(増補版)149D1/3:気になった事柄を集めた年表(1716年〜1717年)
題:(増補版)149D1/3:気になった事柄を集めた年表(1716年〜1717年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1716年、人事:吉宗は、出身藩の紀州藩士を起用し、新井
白石らを罷免した(「側近政治」より「将軍親政」へ)。
白石は、良質な「正徳金銀」を鋳造して、緊縮財政を
行ったのだったが、その経済政策は、インフレ(物価上
昇)をおさえたもののデフレ(物価下落と幕府の収入の
減少)を引き起こすという弊害をもたらした。
吉宗は、将軍に就任すると、新井白石や間部詮房を退
けた。
そして、出身の藩である元紀州藩士を起用する。
そして、紀州藩主であった吉宗が、この藩主の時に、
既に、自ら経験していた「藩政改革」を行った。
その基本理念の「質素倹約」「緊縮財政(歳出削減)」
「風紀紊乱(びんらん、風紀の乱れること)取締」を、
幕政に持ち込んだ。
吉宗がやったことは、白石らの「側近政治」から、「
将軍親政」による幕政改革へと取り組んだ。
この白石を罷免したこの1716年から、1745年に至るこ
の吉宗の政治改革を、「享保の改革(きょうほうのかい
かく)」と言った。
1716年、人事:小笠原胤次・有馬氏倫・加納久道を御用掛
に任命した。
小笠原胤次(おがさわらたねつぐ)、有馬氏倫(あり
まうじのり)、加納久道(かのうひさみち)は、吉宗の
紀州時代からの側近だった。
そして、御用取次として登用し、将軍と老中の間を取
り持ち、享保の改革を補佐させた。
当初の名称は「御用掛(御用懸り)」や「御用掛(御
用懸り)御側衆」であったが、1755年頃より「御側御用
取次」となった。
1716年、鷹狩り復活
徳川吉宗が、鷹狩りを復活させた。
1716年、世相:「享保世話(きょうほうせわ)」
この頃の江戸市中に流れていた巷談を集めたもの(
1722年〜1725年の頃の説がある)
旗本・親見正朝編の「近世風俗見聞集」に収められて
いる。
享保の吉宗の時代になると、旗本への給与の遅配が起
きたという。
「享保世話」は、この事などを批判し、皮肉っている。
吉宗は、石高の1パーセントを幕府へ納める「上げ米
令」を公布するにあたって、
在府の大名の全員を江戸城の大広間に召集し、自ら頭
を下げて、幕府の困窮した財政事情と再建策を詳細に説
明し、協力を要請した。
この様に、将軍以下幕閣たちは、非常な決意で享保の
改革に取り組んでいた。
1716年、世相:百姓層が、『成長組』と『転落組』に二分
されて行く。
享保以降、近世後半期に入ると、
土地を集積して地主へと成長して行く少数の家と、
喪失して小作、水呑み百姓へと転落して行く多数の家
と、方向がはっきり二分して行く。
大高持(本百姓・ほんびゃくしょう)の家は、酒屋・
質屋などを兼営し、商人としても致富を重ねて行く。
また、町人資本の投下によって、町人の新田地主も増
加して行く。
領主が、農民から得た富の一部分は、その地主層が、
その分け前にあずかった。
こうして得た部分は、百姓=生産者の手に残ったので
はなく、町人・地主の手に入って行った。
三都(さんと、江戸・大坂・京都)の問屋・豪商など
が、近代へとその経営を発展させたのと同様、
農村における地主層も、着実に、その基盤を固め、
日本の近代経済の支柱を形成して行った。
経済面ばかりではなく、この様な近世社会の仕組みの
中で成長して行った町人・地主層に、日本的な文化の形
成の土壌があったと言える。
幕藩領主が、石高制によって把握する事が出来た産業
経済界が、公的な世界であったのに対して、
その社会の仕組みから成長して行った世界は、私的な
世界であった。
公的世界では、商行為を賤視し、利益追求を悪とする
のに対し、
私的世界では、それを積極的に肯定する意識が生まれ
ていた。
1716年、出版:康熙字典(こうきじてん)が成った。
中国の漢字字典。
編者は、張玉書、陳廷敬ら30名。
1717年2月、人事:大岡忠相(おおおかただすけ・越前守)
伊勢山田奉行・大岡忠相を江戸南町奉行に登用した。
大岡忠相は、山田奉行時代に、紀伊領と関係のあった
問題を紀州藩に気兼ねせずに解決して、吉宗に認められ
ていた。
それで、吉宗が将軍に就任し、江戸町奉行の抜擢され
たという。
医師が吉宗に建議して出来た、貧民の救済救療施設の
小石川養生所(医療施設)は、大岡町奉行の管理となっ
た。
また、小石川薬園内に、施薬局を設け、低所得の病人
を救済し、また、介護者のいない者なども収容した。
1722年にできた。
1717年7月、教育・講義を庶民に開放する。
幕府の享保の改革において、まず、1717年に、湯島の
聖堂の講義を庶民にまで開放した。
湯島聖堂の「仰高門東舎」での講義聴講は、連日、武
士・庶民が座り切れないほどだった。
1717年、外交:朝鮮使節の待遇
朝鮮使節の待遇を白石以前の形態に復し、将軍の自称
も「日本国大君」に返した。
1717年、人事:水野忠之(みずのただゆき、1669年〜1731
年)が、老中に就任した。
1722年に、さらに改革の財政再建の最高責任者である
「勝手掛老中(かってがかりろうじゅう」に任命され、
年貢増徴や新田開発などの増収政策を積極的にすすめ、
幕府を財政危機の窮地から救った。
しかし、その政策は、社会に深刻な不況と米価の急落
をもたらし、人々の不満、批判は忠之に集中した。
「享保世話」に、「無理で人をこまらせる物、生酔(
なまよい、酒に少し酔うこと)と水野和泉守」とある。
1717年、出版:荻生徂徠が、「弁道」「弁名」を著した。
この二冊を「二弁」と呼ばれ、徂徠学の神髄と言われ
ている。
1717年、広東省で、人頭税を廃止し、土地課税のみとする
地丁銀(ちていぎん)が施行された。
以後、各地に広まる。
古来それぞれ独立していた丁銀(人頭税)と地銀(土
地税)を一本化し、土地のみに課して徴収した。
丁税を廃止した点が画期的改革だとされている。
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