(増補版)170D1/3:気になった事柄を集めた年表(1745年〜1750年)

題:(増補版)170D1/3:気になった事柄を集めた年表(1745年〜1750年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1746年、塙保己一はなわほきいち、国学者)が生まれた
 (1746年〜1821年)、
  7歳で失明し、15歳で江戸に出て、
  国学賀茂真淵(かものまぶち)・山岡明阿弥(やま
 おかみょうあみ)に学んだ。
  抜群の記憶力により、和漢の学に通暁(つうぎょう、
 精通、物事に通じていること)し、
  幕府の保護もとに、和学講談所を建て、「群書類従
 ぐんしょるいじゅう、古書を集大成した)」などの編纂
 事業に携わった(40年を費やして完成したとのこと、続
 編にも着手した)。
1746年、吾妻三八(あづまさんぱち、歌舞伎役者、作者)
 が「扇矢数47本」を大阪で上演した。
1746年、経済:荷物の保険と金銀為替を開く
  嶋屋佐右衛門が、陸奥福島と京都間を往復、荷物の保
 険と金銀為替を開く。
  大友大江丸(おおともおおえまる、晩年の号)の江戸
 店での屋号が嶋屋佐右衛門。
  俳人でも有名。飛脚問屋を営む。
  三度飛脚と称して、毎月3度、江戸、京都、大阪間を
 往復するようになった。
1746年、人事:小姓番組頭格の大岡忠光(おおおかただみ
 つ)が、将軍・家重の側用人となる。
  御側御用取次側衆に異動し、石高1200石加増。
1746年、処罰:大盗の浜嶋庄兵衛(日本左衛門、にほんざ
 えもん)が指名手配され、翌年に捕まり、斬首となる。
  東海道筋で手下をひきいて強盗をかさね、お尋ね者と
 なる。
  1747年に、京都町奉行に自首し、1747年3月21日に、江
 戸で処刑された。
  歌舞伎の「白浪(しらなみ)五人男」の日本駄右衛門
 (にっぽんだえもん)のモデル。
1747年5月、太宰春台(だざいしゅんだい、儒学者)が没す
 る(1680年〜1747年)、
  荻生徂徠に師事した。
  仕官したが自分の居場所ではないと悟ったか、退官し
 て以後、官途につかず、私塾を経営し、弟子を育てた。
  春台は、徂徠の農業を中心とした自給自足的な自然経
 済機構に立脚した経世論を認めながら、富国強兵を積極
 的に図るべきとし、その理論的裏付けをした。
  言葉:
  「位(くらい)高き人に、ものの上手はなきものにて、
  上手はいつも 賤しき者に出来(いでく)るなり」
1747年、三角測量によるカッシニのフランス地形図が作ら
 れた(開始された)(1747年〜1818年)
  カッシニ家は、何代にもわたって、三角測量によって
 カッシニ図を作り、
  これは、フランス全土の8万6400分の1という縮尺図で、
 全てで182葉あり、1793年に、完成させた。
1747年、ナーディル・シャー暗殺され、イラン混乱する。
1748年10月、大岡忠相(おおおかただすけ)が大名に列す
 る。
  これまでの功績により、4000石の加増を受け、三河1万
 石の大名となった。
  公正な判断を下す名奉行と言われた。
1748年、演芸:竹田出雲(たけだいずも、浄瑠璃作者)・
 並木千柳(なみきせんりゅう、並木宗輔のこと、浄瑠璃
 作者)らの合作の「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅう
 しんぐら」が、大坂・竹本座で上演(初演)され、好評
 を博した。
  人々が喜んで話題とした赤穂義士の討入りを材料とし
 て、時代を「太平記」の南北朝時代の世界にし、吉良
 上野(きらこうずけ)を高師直(こうのもろなお)、
 浅野長矩(ながのり)を塩谷判官(えんやはんがん)、
 大石良雄を大星由良之介とした。
1748年10月18日、アーヘンの和約(オーストリア継承戦争
 の終結条約)
  オーストリアは、列国からマリア・テレジアの帝位相
 続権の承認を取り付けた代償として、プロイセンその他
 に領土を割譲した。
  1668年に、ルイ14世のフランスが侵略を始め、スペイ
 ンのネーデルランド(オランダ・ベルギー・ルクセンブ
 ルグ辺りの国)の相続を要求した。
  イギリス・オランダは反撃した。
  相続問題は解決せず、
  イギリスは、スペインから、西インド諸島や北アメリ
 カの領土要求権を得た。
  17世紀以来、戦争を繰り返すイギリスとフランスが介
 入して、いざこざが拡大し、展開した戦争だったが、
  1748年に、オーストリア承継戦争の和約をした。
  あちこちで領土だ、相続だの戦争に明け暮れた。
1748年、モンテスキュー(フランス、思想家)が、「法の
 精神(ほうのせいしん、法律論)」を刊行した。
  20年を要した。
  立法・行政・司法の三権分立を主張した。
1749年10月、幕府が、足利学校(日本最古の学校)に修理
 費を下す。
  足利学校の創建には、奈良時代創建説、
  平安時代初期の小野篁(おののたかむら)創建説、
  鎌倉時代初期の足利義兼の創建説、
  室町時代中期の関東管領・上杉憲実(のりざね)創建
 説がある。
  存続の窮地を、家康が救ったという話もある。
  江戸期に入ると、所領も寄進され、また、足利の領主
 たちによっても保護を受け、
  足利近郷の人々が学ぶ郷学(ごうがく、村里の学校)
 として大切にされた。
  江戸期の学者たちは、貴重な古典籍を所蔵する図書館
 として注目していた。
  足利藩は藩校とした。
  明治になって多くの建物が壊された(変な西洋讃美の
 思想のため、日本古来からのものの軽視があった。
  明治期は、古来からの善きものが安易に壊された時代
 であった)。
1749年、年貢:定免制を全面施行した。
  定免制の、「免」は、年貢の賦課率のことで、
  過去の5年間や、10年間や、20年間などの田租額を平均
 して租額を定め、
  一定の期間内は、その年の豊凶に関係なく、一定額を
 徴収した。
  風水害などで損害が著しい時は、破免という処置をと
 って減税した。
1749年8月28日、ゲーテが生まれた(1749年〜1832年
  ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、
 法律家。
  キリスト教が原因の卑劣な長い戦いであった30年戦争
 で、ヨーロッパの方々の3分の1が亡くなるという荒廃か
 らようやく立ち直り、市民階級が台頭して来る人間中心
 主義の時代の中に生きた。
1750年、上杉鷹山(うえすぎようざん、上杉治憲、出羽国
 米沢藩の第9代藩主)が生まれた(1750年〜1822年)
  江戸時代屈指の名君。
  上杉鷹山公と、「公」を付けて呼ぶべき人。
  アメリカのJ・F・ケネディ元大統領や、ビル・クリン
 トン元大統領が、
  「もっとも尊敬する日本人」と言った人。
  キャロライン・ケネディ駐日大使(ケネディ元大統領
 の御令嬢)も、この事を明らかにされている。
  鷹山は、九州の日向(宮崎県)高鍋藩の藩主の子であ
 ったが、10歳の時、米沢藩の養子となる。
  17歳で家督を継いだが、
  この頃、米沢藩には多くの借財があった。
  深刻な財政難は、江戸の町人にも知られるくらいだっ
 た。
  町人は言った
  「新品の金物の金気(かなけ)を抜くには『上杉』と
 書いた紙を貼ったらいい」・・と、
  金のない上杉が、その金気を吸い取ってくれる・・と。
  鷹山は、苦労して、藩内を励まし、農民を励まし、
 治水を一生懸命し、商品作物を奨励し、
  特産物を作って、私工業を興し、
 社会システムを改善し、意識改革をし、
  倹約もてし、旧弊(きゅうへい、古い習慣・制度など
 の弊害、古い考えに捉われるなど)と戦い、
  飢饉とも戦い、非常食の普及に努め、
  学問所も再興して、身分の差なく学ばせ、
  騒動の辛い時期を乗り越え、
  破産寸前の藩財政を、立ち直りさせて行った。
  そして、借債を返して行った。
  紅花(べにばな)もこの頃からのもの、
  垣根の生垣も、役に立つ樹木に替えさせたりした。
  池に鯉を飼い、細かい改善にも意を配り、積み重ねた。
  「なせば成る、なさねばならぬ、何事も」は、鷹山の
 言葉。
  人間性のある、深さもある人だった。
  そして、「成らぬのは人の なさぬなりけり」・・と。
1750年1月、幕府、「強訴・徒党・逃散仕置」を再び禁止
  厳しい時代だった。
  この中、百姓の強訴の禁令をしく。
1750年、世界人口が:7億5000万人に。
1750年、日本の総人口、25,913,000人
1750年頃以降、日本のこの江戸時代を、欧米の書籍では「
 early modern age(アーリイ・モダーン・エイジ)」と
 呼び、そして、書く。
  「初期近代」だと見られている。
  この時代の日本には、近代資本主義社会を準備する要
 素が数多くあった、内包されていた。
  進んだ社会だったと・・知られている。
  世界に誇る日本であった・・と。
  この江戸時代の成熟があったればこそ、奇跡の明治維
 新へバトンタッチされて行った・・と言えるものがあっ
 たと言える。
  明治の革新は、何ら奇跡でも何でもなかった。
  その発展の布石は、江戸時代に築かれていた。
  これらの事は、いまでは自明な歴史常識となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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