(増補版)145D1/3:気になった事柄を集めた年表(1710年〜1711年)

題:(増補版)145D1/3:気になった事柄を集めた年表(1710年〜1711年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1710年、政策:沽券絵図(こけんえず)を作成させる
  沽券絵図は、街路の形態や、街路に沿った町の形状、
 および、町名が記された町割図、
  江戸の町名主に命じて沽券絵図が作成させた(正徳沽
 券図)
  沽券絵図は、町人の居住地に関する基本的公文書。
  佃島における沽券絵図の場合、地権者の署名押印や地
 価、地割、家守名などの記載がある。
  島内の道・堀の寸法、渡船・橋の位置など詳細に記さ
 れている。
  また、彩色した海の波や生い茂る葦の葉の濃淡など絵
 画的に非常に手の込んだ表現となっている。
  また、麻布本村町沽券図は、屋敷ごとに間口・奥行・
 坪数・家屋敷の金額・地主名・家守名・辻番や火の見の
 位置、下水、道幅などが記されている。
  その他、木戸、番屋、町役人の詰める役所など、宿場
 の場合、街道に沿って立ち並ぶ旅籠(はたご)など一軒
 ごとの間取りなども記している(日本人の几帳面さが出
 ている)。
  沽券絵図は江戸の場合で、大阪は水帳絵図という。
1710年、天皇閑院宮家(かんいんのみやけ)
  東山天皇の第八子直仁親王をもって閑院宮家をたてる。
  皇統の断絶を危惧した東山天皇が、将軍徳川家宣の舅
 でもある関白近衛基熙を通じて、実子である秀宮(直仁
 親王)に新宮家を創設させるとし、
  また、同様の危機感を抱いていた新井白石が、徳川将
 軍家に御三家があるように、朝廷にもそれを補完する新
 たな宮家が必要との建言を将軍徳川家宣に出した。
1710年、浅野長広(あさのながひろ、通称:浅野大学)が、
 旗本に取り立てられた。
  浅野長広は、元禄赤穂事件で改易・切腹となった赤穂
 藩主・浅野長矩の弟で、これで、浅野家の再興がなった。
  浅野長広が、将軍徳川家宣に拝謁し、改めて安房国
 朝夷郡・平郡(現:鴨川市)に500石の所領を賜わり旗本
 に復した。
  御家再興が果たせた、優しい日本だった。
1710年、芸能:吾妻三八が、「鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげ
 むさしあぶみ)(忠臣蔵物)」を大阪で上演し、120日間
 の長期興行を記録した。
  忠臣蔵物は、日本人の心情に通じ、色々と、また多く
 上演されて来たが、浅野家の再興となって、また、庶民
 は沸き立った。
  この興行以外にも、京都の夷屋座をはじめ、京阪の諸
 座が競って赤穂浪士劇を演じた。
  人形浄瑠璃においても、大阪の豊竹座や竹本座で相次
 いで上演された。
1710年、出版:貝原益軒(1630年〜1714年))が、「和俗
 童子訓(わぞくどうじくん)」を刊行した。
  貝原益軒の有名な「養生訓」が書かれる3年前、益軒81
 歳の時の作。
  日本で最初の体系的な教育書だという。
  本邦最初であると言うだけでなく、幼児教育の重要性
 を強調した点で、世界的にいっても先駆的と中村学園
 学の解説に記されている。
  尚、更に、ヨーロッパで最初に幼児教育の重要性に着
 目したのはコメニウスであると言われ、17世紀の事であ
 るが、貝原益軒は、ほぼ同じ時代に、同じ考えの本書を
 発表していると、その偉大さを解説している。
  ものを言い始める時からの教育の必要性を述べ、過保
 護を戒め、さらに幼児教育の詳細なカリキュラムを与え
 ていると、
  そして、知識人を対象としたものではなく、農工商を
 ふくむ四民を広く対象としていると、
  そして、この後に発展して来る寺子屋教育、及び、明
 治以降の小学校教育の基礎となったと解説されている。
1710年、この頃、インドのパンジャブ地方で、シーク教
 の活動が激化する。
1711年2月、外交:朝鮮通信使の待遇、新井白石の建議で、
 朝鮮通信使の待遇を改めた。
  幕府の財政圧迫を理由として簡素化した。
  この件が、日朝間の外交摩擦に発展した(現在と同じ
 様に難しい国だった)
  通信使接遇に巨大な費用が必要だったという。
  それ故、白石は、来日招聘そのものに反対だったとい
 う。
  この点で、老中首座の土屋正直とぶつかった。
  白石は折れて、待遇簡素化が方針となったという経緯
 があった(対馬から江戸まで宴席が続いたという)。
  また、通過の各藩の藩主も出向かずともよいとした。
  また、接待に使用する小道具も蒔絵の塗り膳や陶磁器
 の高価なものは厳禁とした。
  そして、将軍の呼称も、再び「日本国王」に変更した。
  この説明は、「大君」は朝鮮国内においては王子の
 ことを指すので、対等ではないので国王に戻した・・と。
  この頃の朝鮮通信使は、饗応に出た蒔絵の塗り膳や床
 の間の陶磁器から夜具まで、盗んで行ったという。
  この待遇レベルの件は、果てしない日朝双方の議論を
 生んだという(あの件もそうなるでしょう?)。
1711年3月、人事:三宅観瀾(みやけかんらん)と室鳩巣が、
 幕府の儒者となった。
  三宅観瀾は、江戸に出て、推薦されて水戸藩に仕え、
 また、そこの上司が、三宅の書いた楠木正成についての
 文章を徳川光圀に見せたことが切っ掛けで、彰考館編修
 となり「大日本史」に従事した(優秀さもあったが人柄
 が良かったのだろう。また、優秀な人材を取り立てる幕
 府でもあった)。
  室鳩巣は、初め金沢藩に仕え、英才の誉れ高く、白石
 の推薦で儒者となった秀才。
  身分の差なく、秀才を集める幕府だった。
  戦乱のヨーロッパと違う、また、王位をめぐって争う
 ヨーロッパと違う、知的な日本だった。
1711年、運輸政策・御定賃銭(おさだめちんせん)
  諸関に駅路・船渡・辻駕篭・廻船などの御定賃銭の高
 札を立てた。
  御定賃銭は、幕府の定めた公定賃銭のこと。
  次の宿駅までの御定賃銭が高札にて示された。
1711年、朝廷の権威の巨大化に対する警戒論
  将軍が、天皇を尊んでも、それによって幕府の支配秩
 序に危険を感じない、安定期の幕府の時代に入った。
  かえって将軍の権威の修飾になると感じられる状態に
 なった。
  中流貴族以下の公家の中には、長く武家に対する反感
 は残っていたが・・、
  勅使を迎えての幕府の式典の際など、武家の気遣いは、
 異常なほどのものがあった。
  将軍・大名・上級諸役人、いずれも、律令制の官位を
 受けていた。
  これらは、装飾的称号にすぎなかったが、
  公儀の権力の陰の朝廷の権威巨大化に対する警戒論は、
 新井白石荻生徂徠らが指摘していた。
1711年、芸能:近松門左衛門の作の、「冥途の飛脚(めい
 どのひきゃく、浄瑠璃)」が、大阪の竹本座で初演され
 た。
  これは、実際に起きた大坂の飛脚問屋の亀屋の養子の
 忠兵衛の話。
  忠兵衛が、新町の遊女梅川を身請けするため、公金に
 手を付け、
  梅川とともに、故郷の新口村(にのくちむら)に逃げ
 るが、捕らえられるという、為替金横領事件を脚色した。
1711年、コサック軍の反乱者のコズイレフスキーと、アン
 ツィフェーロフの2人が、初めてカムチャッカから千島
 列島(クリル諸島)に遠征。
  NPO法人、神奈川県日本ユーラシア協会に、
  1710年4月?に 、日本人のサニマは、カムチャツカの
 太平洋岸、ペトロパヴロフスクの北方のカリギル湾ボブ
 ロヴォエ海岸に漂着する。
  10人の仲間とともに上陸したが、
  原住民カムチャダールに襲われて4人殺され、6人が捕
 虜になった。
  その後、カムチャダール人とロシアのコサック兵との
 戦闘が起こり、
  さらに、日本人の2名が死に、
  残るサマニら4名が、ロシア軍の捕虜となった。
  ロシア人は、サマニらを、カムチャツカ川上流のヴェ
 ルフネ-カムチャツクへ連れて行き、
  代官のピョートル・チリコフに引き渡した。
  (別の説:ピョートル・チリコフに引き渡された4名の
 日本人は、1708年に、カムチャツカに漂着した別の日本
 人で、サマニらは、4人がカムチャダール人に殺され、6
 人がコサックのダニラ・ヤコブレヴィチ・アンツィフェ
 ロフに捕らえられた・・という説もあり)。
   ヴェルフネ-カムチャツクに連行された日本人のうち
 サマニと、もう1人を残して、あとは間もなく死んだとも
 伝えられる。
  1711〜13年、アンツィフェーロフとコズイレフスキー
 は、クリル列島を探検する。
  サニマは、コジレフスキーの千島探検に水先案内人、
 および、通訳として同行した。
  探検隊は、1711年8月、千島最北端の占守島に上陸。
  さらに、第2島のパラムシル島に立ち寄り、
  住民にサヤーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶され
 る。
   1713年、コズイレフスキーは、再び、占守島に立ち寄
 った後、パラムシル島に上陸し、
  苛烈な戦いの末、住民にサヤークを献納させ、ロシア
 の支配を認めさせた。
  このとき、コズイレフスキーは、パラムシル島に交易
 に来ていた択捉島の住人シタナイを連れ帰った。
1711年、新井白石が「正徳の治」という政治改革を行う。
  正徳年間(1711〜1716)。
  新井白石(1657年3月24日生誕〜1725年6月29日没、68
 歳)、無役の旗本であり政治学者であったが、
  6代将軍・徳川家宣の侍講として、幕政を実質的に主導
 した。
  白石は、かつて明の「勘合符(かんごうふ)」とそっ
 くりな信牌(しんぱい)という割符をもつ中国にのみ貿
 易を許すとした(日本が主導)。
  この信牌には、日本の年号を用い、中国に対しては俗
 称の「唐」で通し、
  清朝は、その屈辱に耐えた。
  周辺国が、中国から国として認識してもらっている様
 な状況であった中、日本は、対等な国の立場を崩さなか
 った。
  毅然と、中国の冊封体制を否定する日本だった。
1711年、捕鯨は、ノルウェー・フランス・スペインが、す
 でに古くから(9世紀)行っているが、
  この年、アメリカが、マッコウクジラ漁を始めた。
  アメリカは、19世紀に大西洋のクジラを取り尽くし、
 日本近海に現れる様になった。
  ランプの燃料の脂しか使わず、鯨のほとんどを捨てる
 という可哀想な動物愛護からほど遠い行為のアメリカだ
 った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009