(増補版)148D1/3:気になった事柄を集めた年表(1714年〜1716年)

題:(増補版)148D1/3:気になった事柄を集めた年表(1714年〜1716年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1714年、ピョートル1世(ロシア皇帝)が、バルト海東岸
 地域を支配下に置いた。
  ピョートル1世の富国強兵策によってロシアは発展し、
 バルト海に出たいという希望が、スウェーデンよりバル
 ト海海域世界の覇権を奪取して叶った。
  そして、バルト海交易ルートを確保した。
  これまで、ピョートル1世は、権力を皇帝のもとに一元
 化して戦争をし、その戦争遂行をしやすくする為に行政
 改革し、海軍創設をしたりして来た。
1715年1月、施策:長崎貿易を制限
  長崎貿易を制限し、中国船30隻、オランダ船2隻が各々
 銀6000貫匁・3000貫匁の取引を行う事を認め、
  決済手段の半分は、銅によることを定める(正徳新令・
 海舶互市新令)。
1715年、経済政策:両替商と諸問屋仲間の組合設置
  新鋳金銀の通用促進のため、江戸に両替商と諸問屋仲
 間の組合が設置された。
1715年、芸能:近松門左衛門の「国性(姓)爺い合戦」の
 初演、大当たりをした。
1715年、新井白石の「西洋紀聞」が完成した。
1715年、稲生若水(いのうやくすい、本草学者、漢学者)
  稲生若水は、加賀藩前田候に仕えていが、加賀藩主の
 前田綱紀(まえだつなのり)の援助で「庶物類纂(しょ
 ぶつるいさん)」を編集・著述に着手したが、この年に、
 362巻(正編)までで病没した。
  庶物類纂は、正編と増補から成り、正編は中国の諸書
 から物産、博物の名称、形状、産地などが記されている。
1715年、東海道歩行飛脚が始まる
  江戸の若狭屋忠右衛門が、東海道歩行飛脚を始めた。
  歩行飛脚は、書状や荷物を運ぶ徒歩の飛脚のこと。
1715年、イギリスが、東インド会社を広東に商館設置した。
  この後、広東貿易に参入してアヘン戦争という卑劣な
 戦争をする。
  日本の場合、平戸に商館があるが、イギリスの国王の
 国書を携えた使節が来航して許可を得ているが、会社と
 いうが、国の行為そのもの。その国が、イギリスが、中
 国で卑劣な事をする。
1716年、第8代将軍に徳川吉宗が就任した(1684年〜1751年)
(将軍期間、1716年〜1745年)
  7代将軍の家継が没し、紀伊藩主の吉宗が8代将軍とな
 った。
  吉宗は、「元文の改鋳」をした。
  当時の「享保小判」を回収して、金の量が少ない「元
 文小判」を数多く発行した。
  その後は、約80年に渡り、物価は安定し、再び経済が
 繁栄した。
  当時は、地方の農民が、特産品を売るようになるなど、
 市場経済が各地に広がり、
  元文小判が、活発に使われた。
  現在の日本企業は、海外へ出て行き、外国で得た利益
 の為替変動の影響を避けるためなどから、その国の事業
 にその利益金を使う事が多く、日本の経済を成長させる
 力になってない。
1716年、与謝蕪村(よさぶそん、俳人、画家)が生まれた
 (1716年〜1784年)
  摂津国の毛馬村(大阪市毛馬町)の生まれだが、それ
 以上の詳しいことが分からない人。
  敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活にあこがれて、その足跡
 を辿り、また、僧の姿に身を変えて東北地方を巡った。
  絵を描いて宿代代わりに置いて行くという旅だった。
  その後、丹後、讃岐なども周遊し、42歳で京都に居を
 構えた。
  45歳で結婚し、一人娘を得た。68歳で生涯を閉じた。
  辞世の句は、
  「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」
  蕪村に影響された俳人は多いという。正岡子規もその
 一人という。
  「蕪村忌に呉春が画きし蕪かな」正岡子規
  鳶鴉図(とびがらすず、重要文化財)がある。
1716年5月、出版:新井白石の自伝「折りたく柴の記(おり
 たくしばのき)」が執筆開始され、
  1716年5月ころに成ると言われる、また、随筆ともいわ
 れる。
  生家である新井家のことや、白石の政治的体験談など
 自伝的、政治的要素の濃い自伝的随筆と説明されている。
  6代将軍徳川家宣のあつい信任と恩恵に浴しつつ幕政に
 尽力した自分の立場を明確に子孫に語り残す事を主目的
 につづったものとも説明されている。
1716年、室鳩巣が吉宗の侍講になった。
  間部詮房新井白石らが罷免されてとも説明され、ま
 た、白石におされて幕府に仕え、のち吉宗の侍講となっ
 たとも説明されている。
  ・・が、白石の推挙が正しいようだ、白石・室鳩巣と
 もに木下順庵の弟子であるし・・、白石と室鳩巣は並ん
 で英才の誉れが高かったという。
1716年、8代将軍・吉宗によって、享保の諸政策が遂行され
 ているとき、
  儒者・室鳩巣は、幕府の財政難を解決する方策として、
 京・大坂の富豪から御用金を徴収する事を献言した。
  しかし、吉宗は、この意見を退け、かかることは臨機・
 当座の措置であり、
  目下苦慮しているのは、根本的解決策であると述べた。
1716年、教育:寺子屋の著しい増加
  寺子屋の著しい増加の傾向は、享保以来の現象である。
  享保の頃、江戸には840人もの手習いの師匠がいた。
1716年、交通:雲助やごまのはい取締り
  幕府は、各宿場で雲助、ごまのはいなどを捕らえるよ
 う命じた。
1716年、交通施策:五街道の正式名
  五街道の正式名称が定まる。
  東海道はそのままで、中仙道は中山道に、甲州、日光、
 奥州は、各々、道中となる。
1716年頃、交通政策:六郷川の橋を廃止
  この頃、六郷川の橋を廃止し、舟渡しとする。
  江戸の防御の一環でもあったと考えられる。
  「1570年に、信玄が武蔵国へ乱入の時は、北条家の侍
 が焼き落とした、そして、甲州勢を止めた。その後、30
 余年、たえたりしを・・」という古文書がある。
  しかし、最初から橋があったのか?の論議もある。
1716年、人事:能吏(のうり、能力の優れた有能な官吏)
 を登用
  8代将軍・吉宗は、享保改革を行い、幕府の財政や直轄
 領行政を担当する勘定方役人に多くの能吏を登用した。
  彼らは、「地方巧者(じかたこうしゃ)」と言われ、
 農政や農業技術の練達の人たちだった。
  特に、享保以降は、民間からの登用が目立った。
  また、彼ら地方巧者は、地方書の著者で、地方の改革
 を実践する人、進める人たちだった。
  江戸時代を封建というが、この事例の様に、本当に、
 差別なく、四民平等で、民主的な行動をとっていた社会
 だと言える。
  明治維新以降に、日本は、西洋から民主主義を教えら
 れたというのは間違いで、西洋礼賛から来ている。
  日本人の心根の底には、優しさがあり、そこから発す
 る差別のない平等意識が根付いていて、
  この事例の様な政治にも、その事が反映している。
  坂本龍馬の育った高知にあった民主主義社会のつなが
 りの事例は有名で、竜馬出現の、世に出たことの必然さ
 が感じられる。
  下級武士社会から有能な志士があまた出現した。
  西洋ヨーロッパ社会は、殺戮の、家系存続、王位継承
 の争いの社会だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009