(増補版)147D1/3:気になった事柄を集めた年表(1713年〜1714年)

題:(増補版)147D1/3:気になった事柄を集めた年表(1713年〜1714年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1713年、出版:貝原益軒
  貝原益軒が、「岐蘇路記(きそじのき)」を刊行した。
1713年、ユトレヒト条約が締結された。
  スペイン継承戦争参加国の講和(オーストリアを除く)
  この戦争は、イギリスの「一人勝ちである」と言うが、
 講和の内容は、まったく卑劣の一語に尽きる(例えば、
 奴隷貿易の利益の奪い合いがあるという様に、何しろ、
 餓鬼の欲得の世界である、軽蔑すべき我欲の世界に、う
 ごめいていたイギリスはじめ、キリスト教のヨーロッパ
 諸国だった)。
  内容:1、イギリスは、スペインの奴隷貿易に参入で
      きる。
  2、イギリスは、スペイン王国より、ジブラルタル
   びメノルカ島を譲り受けることができる。
  3、イギリスは、フランス王国より、北アメリカのア
   カディアとニューファンドランド島ハドソン湾
   方を譲り受けることができる。
  そして、今後、フランスとスペインの合同をしないこ
 とを条件に、スペインの王位(フランスのルイ14世の孫
 のフェリペ5世)を認めた。
  しかし、フランスの王位継承権は、放棄させられた。
  王位が欲しいとか、王位を継続したいとかのヨーロッ
 パだった。そこには、民は、いなかった。
1713年、オーストリア皇帝カール6世が、国事詔書(プラグ
 マティッシェ・ザイクツィオン)を発布した。
  王位継承についての法。
  相続についてとか、帝位につくこととか、家領を残す
 ためとかの家憲についてとか・・と、
  王位についての、自分たちの特権についてだけの事。
  ここにも、民は、いなかった。
  ハンガリー女王であり、オーストリア女大公であり、
 ボヘミア女王であったマリア・テレジア(はるかヨルダ
 ン川でキリスト教の洗礼をしたという人)も承継戦争に
 関わってうごめいた。
1714年2月、施策:密貿易を厳禁とした。
  幕府が、抜荷(密貿易)を厳禁。
  翌年、長崎貿易を制限。
1714年5月、経済政策:金銀貨の品位を旧に復す。
  金銀貨を改鋳し、慶長金銀の品位へ旧に復した(正徳
 金銀)、
  すると、新金銀の通用以前の状態に銭貨は急騰した。
  そのため、7月には、幕府は、銭価の禁止する令を出し
 た。
1714年5月、事件:銀座不正摘発、銀座関係者を処罰した。
  幕府は、元勘定奉行の荻原重秀と結び、暴利をむさぼ
 っていた中村内蔵助ら銀座関係者10名に、遠島・追放・
 逼塞(ひっそく、門を閉ざし、昼間の出入りを許さない
 もの)などの刑を言い渡した。
  重秀は、長く勘定奉行の要職におり、銀座関係者らと
 結託して金貨・銀貨の質を落として貨幣を多く流通させ
 た。
  中村は、不正に得た利益で、京都の一等地に3600坪(
 12000㎡)の巨大邸宅を構えていたという。
1714年8月、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、画家・浮世絵
 師)が没す。「見返り美人図」
  生年は、1618年または1630年、もしくは1631年と言わ
 れ、クエスチョンマークが付けられる場合もある。
  また、没年は、1694年とも言われる。
1714年8月、貝原益軒(かいばらえきけん、本草学者・儒学
 者)が没す(1630年〜1714年)「養生訓」
  「心を平(たいらか)にして気を和(なごやか)にす
 る。これ身を養い徳を養う工夫なり」(養生訓)
1714年9月、浅草に鋳銭所を設置した。
1714年9月、竹本義太夫(たけもとぎだゆう、義太夫節浄瑠
 璃の創始者)が没す(1651年〜1714年)
  大阪に竹本座を開設し、近松門左衛門を作者に迎えて
 繰り芝居(繰り人形を用いてする芝居)を興行し、人形
 浄瑠璃を大成した。
1714年、世相:デフレで経済混乱
  デフレで、新旧貨幣の交換に関する投機などで、経済
 混乱。
  1714年に行われた金貨の品位向上は、慶長金貨の品位
 を84%〜87%までの引上げたのだった・・が、また、
  元禄・宝永小判二両に相当する品位84%の正徳小判を
 発行したのだが・・、
  しかし、正徳小判の品位は、慶長小判に劣るとの風評
 が立った。
  そこで、翌年の1715年に、さらに品位の高い改鋳を行
 った。
  慶長小判と同品位の享保小判(品位87%)を発行した。
  金銀貨の流通量は、減少傾向を強め、
  物価は、大きく下落した。
  デフレ経済に陥った。
  武士や民・百姓へ、深刻な影響を与えた。
1714年、事件:大奥老女の絵島(絵島・生島事件)
  幕府が、大奥老女の絵島(えじま)らを処罰した。
  当時、名代(なだい)の歌舞伎役者・生島新五郎(い
 くしましんごろう)との恋愛沙汰が露顕した・というも
 の・・しかし、
  この背後に、将軍の側近たちによる派閥に対する、譜
 代大名や旗本、および、先代将軍に仕えた者たちとの派
 閥争いがあったという。
  参詣帰りに芝居見物し、帰りが夕暮れになったことに
 端を発している。
  絵島は、死一等を減じ遠流とされ、月光院(将軍家継
 の生母)の願いによって、信州高遠(長野県伊那市)に
 高遠藩の預けとなった。
  絵島の兄は、死罪に処せられた。
  生島は、三宅島に流罪となった。
  その他、旗本、奥医師、陪臣、呉服師とその手代、座
 元、役者、商人などの連座したものが多数いた。
  また、大奥女中の67人が、親戚への預けとなった。
  この後、絵島は、高遠の囲屋敷で27年を過ごし、1741
 年に、61歳で生涯を閉じた。
  生島は、この翌年に赦され、江戸に帰れた。
1714年、出版:荻生徂徠の「蘐園随筆(けんえんずいひつ
 )」が刊行した。
  蘐園は、徂徠の別号。
  1709年に、門人の手で編集が開始された。
  古学の開創者・伊藤仁斎(じんさい)への景慕(けい
 ぼ、仰ぎしたうこと)が、一転して憎悪に変わったため
 仁斎の学問性への先駆を認めながらも厳しい批判の書と
 なっている。
  本書は、一躍、徂徠の文名(ぶんめい、作家としての
 名声)を高らしめた。
  後に、将軍・吉宗から、間接に、政治上の諮問を受け
 る様になった。
  この諮問に答えて、幕府政治の改革案を述べた著書が
 「政談」で、
  吉宗は、徂徠を、幕府に登用する意思があったと伝え
 られるが、徂徠が病死したために、実現には至らなかっ
 た。
1714年、ラシュタット条約が結ばれた。
  イギリス・オランダ・オーストリアの連合諸国と、フ
 ランスとの間で争われたスペイン承継戦争の、
  終結のための条約で、ユトレヒト条約を補足するもの。
  フランスとドイツ(オーストリア)の講和。
  スペインは王位を承認されたが、南ネーデルランド
 オーストリアに譲渡が認められた。
  国交断絶とか、王位を認めたとか、戦争ばかりのヨー
 ロッパが延々と続く。民は度外視の世界。
1714年、イギリス、アン女王没し、スチュアート朝断絶、
 ハノーヴァー朝成立。
  1692年に成立したハノーファー公国の君主の家系であ
 ったが、この年に、スチュアート朝に代わってイギリス
 の王家となった。
  女子の継承を認めていなかったため、この家は、1837
 年に、ヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって、イ
 ギリス王家から分枝する。
  合従連衡の世界だった。
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