(増補版)146D1/3:気になった事柄を集めた年表(1712年〜1713年)

題:(増補版)146D1/3:気になった事柄を集めた年表(1712年〜1713年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1712年3月、経済政策:大阪銅座を廃した。
  幕府が、大阪銅座を廃し、銅吹屋仲間に貿易銅500万斤
 を長崎への回送を命じた(5月に、再命令)
1712年5月、経済政策:銅を回送。
  長崎貿易決済のため、銅を回送した。
  長崎貿易で、金銀の流出がおびただしかったため、金
 銀に替わる貿易決済手段としての銅だった。
  また、樟脳(しょうのう)や佐渡の干し鮑(あわび)
 も回送した。
  輸入量の超過状態を緩和したかった。
1712年、経済政策:大判金の通用を制限した。
1712年9月、経済政策:人事・勘定奉行の萩原重秀が罷免さ
 れた。
1712年11月、6代将軍の徳川家宣(いえのぶ)が没した(
 1662年〜1712年)(将軍在任期間:1709年〜1712年)
  慈悲深い将軍だったという。
  萩原重秀を、「才あるものは徳あらず。徳あるものは
 才あらず。真材誠に得がたし」と、批判を受ける萩原を
 死の直前まで盛り立て、重用し続けた。
  しかし、病没寸前の家宣は、白石からの度重なる弾劾
 に、ついに折れた。
1712年、出版:新井白石が、「読史余論(とくしよろん)」
 を著した。
  史論書。家宣に日本史を進講した際の講義案。
  文徳天皇に始まり、豊臣秀吉の天下統一までを14段階
 に分け、
  公家の衰退と武家政権の勃興・成立の必然性、
  そして、発展の過程を明らかにして、武家政治の擁護
 と江戸幕府の正統性を主張しようとした。
  歴史の発展段階の把握など、史論として評価が高く、
  近世以前の代表的史書の一つと言われる。
  師の木下順庵(きのしたじゅんあん)の「本朝通鑑(
 ほんちょうつがん)」の説を、大幅に取り入れている。
  随所に白石の独創的見解が示されている。
1712年、消防:『方角火消』を5方角5組に改編した。
  幕府が組織した火消しは、武士によって組織された武
 家火消(ぶけびけし)と、
  町人によって組織された町火消(まちびけし)に大別
 された。
  武家火消は、幕府直轄で、旗本が担当した定火消(じ
 ょうびけし)と、
  大名に課役として命じられた大名火消(だいみょうび
 けし)に分けて制度化された。
  そのため、合わせて3系統の消防組織が存在していた。
  方角火消(ほうがくびけし)は、1657年に始まり、
  明暦の大火直後に、大名12名を選び、桜田筋・山手筋・
 下谷筋の3組で編成した火消し役となった。
  そして、元禄年間に、東西南北の4組に改編され、方角
 火消と呼ばれるようになり、1712年に、5方角5組に改編
 された。
  これ以降、江戸の火消は、改編がなされながら発展し
 て行く。
  そして、大名屋敷内では、通常より高い「火の見櫓(
 ひのみやぐら)」が許されたりする。
1712年、ルソーが、スイスに生まれる(1712年〜1778年)
  哲学者、政治哲学者、作曲家。
  1762年の50歳の時に「社会契約論」を書いている。
  また、この年に書いた小説形式の教育論「エミール」
 が、キリスト教に関係する「サヴォア人司祭の信仰告白
 の部分が、宗教的な内容で断罪された。
  卑劣な事に、禁書にされてしまった。
  そして、逮捕状が出たため、
  また、キリスト教の異端審問所などで死刑になる事も
 考えられたので、スイスに亡命した。
  亡命中は、スイス内やイギリスなどを転々とした。
  キリスト教のため、卑劣な人生を送る羽目となった。
  そして、1770年になって、偽名でパリへ戻った。
  パリでは、亡命中から執筆していた自叙伝「告白」を
 完成させた。
  続いて、最後の著作である「孤独な散歩者の夢想」の
 執筆を開始したが、
  この作品の完成を見ることなく、パリ郊外で死去した。
  優秀な哲学者、政治哲学者が、キリスト教によって無
 残な人生にされてしまった。その一人だった。
  天才・ガリレオの晩年も可哀想だった。
  卑劣な宗教によって、人類の叡智の多くが埋没した。
  この、人類の大きな損失を憂える。
1713年、7代将軍。徳川家継(いえつぐ)が将軍になった
 (1709年〜1716年)(将軍期間、1713年〜1716年)
  家宣の4男。最も幼少で将軍になった人。
  家宣が病に倒れ、新井白石間部詮房を呼び寄せられ、
  「次期将軍は尾張の徳川吉道にせよ。鍋松(家継の幼
 名)の処遇は吉道に任せよ」と、
  「鍋松を将軍にして、吉道を鍋松の世子として政務を
 代行せよ」の2案が遺言された。
  家宣が死去すると、白石は、
  「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣
 と、幕臣との間で争いが起こり、
  諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君
 を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こ
 ることはない」として、鍋松の擁立を推進した。
  これに対して、幕閣の間では、
  「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く、亡くなられた
 らどうするおつもりか」という反対意見も出た。
  その時、白石は、
  「その時は、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」
 と説得したという。
  また、一説に家宣が、
  「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五
 郎太か、徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か、
 吉宗に後見させよ」と遺言したという。
  こうして家宣没後の1713年に、鍋松は家継と改名し、
 将軍宣下を受け、第7代将軍に就任した。
1713年3月、奢侈(しゃし)禁止令を出す。
  将軍の家継が幼少で、権力は母親の月光院にあった。
  華麗な衣装、特に加賀紋や伊達紋は人気があって、華
 美だった。その禁令。
  女性の衣服を決定した。
  装束の布は絹、紬に限られ、縫い鹿の子、金糸、金箔、
 輸入品と新しく派手な染物、織物の着用を禁止した。
  (5月説がある)
1713年、経済政策:清の丁賦の額を一定とした
  盛生滋生人丁(せいせいじせいじんてい)を定め、丁
 賦(ていふ、人頭税、各個人に対して一律に同額を課す
 る租税)の額を一定とした。(1712年の説あり)
  官僚などの特権乱用者や、裕福で多くの丁戸を持つ者
 のごまかしや、貧困な農民の未納者などが多く、混乱し
 たため、定額として固定した。
1713年、経済政策:蔵米の蔵出日限厳守を命ず
  大阪市中の米価が騰貴のため、蔵米の蔵出日限厳守を
 命じた。
1713年、経済政策:諸国産銅の廻送
  貿易支払銅不足のため、大阪銅吹屋へ諸国産銅を廻送
 した。
1713年、政策:江戸の町地
  深川など代官支配地を、この年に、街並地として町奉
 行支配下へ組み込まれた。
  江戸川学園江戸川大学に適切に解説されている・・(
 一部を読みやすくした)
  江戸には、今日の東京都に当たるような統一的な行政
 組織はなく、
  支配は、身分別に行われた。
  そのため、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、
 武家地は大目付、目付支配と別々であった。
  故に、行政的に江戸の範囲がどこであるかは明確では
 なかった。
 中でも一般に、江戸の範囲と理解されているのは、町奉
 行の支配範囲であるが、
  これも、市街地の拡大と共に、周辺の農地が組み入れ
 られていった。
  当初は、ほぼ外郭内の古町(こちょう)300町と呼ばれ
 る範囲だった。
  しかし、1662(寛文2)年に、芝、三田、飯倉から下谷
 浅草に至る街道筋の代官支配の町300町が編入された。
  また、1713年には、本所、深川、浅草、小石川、牛込、
 市谷、四谷、赤坂、麻布辺りの代官支配で、町屋の成立
 した259町を編入した。
  併せて、この時に、933町となった。
  町並地の年貢の徴収は、代官が行っていたから、二重
 の支配構造だった。
  また、1719年に、本所、深川の開発に当たった本所奉
 行が廃止され、町奉行の支配となった。
  1745年には、寺社門前地440箇所、境内227町が移管さ
 れた。
  その結果、町奉行支配範囲は、下高輪、白金台町、目
 黒、白金、渋谷、千駄ヶ谷巣鴨駒込、谷中、坂本、
 箕輪、橋場、本所、小梅、深川猿江、永代新田、平野新
 田となった。
1713年頃、出版:寺島良安の「和漢三才図絵」
  大坂の医師の寺島良安が、図説百科事典の「和漢三才
 図絵(わかんさんずいえ)」を刊行した(1712年説あり)。
  中国の王圻(おうき)の「三才図会」を範としている。
  天文、人物、禽獣、草木、器物、地理などを80余に分
 類して、図入りで解説をし、考証も加えている。
  これは、編者の師の和気仲安の言葉・・、
  「医者たる者は、宇宙百般の事を明らむ必要あり」に
 従い、著述を計画したという。
  各事項は、広く国内を旅行して実地踏査し、
  種類、製法、用途、薬効などを明記して、
  客観的、合理的な解説を施した。
  図解は分析的。
  神社仏閣は、歴史よりも縁起をとり、
  公卿や有職は、伝承のままとしたという凡例が記され
 ている。
  明解で正確さによって、発行から約200年間の明治時代
 に至るまで実用された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009