(増補版)164D1/3:気になった事柄を集めた年表(1735年〜1736年)

題:(増補版)164D1/3:気になった事柄を集めた年表(1735年〜1736年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1736年5月、貨幣の改鋳:元文(げんぶん)の改鋳
  吉宗は、米価の引き上げ策を講じて、財政に困窮する
 武士、および、農民を救済したいとした。
  しかし、種々の策を講じるが、思うような効果を挙げ
 ることはできなかった。
  そこで、取られたのが、この貨幣改鋳策だった。
  1736年5月12日に、金銀改鋳の町触(惣触)が発せら
 れた。
 (1)世情金銀不足の為通用不自由と聞こえるので改鋳を
 行う。
 (2)吹改金銀の交換比率は、慶長金、正徳享保の新金は
 100両に付き100両、乾字金200両に付き100両、慶長銀
 正徳銀新銀10貫目につき10貫目とし、この比率で差別無
 く通用させる事。
 (3)但し、引替金100両に付き65両、銀10貫目に付き5貫
 目の「増歩」を附けて従来の金銀と交換する。
 (4)引き替えは町人に委任して行うから、武家を始めと
 し、各人相対にて交換する事。
 (5)従来の金銀の数量は判明しているから、貯蔵せずに
 引替える事、退蔵者は処罰され、退蔵銀は従来通り潰銀
 として扱う事。
  これまで、経済が発展している状況下において、貨幣
 の増鋳(貨幣を多く流通させる)が必要とされていた。
  そして、そのために、ある程度の貨幣の質の低下は不
 可避なのであった。
  しかし、とられた政策は、あえての貨幣良鋳の経済収
 縮政策が取られていた。
  そして、良貨による貨幣流通量の減少となり、景気は
 停滞する傾向となった。
  この吉宗のとった貨幣の悪鋳策、より質を落とした元
 文金銀の発行によって、インフレにし、米価を引き上げ
 ようと図ったのだった。
  結果的に、物価調整は行なわれ、景気は持ち直した。
  米価は、1736年〜1818年の間、横ばいないし若干の低
 落気味におさまった。
  ある程度の効果があったため、この後、元文金銀は80
 年以上に渡って通用した。
  また、3年後の1739年には、鉄銭の寛永通宝も発行され
 た(銅貨の交換レート跳ね上がり防止策)。
  今までの社会は、正徳金銀や享保金銀などの良質貨幣
 の流通によって通用金銀が不足し、米価および諸物価が
 暴落していた。
  通用金銀の不足改善のため、改鋳して質を落し、その
 流通量を増やし、経済の安定をしたいとした。
  この改鋳金銀には、裏面に「文」の字の極印があり、
 文字(ぶんじ)金銀ともいう。
  また、真文字(しんもじ)金銀とも、古文字金銀とも
 いう。
  また、元文小判、同一分金、同丁銀、同豆板銀をいう。
1736年5月、経済:米価最低価格制を廃止(6月説あり)。
  米価下落防止のため、1735年に、最低価格を公定(こ
 うてい、政府や公共団体などが公式に定めること、この
 場合、幕府)とした(米価の統制価格とした)・・が、
 この制度を吉宗は、改鋳による効果があったとして(米
 価は倍に跳ね上がった)、制度廃止とした。
  武家は大いに潤ったという記録がある。
  しかし、改鋳によって、新旧の金銀がオーバーラップ
 して流通したり、相場の変動などで、町民の生活に混乱
 が生じた。
1736年7月、荷田春満(かだのあずままろ、国学者歌人
 が没した(1669年〜1736年)(没年に8月説あり)
  国学の四大人と言われる。
  吉宗から書物奉行の命を受け、幕府所蔵の和書の鑑定
 に従事し、吉宗の下問に答えた。
  弟子に賀茂真淵(かものまぶち)らがいる。
  赤穂浪士の大高源吾と交友があり、春満は、吉良邸に
 出入りする便宜があったため、邸の図を大高に与えたと
 いう。
1736年7月、伊藤東涯(いとうとうがい、儒学者)が没した
 (1670年〜1736年)(没年に8月説あり)
  父の家塾・古義堂をまもり、青木昆陽らの多数の人材・
 門人らを教え、輩出した。
  紀伊候の招きを辞して幼弟の養育にあたり、父同様、
 生涯、町(まち)学者として、父・仁斎の学問を忠実に
 守った。
  湯浅常山は、「東涯の学問は仁斎に倍せり」と評した。
1736年、令:江戸城中での落書・浮説などの政治批判の禁
 止。
1736年、人事:大岡忠相(おおおかただすけ)が、町奉行
 から寺社奉行に転じた。
  大岡一族は、徳川氏三河以来の譜代。
  忠相は、旗本・大岡忠高の4男で、1700年に1920石を継
 ぎ、1712年に伊勢国に置かれた幕府の遠国奉行のひとつ
 の山田奉行になった。
  1716年に普請奉行。
  1717年に吉宗により町奉行に登用され越前守となり、
 様々な施策を行なった。
  1722年に関東地方御用掛を兼務し、治水事業までした。
 また、武蔵野新田の農政も展開した。
  そして、1736年に寺社奉行となった。
  たびたびの加増で1万石の大名にもなった。
1736年、イランのナーディル・シャー(在位:1736年〜
 1747年)がアフシャール朝(1736年〜1796年)を創建
 した。
  アフガン人を、イラン全土から駆逐し支配した。
  また、アフガニスタンを支配した。
  インドに侵攻して、ムガル帝国の首都のデリーを占領
 した。
  また、中央アジアメソポタミア、トルコなどに侵入
 した。
  1747年に、部下に暗殺された。
1736年、オスマン・トルコが、ロシアと戦う(1739年、ア
 ゾフを喪失)
  ロシア・トルコ戦争は、16世紀後半から19世紀にかけ
 て、ロシア、オスマン・トルコ帝国間で、黒海およびそ
 の沿岸地方の支配をめぐって、11回争われた・・が、
  ロシアのアンナ・イワーノブナ女帝が、オーストリア
 の支援を受けて、オスマン・トルコと戦端を開いた。
  そして、アゾフを領有してようなく黒海への進出の橋
 頭保(きょうとうほ)を得た。
  この後、まだ、この両国は、6回、戦争をする、1878年
 まで。
  1878年に、サン・ステファノ条約で講和する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009