(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年〜1704年)

題:(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年〜1704年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1702年、飛騨屋久兵衛が松前に渡り、尻別において唐檜(
 エゾマツ)の伐木事業を始めた。
1702年7月18日、事件:浅野家へおあずけ
  浅野長矩の弟の浅野大学(だいがく、浅野長広)が、
 広島藩主:浅野家へおあずけの身となった。
1702年、経済:江戸で地代・店賃が取り調べられた。
1702年閏8月、経済:金銀訴訟の相対済令(あいたいすまし
 れい)、享保の改革で発布された法令の一。
  前年までの金銀訴訟を相対済とした(金銀貸借や売掛
 金などの紛争の訴訟に公権力は関与しない)。
  訴訟事務の停滞を理由に、既往の金銭貸借の訴訟は受
 理せず、当事者間で解決させることとした。
1702年、経済:物価低減令
1702年、出版:新井白石が著した「藩翰譜(はんかんぷ、
 歴史書)」が完成した。
  甲府藩主の徳川綱豊(後の、6代将軍家宣)に、1701年
 に、命じられていた。
  1600年からの80年間における、1万石以上の大名の337
 家について、その始封、襲封(しゅうほう、諸侯が領地
 をうけつぐこと)、廃除などを記したもの(由来と事績・
 業績を集録し、系図を付けた)。全13巻。
  本書は、幕藩体制の鳥瞰図(ちょうかんず)的役割を
 持つことのほか、政治の参考書であり、道徳教訓書でも
 あった。
  内容の優れた文章と、豊かな内容とによって、家宣は
 死ぬまで座右を離さなかったという。
  また、武家一般に広く読まれ、大名家で本書を備えな
 いものはなく、古今いまだその比を見ないと言われた。
  白石は、全精力を傾けて書いたため、「白髪満頭(頭
 が白髪・しらがで真っ白になった・・という意味らしい)」
 になったと告白している。
  実証主義を堅持し、学問的良心の強さがみられる。
  本書は、その後、権威ある著作として、標準的史書
 として扱われ、よく引き合いにも出された。
1702年、イギリス:アン女王戦争が起きた(英仏植民地戦
 争、〜1713年)
  スペイン継承戦争の際に、アメリカ大陸で行われてい
 た戦争。
  この戦争の結果、イギリスは、アメリカへの奴隷貿易
 の特権を得た(卑劣な権利の獲得)。
  また、ニューファンドランドノバスコシア、ハドソ
 ン湾沿岸地方の新たな領土を獲得し、獲得領土が拡大し
 た(カナダの東端地域で、ニューヨーク・ボストンの北
 方地域)。
  卑劣な事に、この後も、何度も戦争を繰り返す好戦国。
1702年、イギリスの利益収奪行為の「東インド会社」が、
 植民地の虐げ行為が行き過ぎと感じたのか、2社が合同さ
 れた(イギリスの行為を代行していた)。
  しかし、合同後も、この2社は、懲りずに新旧の2派を
 新たに作って対立した。
1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士が、吉良邸
 へ討ち入った(仇討ち)。
  そして、主君の仇である吉良義央を殺し、その首を泉
 岳寺にある主君・浅野長矩(ながのり)の墓前に捧(ささ)
 げた。
  雪は、前日に降り、実際は日陰に残っている程度だっ
 た。
  仇討の中心人物は、家老の大石良雄で、1701年4月21日
 の事件から、1年9ヶ月が経っていた。
  芥川龍之介に「或日の大石蔵之助」がある。
1703年3月20日(元禄16年2月4日)、赤穂浪士切腹
  赤穂浪士46士が切腹した。
  同日、吉良家当主の義周(きらよしちか、)は、幕府
 評定所に呼び出された結果、領地を没収され、家名が断
 絶した。
1703年、演芸:近松門左衛門が、「傾城三の車」を京都で
 上演した(忠臣蔵物のさきがけ)
  1701年の浅野内匠頭の殿中切傷と切腹
  そして、翌々年の赤穂浪士討ち入りは、江戸の関心を
 集め、これに取材したおびただしい数の作品が、歌舞伎
 や人形浄瑠璃の舞台となった。
  最も早いものは、刃傷が行われたのと同年同月に、小
 栗判官的に脚色されて、江戸の山村座で上演された「東
 山栄華舞台」があり、
  次いで、浪士たちの切腹直後の曽我的に組まれた、江
 戸の中村座で演じられた「曙曽我夜討」と言われている。
  上演が確認できる最初の作品は、歌舞伎では、この時
 の、京都の早雲座二の替りの、近松門左衛門作「傾城三
 の車」である。
  その中の巻に、討入を示唆する場面がある。
1703年4月、事件:曾根崎心中
  醤油屋の手代の徳兵衛と遊女のお初が、大阪の曾根崎
 天神の森で心中した。
1703年5月、演芸:近松、大阪初演
  近松門左衛門が、「曾根崎心中」を、大阪の竹本座で
 初演した。
  この頃、上方で心中が流行した。
1703年、交通政策:借駕篭の数を制限した。
  江戸で、借駕篭の数を600挺に制限した。
  そして後に、さらに300挺にした。
1703年、出版:室鳩巣(むろきゅうそう、儒学者
  室鳩巣が「赤穂義人録(あこうぎじんろく)」を著し
 た。
  赤穂義士の仇討の一件を、赤穂義士を褒(ほ)め称(
 たた)える立場で、漢文で記した書。
  赤穂浪士の関係書物としては、最も早く流布した。
1703年、世相:打ちこわし
  長崎の町人が、米の買い占めを行なっていた米商を打
 ちこわした。
1703年、ピョートル1世(ロシア)が、ペテルブルグ(後の
 レニングラード)建設を開始した(要塞と港湾都市)。
  そして、1713年に、遷都した。
  ピュートル1世は、西欧技術・文化の輸入を図り、富国
 強兵に努めた。
1704年2月、初代・市川団十郎(いちかわだんじゅうろう、
 歌舞伎役者)が没した(1660年〜1704年)
  元禄時代を代表する名優。市川家の宗家。
  俳優の生島半六に舞台で刺殺された。屋号は成田屋
  祖先は広州の武士で、後に下総国(千葉県成田市)に
 移住して農を営んだ。
1704年、交通政策:助郷の取締り
  宿駅問屋場に役人を置き、無用の助郷を取り締まった。
  助郷(すけごう)は、宿駅常備の人馬が不足する場合、
 その補充のために、宿駅近くの村々に課された夫役(ぶ
 やく)。
  この助郷は、1694年に制度化されたが、助郷負担の見
 返りに出る手当は微々たるものであり、
  河止めにでもなれば、何日も拘束されるなど、
  その間、農作業が出来ないなど負担が重かった。
  その為、助郷の免除願いが出されたり、出勤簿だけ書
 いて逃走したりと、
  負担回避のための行動が行われた。
  また、この制度を悪用して、
  農民から金銭を集めて代役を安く雇い、利益を貪(む
 さぼ)る者も出た。
  雇われた人足は「雲助」と呼ばれた。
  年々、助郷の人数や、召集の回数が、次第に多くなり、
 農民は、農業が出来なくなり、百姓を止める人や、離散
 者が増えた。
  助郷一揆が、発生した例もある。
1704年、政治:綱吉の将軍世子
  甲府城主が徳川綱豊を将軍世子とし、家宣と改名させ
 た。
  綱吉が、継嗣子を得られず、甥の甲府の徳川綱豊(綱
 吉の兄・綱重の子)を将軍職後継者に定めた。
1704年、天災・洪水:利根川に洪水が起きた。
1704年、芸術:尾形光琳(おがたこうりん、画家、工芸家
 が、江戸に下り、大名や豪商らの支持を得た(1658年〜
 1716年)
  光琳は、5年ほど江戸に滞在した後、1709年に、京都へ
 戻っている。
1704年、社会資本整備:大和川
  幕府が、大和川の付替え工事に着手した。
  岸和田・三田・明石・高取・丹羽・柏原藩などの助役
 により付替工事が完成した。
1704年、清で典礼問題が起こり、ローマ法王が、軍隊式に
 組織されていたイエズス会を異端とした。
  このイエズス会は、資金を得るため商業を営んでもい
 た。
  法王の勅書を守らないイエズス会司祭を破門にした。
1704年8月、イギリスが、ジブラルタルを占領した。
  スペイン継承戦争における戦闘の一つ。
  イギリスは、地中海の橋頭堡を得たいと、1703年に、
 まず、ポルトガルリスボンを海軍の寄港地とし、
  オーストリアを同盟軍に招き入れ、
  イギリス・オランダ艦隊にオーストリア軍も乗せて派
 遣し、紆余曲折の後、スペイン南端の港湾都市ジブラル
 タルを守備するスペイン軍を降伏させ、占領した。
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