(増補版)143D1/3:気になった事柄を集めた年表(1705年〜1706年)

題:(増補版)143D1/3:気になった事柄を集めた年表(1705年〜1706年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1705年、山脇東洋(やまわきとうよう、医学者)が生まれ
 た(1705年〜1762年)
  カワウソを解剖し、その結果、陰陽五行説の人体の内
 景に疑問を抱き、1754年に、京都所司代の許可を得て死
 刑囚を解剖した。
  その観察した結果を、1759年に、解剖図録「蔵志」と
 して刊行した。
  これは、当時の医学界に大きな影響を与えた。
  この山脇東洋の影響を受けて、江戸で、杉田玄白と前
 野良沢らが、オランダ医学書の翻訳に着手した。
  山脇東洋は、日本の医学の近代化に、大きく貢献した
 人物。
1705年2月、演芸:竹田出雲(たけだいずも、浄瑠璃作者、
 座元)、
  初代・竹田出雲が、この年に、引退していた竹本義太
 夫を舞台に復帰させ、
  義太夫から竹本座の座元を譲り受け、座元に就任し、
 再建した。
  竹田出雲は近松の門人だった。
  顔見世興行では、座付作者の近松門左衛門と組んで、
 竹本義太夫太夫としての浄瑠璃を上演した。
1705年、経済:藩札調査
  諸国通用の藩札を、この年に調査し、
  2年後の1707年に、幕府の発行する貨幣の流通に支障が
 あるとして、すべての藩札の使用を禁止した(宝永の札
 遣い停止令)。
  この禁止の解除は、1730年に行われた。
  領国の石高が、20万石以上の場合、通用期間25年、
  20万石以下であれば、通用期間15年とした。
  これには、諸藩の財政を救済する目的があった。
  この後、幕府の統制は、禁止と解除と揺れ動いて行く。
1705年、経済:銀相場の抑制を命じた
  江戸市中の銀相場の高騰につき、抑制を命じた。
1705年、幕府(綱吉)が、禁裏御料(領)の一万石を増進
 した。
  今まで、家康と秀忠からもあって、前後3回行われ、3
 万石余になった。
1705年、社会資本整備:大和川
  幕府が、鴻池と菱屋らの豪商の出資で、大阪の大和川
 を開削し、1000町歩余の新田を開いた。
1705年、政策:豪商の取り潰し
  大阪の代表的豪商の淀屋三郎右衛門(よどやさぶろう
 えもん、通称:辰五郎)が、幕府の奢侈(しゃし、度が
 過ぎた贅沢)禁止政策にふれ、闕所(けっしょ、全財産
 没収)・追放で、取り潰された。
  跡地は、堂島新地が開発されて、全国の米穀取引の中
 心となった。
  淀屋は、糸割符権、蔵米販売権、その他の特権を持っ
 ており、その店頭には米市がたった。
  豪奢な生活をし、ガラス天井をつくって金魚を放ち、
 涼を楽しんだという。
  その為、1705年のこの年に、町人の分限を越えた贅沢 
 のため、所払いの刑を受けた。
1705年、世相:おかげ参り
  伊勢へのおかげ参りが流行した。
  50日間で、参宮者が360万人に及んだ。
  伊勢神宮参詣の名目で、通行手形さえ発行してもらえ
 ば、実質的には、どの道を通って、何処へ旅をしても、
 あまり問題はなく、
  参詣を済ませた後には、京や大阪などの見物を、楽し
 むものも多かった。
  伊勢神宮参詣は、多くの庶民にとって一生に一度とも
 言える大きな夢であった。
  講もできて、無事に帰ると、帰還の祝が行われ、貧し
 くとも「講」の仕組みによって、一生に一度は、旅行の
 楽しみが味わえた。
1705年、農業:綿栽培
  この頃、摂津と河内の綿栽培は耕地の過半を占めた。
1705年、人物:徳川吉宗(とくがわよしむね)が紀州藩
 となった。
  この年に、長兄の綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、
 三兄の頼職が後を継いだ。
  しかし、この年に、父の光貞、
  そして、頼職までが、半年のうちに病死した。
  四男に生まれた吉宗は、22歳で紀州徳川家を相続し、
 第5代藩主に就任した。
  藩主に就任する際、将軍の綱吉から偏諱を賜わり、吉
 宗と改名した。
  偏諱(へんき)とは、貴人などの二字名の中の一方の
 字を忌(い)み避けること。
1706年6月、宝字丁銀(ほうじちょうぎん)を鋳造する。
  この年から鋳造し、1710年まで鋳造され、1721年まで
 通用した。
  銀の含有量の関係から、旧銀貨との引き換えに対する
 増歩は、年々、割合の比率が大きくなった。
  1706年から1709年2月までは1.5%、5月までは2.5%、
 6月までは3.5%、1710年までは6%と順次引き上げられた。
  幕府は、市中にある品位の高い貨幣もすべて「無差別
 通用」との触書を出した。
  幕府は、富士山噴火や南海地震などの自然災害もあり、
 財政はますます困窮した。
  萩原重秀は、将軍の承諾なしで、短期間に次々と丁銀
 の吹替えを行ない、改鋳利益を得ようとした。
1706年、政策:奉公人の給金の引上げを禁ず。
1706年、物価政策:江戸市中の豆腐の値段が下がらず。
  江戸市中の豆腐が、非常な高値を続けた。
  江戸町奉行は、豆腐の製造に従事している者を問いた
 だした。
  しかし、原料の大豆が大幅に値下がりしているのに関
 わらず、豆腐の値段が下がらない、そして、その納得の
 いく説明が得られない・・となった。
  そこで、幕府は、豆腐の大幅値下げを命じた。
  多くの豆腐屋は値下げに応じたが、7軒の豆腐屋が苦塩
 や油糟(あぶらかす)の高値を理由に応じなかった。
  この7軒に対し、町奉行は営業停止にした。
  幕府は、ここの商品ごとに物価対策を行わなければな
 らなくなった。
  江戸南町奉行大岡越前守忠相は、1723年10月に、「
 物価引き下げに関する意見書」を提出した。
  当時、談合が行われ、物価の操作が行われ、物価上昇
 の原因になっていた。
  幕府は、菜種の作付けを奨励したりした(物価を下げ
 るため)。
1706年、中国・清の第4代皇帝・康煕帝(こうきてい)は、
 中国の祭典の儀や、孔子礼拝、そして、先祖崇拝などの
 中国の儒教儀礼典礼)などを認める事について、
  中国のキリスト教聖職者は、布教に際して認めていた
 が、教皇が、典礼の参加を禁じたため、キリスト教の布
 教を禁止した。
  そして、典礼などを否認する否認派宣教師を追放した。
  キリスト教イエズス会は、中国の典礼を認めていて、
 キリスト教と中国宗教との妥協を受け入れていた。
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