(増補版)161D1/3:気になった事柄を集めた年表(1730年〜1732年)

題:(増補版)161D1/3:気になった事柄を集めた年表(1730年〜1732年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1730年6月、再度、藩札発行を許した。
  領国の石高が、20万石以上であれば、通用期間25年、
 20万石以下であれば通用期間15年・・などの条件付きで、
 藩札の発行が再解禁された。
  この背景には、 下落した米の価格があり、諸藩の財政
 窮乏救済の目的があった。
  発行は、幕府の許可を必要とし、領国内のみの流通と
 し、また、幕府の貨幣と兌換(だかん、幕府の正貨と引
 き換えること)ができる事を原則とした。
1730年、経済:相場公認される
  大阪堂島の米市場が設立され、米仲買人の相場が公認
 された。
1730年、人事:水野忠之が、老中を罷免される。
  享保の改革の大きな転換点を迎えた。
  忠之のこの辞任の後、松平乗邑(まつだいらのりさと)
 が老中首座となり、後期の享保の改革をリードして行く
 こととなった。
  松平乗邑は、1737年に、勝手掛老中となる。
  幕府にとって痛かったことは、米の増産が収入増に、
 当初はなっていたが、
  その増産が、米価下落を起こすようになると、肝心の
 収入増につながらなくなって来た事だった。
  当初の「米の増産と倹約」の政策の見直しが必要とな
 った。
  乗邑のとった政策は、何と言っても「米価安諸色高」
 をどうするかだった。
  災害対策や、災害からの復旧も一生懸命やって、功を
 奏してもいた。
  そして、米の収穫量の増大で、幕府財政も好転したが、
 物価の不安定は収まっていなかった。
  1733年には、突然、米価が高騰した。
  これは、前年の1732年に、西国全域を襲った未曾有の
 蝗害(こうがい、イナゴが稲などを食う害)が原因だっ
 た。
  この蝗害は、199万人余りといわれる被害者を生み出す
 大飢饉となった。
  米は、不足した上に、商人の買占めもあって、一時的
 に米価は急騰した。
  この様な、時の流れの中で、結局、乗邑の取った政策
 は、年貢の引き上げによる年貢増徴策だった。
  その策によって、毎年、黒字が計上され、
  乗邑は、町奉行大岡忠相が「その才知は舌を巻くば
 かり」と評したほどだった。
  乗邑は、1745年に、その功績を認められて1万石が加
 増された。
  一方、当然、乗邑の強引な増徴策は、百姓らの不満を
 募らせた。
  幕府への不信感も醸成され、社会全体にひびが入った
 状況となった。
  また、厳格すぎる緊縮策は、幕臣や大奥までもの不興
 を買った。
  1745年、吉宗は、約30年の将軍職を、嫡男の家重に譲
 位し、人心刷新をはかった。
  1745年に、乗邑は、家重が9代将軍に就任すると直後に
 老中を解任された。
  加増された1万石も没収され、隠居を命じられた。
1730年、吉宗の次男の徳川宗武(とくがわむねたけ、松平
 定信の実父)が、田安家(御三卿の初め)を創始した。
  兄が、第9代将軍の家重。
  聡明であったため、身体的な障害のあった兄・家重に
 代わり将軍後継者に推す者もあった。
  しかし、吉宗は長幼の序を重視した。
  しかし、この将軍後継者問題は、その後も尾を引き、
 家重が将軍となった後、宗武の登城は、3年間の停止処分
 を受けた。
  乗邑は、宗武を推したので罷免された。
1730年、江戸町火消しの規則を改め、47組を10組に再編成
 された。
1730年9月28日、パトロナ・ハリルの反乱
  オスマン帝国の首都イスタンブールで、パトロナ・ハ
 リルに率いられた下層市民、下級軍人が民衆蜂起した。
  トルコ・イスラム文化の爛熟期を謳歌する「チューリ
 ップ時代」の上流支配層の政治的腐敗と、奢侈(しゃし、
 度を過ぎてぜいたくなこと)、
  そして、インフレによる生活不安に対する人々の不満
 が爆発した。
  反乱は、大宰相を処刑し、スルタン(君主)を退位さ
 せて、イスタンブールを支配して、一時期、反乱は成功
 したが、
  改革のための具体的プランを持たなかったため、
  ハリルが、宮廷のはかりごとによって殺害されると、
 反乱は、短期間で鎮圧された。
1731年、米価低迷のため、米を買い占める(幕府は、懸命
 なる策を講ずる)。
  幕府が、市場の米を買い上げ貯蔵し、米価の引き上げ
 を図った。
  米価下落によって、年貢収入の換金に支障をきたした
 旗本・御家人の武士階級を救済した。
  1722年に、米の取引を活発化させるため、それまで禁
 止していた米の空米取引(名目的な先物買い取引)を一
 部解禁し、
  1728年には、これを全面的に公認とした。
  そして、1725には、江戸の富商3人に、買米を命じた。
  また、1729年から1731年にかけては、幕府自身が、毎
 年、買米を行った。
  さらに、諸藩に対しても、米の貯蔵を命じ、
  江戸と大坂への廻米を制限し、
  こうして、米の供給量を減らして、取引を活発にし、
 米価を引き上げようとした。
  しかし、市場経済に、幕府が介入しようとしても、効
 果は少なかった。
  米価は、傾向として下がり続けた。
  1730年・1731年には、通常の半額にまで下がった。
  武士の収入は半減してしまった。
  しかたなく幕府は、1735年に、公定価格を設けた。
  江戸では金1両で米1石4斗以下に、大坂では米1石
 について銀42匁以下という公定価格だった。
  この布告の徹底を、米商人・蔵宿・札差を残らず奉行
 所に集め、命じた。
  だが、これでも米価は傾向として下がり続けた。
1731年、米価調整のため、米会所を認めた。
1731年、幕府が、三ヵ年の倹約令を出した。
  米価下落のために出した(出・いずるを制した)。
1731年、中国、清代の画家・沈南蘋(しんなんぴん)が、
 来朝して画法を伝えた。
  日本の花鳥画に影響を与えた。南蘋派。
1732年、日本の総人口:26,922,000人
1732年、享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)
  西日本(近畿・中国・四国および九州地方一帯)を襲
 った大飢饉(江戸時代の三大飢饉の一つ)、死者多数。
  近畿以西の山陽・南海・西海・畿内に、暖冬に次ぐ冷
 夏で、虫害を伴い、米の大凶作が起こった。
  蝗虫(こうちゅう)(イナゴ説もあるが、ウンカ説が
 有力)の大量発生であった。
  草間伊助筆記に、
  「七八月ニ到り、西国・九州・四国・中国筋都テ稲虫一チ
 時ニ生シ、次第次第ニ五畿内マデも移り、此虫後ニハ大
 キニ相成りこがね虫之如クニテ悉ク稲ヲ喰ヒ枯シ申候、
  (中略)、其虫形チ甲冑ヲ帯シたるやうニありて、一夜
 之内ニ数万石之稲ヲ喰ヒ、田畑夥敷損毛有之、土民飢渇
 ニ及ヒ、西国筋、五畿内大坂辺マデ道路ニ倒レ候もの数
 しれす、米価古銀ニテ五六月頃、七月中旬マデハ壱石六
 拾四五匁、追々高直ニ相成り、九十月之頃百弐三十匁ニ
 成候」
1732年、農業:甘藷の栽培が広まる。
1732年、吉宗が、尾張徳川宗春の言動を糺す(ただす、
 物事の理非を明らかにする)。
  徳川宗春は、1730年に、死亡した兄に代わり、第七代
 尾張藩主となった。
  江戸では、将軍・吉宗が、享保の改革で倹約政策を実
 施していた。
  宗春の著書「温知政要(おんちせいよう、1731年に脱
 稿、1732年に刷られた)」には、
  「倹約は大事だけれども、度が過ぎると民の不自由に
 なる」と書かれていた。
  そして、宗春は、初代藩主の墓参りの際には,真っ赤
 な着物に亀の甲の笠をかぶり、白い牛に乗って出かけた。
  また、宗春は、尾張(名古屋)に無かった遊郭を3ヶ
 所作った。
  また、当時、倹約のために禁止されていた武士の芝居
 見物を許した。
  倹約ムードの日本の中で、名古屋だけは江戸の令を無
 視した行動が行われていた。
  しかし、活気は満ちていた。
  この状況について、吉宗は、宗春の言動を糺しても変
 わらなかった。
  将軍・吉宗は、1739年に、宗春に蟄居謹慎を命じた。
  宗春は、これ以外でも、江戸の幕府が改鋳で金融緩和
 をしている時に、尾張藩では、逆に引き締め政策を行な
 ったりしていた。
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