(増補版)159D1/3:気になった事柄を集めた年表(1727年〜1728年)

題:(増補版)159D1/3:気になった事柄を集めた年表(1727年〜1728年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1727年、人事:荻生徂徠(おぎゅうそらい、儒学者、思想
 家、文献学者)が、将軍吉宗に拝謁した。
  この頃、「政談」を著して、献上していた。
  徂徠は、1696年に、将軍・綱吉の側近の幕府側用人
 柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支
 給されて仕えていた。
  のちに500石取りに加増されて、柳沢邸デ講学、ならび
 に政治上の諮問に応えた。
  1709年に、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を
 出て、日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾を
 開いた。やがて、徂徠はという学派が形成される。
  1721に、幕府から「六諭衍義(りくゆえんぎ)」に訓点
 をつけることを命ぜられ、
  まもなく、1722年に、吉宗の信任を得て、間接に政治
 上の諮問を受ける様になった。
 この諮問に応え、幕府政治の改革案を述べた著書が「政
 談」である。
1727年、カンボジア使節が長崎に来航。
  幕府より、信牌(長崎港の入港許可証というべきもの)
 を与えられる。
1727年、キャフタ条約が締結された。
  ロシアと清の間で、それまで未確定だった外モンゴル
 における支配領域を画定した(シベリアの境界画定)。
  この両国は、1689年に、ネルチンスク条約を締結し、
 スタノヴォイ山脈とアルグン川を境として支配領域を確
 認していた。
  その後、雍正帝の時代に、外モンゴルにまで勢力を伸
 張させたことで、再び、条約締結の必要が生じていた。
1728年1月、荻生徂徠が没した。
1728年、経済:先物信用取引を許可(黙認)
  米価引き下げのため、米の延売買取引(先物信用取引
 を許可した。
  幕府は、1727年3月に、江戸の中川清三郎・川口茂右衛
 門・久保田孫兵衛の3名に堂島永来町御用会所の開設を
 公認した。
  この会所は、堂島永来町(北区堂島1丁目)の町年寄であ
 った塩谷庄次郎の屋敷に設けられた。
  この処置に対し、翌1728年6月、大坂の米仲買604人は、
 河内屋儀兵衛・福島屋久右衛門・田辺善左衛門・境屋善
 衛門・加島屋清兵衛の5名を惣代に選び、
  江戸に派遣して、御用会所の廃止と延売買の公認を勘
 定奉行に願い出た。
  こうした動きに対し、勘定奉行から大坂町奉行に問い
 合わせた結果、御用会所が開設されても、米仲買は悪影
 響を受けていないという報告があって、出願は却下され
 た・・が、
  その後も、米仲買惣代は、執拗に運動を続け、老中・
 水野忠之に直訴するなど、御用会所設立後における大坂
 米仲買および米小売商の窮状を説いたので、幕府当局も
 その実状を認め、江戸町奉行大岡忠相の裁断により、
  1728年2月1日をもって御用会所は廃止となった。
  この時、延売買の公認については取り上げず、それま
 で大坂米商人仲間が非合法におこなってきた延売買の商
 習慣をそばらく黙認するかたちとなった。
1728年、徳川吉宗が、日光東照宮へ社参した。
  幕府の権威を象徴する行為である日光への社参をした。
1728年6月13日、世相:象(2頭、牡と牝)が長崎に渡来し、
  翌年、江戸までの道中を通交し、江戸で飼育される。
  これは、吉宗が中国商人に注文して、輸入されたもの。
  この象は、ベトナムホイアンあたりのものという。
  二人のベトナム人の象使いが付き添っていた。
  また、このベトナム人象使いのための通訳が、中国人
 で二人来た。
  牝象(5歳)は、長崎到着後、3ヶ月後の1728年9月11日
 に死亡した(舌にはれものが出来た)。
  残った牡象(7歳)は、1729年3月13日に、江戸ヘ向け
 出発した。
  3月22日下関通過、4月18日兵庫泊、4月18日尼崎泊、4
 月20日大阪着、4月25日伏見着、4月26日京都入り、
  途中のこの京都では、この象に位が与えられた。
  1729年4月28日には、中御門天皇陛下がご覧になった。
  象は、うやうやしく前足を折り曲げ、最敬礼の所作を
 演じた。
  発注をした時、発注を1727年に受けた中国人の呉子
 の返事は、「中国の諸省には象は居ません。シャムの地
 より出るものとか、象の小屋や飼い方はシャムで訪ねる
 など・・」と。
  そして、5月25日に、江戸に着いた象は、江戸っ子から
 熱狂的な歓迎を受け、その熱狂の江戸市中を練り歩き、
 浜御殿に収容された。大ブームとなった。
  出版界は大賑わいだった。
  書物、漢詩集、瓦版、錦絵など、象、象、象となった。
  また、歌舞伎も象をあしらった関連グッズなどを販売
 した。
  象は、その後10年以上に渡って浜御殿(浜離宮恩賜庭
 園)で幕府が飼育にあたった。
  吉宗は、到着後の5月27日に、象と対面しているが、象
 を見るのを楽しみの一つとして、何度も江戸城に召し出
 したという。
  その後、この象は、1741年4月に、民間に払い下げられ
 た。
  掛茶屋を営んでいた中野村(現・東京都中野区)の農
 民・源助が引き取った。
  源助は、見物料を取って象を見せ、また、幕府の許可
 を得て、象の糞を乾燥させ薬として売り出したという。
  象は、1742年12月に病死した(21歳)。
  因みに、象は室町期に日本に来ている。
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