学問所が落成した。
  昌平坂学問所の新築工事が終わったため、幕府は、夏
 からの入学を許可した。
  そのため、4月には 寄宿・通学願い手続きなどが決め
 られた。
1800年4月22日、幕府が、逃亡など人足寄場関係の刑罰を
 1797年制定の罰より重くして町奉行へ 通達した。
  また、6月13日には、寺社奉行勘定奉行へも通達した。
1800年6月、伊能忠敬の全国測量の開始
  地理学者の伊能忠敬が、幕命によって、陸奥・出羽・
 越後の沿岸測量に出発した。
  北海道を測量し、大日本沿海輿地図の測量と製図をした。
1800年7月2日、幕府が、江戸常是(じょうぜ)家を上納金延
 滞により処罰し、京都常是家を江戸・京都・大坂の 銀座
 御用とした。
  銀座移転先を、11月22日に、蠣殻町に決めた。
  常是家は、銀座の吹所(ふきしょ)で極印(ごくいん)
 打ちをしていた。
  この日、常是家の長左衛門常房と京家十代目作右衛門
 常明は、勘定奉行の柳生主膳正久通宅へ出頭するよう命
 じられた。
  そこで、常房の息子・常隣を連れて出頭した。
  ここで、長左衛門常房は、家職召放しの上、永蟄居を
 命ぜられた。
  一方、作右衛門常明は、お咎めなしであったが、取締
 り方に付不束であったとして急度御叱を受けた。
  この後、京橋銀座にあった長左衛門家の御用道具、家
 作共に召し上げとなり、作右衛門常明に与えられ、作右
 衛門は、京都および京橋から機能を集約された蛎殻町の
 銀座を継ぐこととなった。
1800年7月−幕府が、頻発する奉公人の欠落を防ぐため、奉
 公人周旋業の人宿(ひとやど)に、生国・下受人 などを記
 す人別帳を作成することを命じた。
1800年8月、賞品を賭けて的を射る賭的(かけまと)が農民の
 間で流行し、暮府が賭博として禁止した。
1800年9月8日、画家の伊藤若沖(いとうじゃくちゅう)が、
 没した(1716年〜1800年)(85歳)
  京都錦小路の生まれ、
  絵画と禅に傾倒した。
  40歳で家業の青物問屋を弟に譲って画業に専念した。
  生涯、信仰の念の厚い人だった。
  独身を通し、晩年は、深草の石峰寺に隠棲した。
1800年11月、幕府が、1788年に停止した南鐐二朱銀の再鋳
 造を決めた。
1800年12月21日、伊能忠敬が、蝦夷東海岸奥州街道
 略測図を勘定所へ提出した。
1800年、社会資本整備:新田開発が盛ん・・
  この頃から幕末までの新田開発は盛んだった(450件)
1800年、発明:ボルタ(イタリア)が、電池を発明した。
  正極に銅、負極に亜鉛を用いた。電解液は硫酸。
19世紀、李氏朝鮮:王朝の後半期には、社会変動が著しく、
  19世紀に入ると、民衆の反乱が相次ぎ、開港後には外
 圧の下で国内対立が一層激化した。
  19世紀末の日清戦争の後に、国号を大韓帝国と改め、
 独立の維持に努めたが、日露戦争後に日本の保護国にな
 った。
19世紀前半、イギリスで、自由貿易の要求が拡大し、東イ
 ンド会社の貿易特権が廃止された。
  国家と同等だった東インド会社
  外交権力を持ち、交戦権を持ち、植民地政府を持ち、
 軍の機構を持ち、植民地で好き勝手ができる巨大な権力
 を持っていた。旨い汁を吸っていたイギリス国家そのも
 のだった。
  イギリス本国の産業革命で生まれた資本家が、その特
 権を欲しがった。
  欲による行動が変化の根本にあった。
19世紀、イギリスが、マレーシアを植民地にした。
  マレー半島の西側にあるペナンを、1786年に獲得した
 のに始まる。
  イギリスは、天然資源のスズ、そして、ゴムでうまい
 汁を吸った。大きな利益だった。
19世紀、フランスが、ベトナムに浸透し、植民地化して行
 った。
19世紀、アフリカの植民地化
  19世紀にアフリカが植民地の舞台となった。略奪的な
 奴隷貿易は、国際的に、また、人道的に卑劣極まりない
 行為であるが、19世紀は、その行為と共に、植民地化が
 盛んに行なわれた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009